9話 ぜつぼう
一週間空いてしまい申し訳ございませんでした。
今作もそろそろ終盤でございます。
まるで夢でも見ているような、突発性に満ち溢れた脈絡のない出来事の数々。
約束したナツキの未到来。
謎の人物による絶縁の指示。
電話口から聞こえた男の嘲る声と女性の悲鳴。
そして、それ以降全く音沙汰が無くなってしまったナツキのアカウント。
これらすべてが夢ならばどれほど良かっただろうか。
しかしながら残念なことに、すべて事実だった。
高校の頃に感じたあの転校生からの柔らかい拒絶による絶望感とは比にならない、精神が錯乱しそうになるほど途方も無い当惑と嘆きによる胸の痛み。
翌日、俺は大学を休んだ。
まともに講義を受ける精神状態ではなかった。
スマホの電源を落とし、何かから逃げるようにパソコンの画面に向かい、もう何度もやり尽くしたゲームを開く。
食事もとらずに、機械のように何時間もひたすらにプレイした。
ゲームをしている間は、嫌なことを忘れられる気がしたのだ。
大学? 課題? レポート? もうそんなものに注力する気力は俺に残っていない。
アルバイト? こんな精神状態でまともにこなせるはずもないし行く気にもならない。
社会の枠組みから外れようがもう何でもいい。
俺は大切なものを失ってしまった。
最初は俺の心の支えだった、そして今となっては俺の希望そのものになっていたナツキと、もう関係が無くなってしまったのだ。
会うことは叶わず、SNSは音信不通。
それだけで全てがどうでもよくなるほど、俺はナツキに心酔していたのだ。
顔も名前も知らない相手にのめり込み、わけもわからない状態で縁が切れたら人生すべてに嫌気がさしている俺のことを馬鹿みたいと笑うだろうか。
もう馬鹿でも何でもいいさ。
俺はもう二度とナツキと話せない。それは紛れもない事実だと、繋がらないSNSが証明している。
キーボードで操作中の画面を見つめていると腹の虫が鳴いた気がするが、とにかく俺は無我夢中でゲームをし続けた。
精神をギリギリ崩壊の崖の手前で留めてくれる現状最も有効な手段だ。
× × ×
どのくらいそうしていたのだろうか。
際限のないゲームな為、やろうと思えば無限にやり続けられる。
故にふと現実を思い出した時には既に外は暗かった。
何故、ゲームの精神安定世界から現実に戻されたのかといえば、インターホンが鳴ったからである。
何かを注文した記憶もなく、来訪に思い当たる節は無かった。
こんな気分で誰かと会話をする気にもなれず、俺は居留守を決め込もうとしたのだが、
――ゴンゴンッ!
来訪者は俺の部屋の玄関の扉を激しく叩き始めた。
異常となほど激しく叩き続けられ恐怖を感じつつ、恐る恐るドアスコープまで忍び寄って確認すると、そこには見たことのある人物が立っていた。
「おい、九十九! 居るなら出ろ!」
間違いでなければ、俺のバイト先である書店のマネージャーの日野という女性だった。
バイト先に居るのはせいぜい月に一、二回というレアキャラのようなマネージャーだが、ドアスコープ越しでも感じる謎の威圧感は彼女で間違いなさそうである。
俺の面接を担当した人でもあるが、幼い顔つきのくせにどこか威厳というか恐ろしいイメージがある。面接の時も滲み出る恐怖感で上手く喋れなかったっけ。
バイト先のマネージャーが来るということは、俺の無断欠勤の御咎め、若しくは強制連行にでも来たのだろうか。
どちらにせよ今の俺は、バイト先の偉い人が来ようが玄関を開けるつもりはない。
幸い、ずっとゲームしかしていなかった為、部屋の電気は消えたままである。
外から窓を見てもドアスコープのわずかな隙間を見ても、明かりが漏れていて在宅を悟られるといった心配もない
とはいえ居留守というのもスリルがあるものだった。
悲しいことに、こんなイレギュラーな事態でドーパミンが分泌されているからか、ゲームに没頭している時よりは精神的には気分が良かった。皮肉なものである。
相変わらずドアを叩く――というかたまに蹴ってるぞこの人――日野に、わずかな物音でばれる可能性を危惧して俺は忍び足で玄関を離れる。
あーあ、これでバイト先もクビだろうか。
暗闇の中、棒立ちで玄関を見つめていると、外から「しょうがないな」という声が聞こえた。
諦めたかな、と思った次の瞬間のことだ。
カチャカチャと俺の玄関のノブが音を発し始めた。
信じられないことに、マネージャーの日野は玄関を解錠しようとしているようだった。嘘だろ。
侵入しようとしてくる恐怖で、俺は脚が震え始める。
そしてもっと信じられないことに、ものの十秒ほどで鍵は開けられてしまった。
激しく開けられた玄関。月光を背後に、背の小さな日野のシルエットだけが俺の目に飛び込んでくる。
「おい九十九、何故出ない」
表情は見えないが、女性にしてはハスキーなおどろおどろしい日野の声音だけで、今の俺が竦み上がるには容易かった。
「す、すいません」
「何故店に来ない」
「すいません」
震えてしまっている声で謝ることしかできない俺。そりゃそうである。居留守も無断欠勤も、全面的に俺が悪い。
日野は玄関先から動こうとはせず、大きなため息を一つ吐いた。
「謝ってほしいのではない。何故来ないかを訊いている」
「そ、それは……」
……言えるわけがない。
心の支えですらあった俺の大切な人と、意味不明な状況で連絡も取れなくなり、何もかもが嫌になった――とか言ったら笑われそうだ。
結果、俺は動けぬまま脚だけを震わせて、何も口に出来なかった。
「ったく。一体今日はどうなってるんだ。九十九も来ないし蜜峰も来ない。どっちも電話にも出ないし」
「蜜峰……先輩も来てないんですか?」
じんわりと、俺の胸の中で鈍色の靄が広がる。
「夕方からのお前ら二人、どっちも来てない。先に蜜峰の家に行ってきたが、アイツに至っては家にもいない。というか恐らく、アイツ無断で引っ越したな」
「引っ越し――?」
――引っ越しの挨拶だよ。同じマンションの住人になるんだから、挨拶はしなきゃ。
俺の頭の中で、蜜峰の言葉がリフレインする。
鷺森憂妃に対するストーカー紛いの危険な発言。蜜峰は冗談だと言っていたが、もしかしたら冗談ではない?
ということは、鷺森憂妃は本当にストーカーされていた。その可能性がある。
そしてもう一つ繋がる事項がある。
『実は、友人がストーカーにつけ回されているらしい。僕そういうの経験も無くて全然わからなくて。リョウ、こういうときどうすればいいと思う?』
俺の心の支え、そして今は連絡すらできなくなったナツキの発言。
全てのタイミングが何かを示している気がする。
俺の中の嫌な色の靄が急速に全身に拡大していく。
「おい九十九、聞いているのか?」
「あ、はい、えとすいません」
思考迷路で螺旋を描いていた俺に日野の厳しい声がかかった。
「今日はもういい。店にはこれから私が出る。その代わり九十九、蜜峰に連絡を取ってみてくれ。今後、店に来る気があるにしろないにしろ、結果を私に連絡しろ。いいな?」
ドア枠に凭れ掛かるようにして腕を組んだ日野の顔半分に月光が照射し、ようやく表情が見えた。
若干垂れ気味の大きな目の童顔。切り揃えられたショートボブが幼さを増している。
やはりどう見てもマネージャーという年齢ではない。俺と同じか年下にすら見える。
「分かりました」
「明日は来るんだろうな?」
日本刀のような鋭い眼光を向けられ、俺は無条件で「はい」と答えていた。いや恐ろしい。何食べたらそんな威圧感出せるんだろう。
「連絡、頼むぞ」
それだけ言うと、日野は俺に何かをふわりと投げて去って行った。
反射的に受け取ったそれは、変な形をした金属の棒のようなもの二本だった。恐らくピックング道具だろう。
ピッキングの技術といい恐ろしい威圧感といい、あのチビマネージャーは一体何者なんだろうか。
× × ×
翌日。
俺は大学に居た。
昨日の引きこもりがまるで嘘だったかのように体も心も軽い。
今の俺は調べなければならないことがあるからだ。
蜜峰の失踪、ストーカー疑惑。
ナツキとの連絡途絶。電話口から聞こえた女性の悲鳴。
もしかするとすべて繋がっているかもしれない。
それはつまり、ナツキに関することなのかもしれない、ということに他ならない。
ならば今の俺が部屋に引きこもり絶望に打ちひしがれている理由などない。
昼休み、俺はいつもの洋食屋に赴くことはせず、ひたすらに大学構内を練り歩いた。
確認しなければならないことがあるからである。
昨日の夜、俺は日野マネージャーの指示通りに蜜峰に連絡を取った。
メール、電話、SNS、その全てで試みたが、蜜峰が応答することは無かった。
大学の蜜峰と同じ学部、恐らく友人であろう人物に問うてみたところ、昨日から蜜峰は大学に来ていないということも判明した。
そしてつい先ほど、この間俺が鷺森憂妃を追跡した際に話していたであろう女性二人を見つけ、鷺森について同じ問いをすると、同じような返答が返ってきた。
こういう時だけ謎のコミュ力を発揮する自分に苦笑しつつ、内心では嫌な予感が募る一方だった。
もしも俺の推測が正しいならば――。
ナツキは鷺森憂妃だった可能性がある。
友人のストーカー被害の相談を俺に持ちかけてきたナツキ。
冗談と称してストーカー紛いの危険な発言をしていた蜜峰。
そして同時期に姿を見せなくなった蜜峰と鷺森。
タイミングが合致しすぎている。
もしもナツキの相談が、友人と称しその実自分のストーカー被害の訴えだったのだとしたら。
しかしながら、現状俺が調べられることはここまでで精一杯。
コネもなければ調査力も乏しい。あと分かることといえば、あの謎の電話の男性の声が蜜峰ではなかったということぐらいだ。
午後の講義が始まるチャイムが鳴り、殆どが講義室に消え、構内通路にはほぼ人が居なくなった。
ポツンと取り残された俺は、無力さを痛感しつつ大学を出た。
鷺森の残滓を求めて例の駅に降りてみたりもしたが、何も得られなかった。
この駅に来て蘇るのはナツキが訪れなかったことによる悲しみだけ。
落胆しつつも諦めきれない。しかしながらどうすればいいかもわからない。
盲目な堂々巡りをしながら時間だけが過ぎ、夕方になると俺は昨日の約束通りにバイトをすべく書店に到着した。
レジにいた昼番のスタッフに雑多な意味を込めたお辞儀をしてからバッグヤードに入って、俺はぎくりとした。
中に昨日俺の家を襲撃をした日野が居たからである。
デスクに着き、どこかの機密機関でもハッキングしているのかというくらいの速さでキーボードを叩いている。パソコン画面は良く見えないが、どうやら帳簿の類の画面のようだ。
「九十九。今日はサボらずに来たようだな」
日野はモニターから顔を背けずに、相変わらず妙な圧力を感じる声でそう言った。
こちらを見なくても俺と分かるのは何故だろうと思ったが、店内の防犯カメラ映像もすぐ上部に映し出されているので、そこで入店を確認したのだろう。
「昨日はすいませんでした」
「もういい。それより、連絡は取れたか?」
俺は日野の問いに無駄に背筋が伸びながら返事をする。
「はい、しかし連絡はつきませんでした」
「そうか。……ったく、これだから若い奴は」
あなたも十分若いのでは?
制服に着替え――といっても上からエプロンを着るだけだが――ていると、いつの間にか日野は俺の方を凝視していた。
無表情の中に何かを孕んでいそうで俺は鳥肌がたった。
「あの、マネージャー、なんでしょう?」
「九十九、嬉しいことを教えてやろう。二つもある」
微妙な笑みをくれた日野の突拍子もないセリフに俺は混乱した。
それでなくても今の俺はいろいろと余裕がないのに。
「なんですか?」
「九十九、お前今困っているだろう?」
「困って……何のことです?」
「何のことかはお前自身が知っているだろう」
何だこのチビ。バーナム効果でも狙って俺を誑し込めようとでもいるのか?
確かに、困っているのは、まあそうだけど。
「えーと」
「例えば、どうしても連絡が取りたい奴がいるとか」
「え」
俺が感嘆詞を漏らすと、日野は顔をニヤリと歪めた。
「九十九に、良い人物を紹介してやろう。きっと助けになるはずだ」
「助け? ですか」
そこまで言うと、日野は唐突に俺に何かをふわりと投げつけてきた。
反射的に受け取ったそれは……チョコレート? 個包装の一粒。なんだこれ。
「ここにいる男に、お前の気持ちを正直に告げることだ。嘘偽りの無い正直な気持ちを。そして相談するといい」
日野はそう言いながら今度は俺のもとに歩み寄り、一枚の名刺を渡してきた。
やけにキラキラしているそれは、どうやら探偵事務所の名刺のようだった。
「探偵、ですか」
「そのチョコはそこにいる男に渡すといい。間違っても食欲に負けて食わないことだ」
近づけば本当に小さい日野は、俺の手にあるチョコレートを食べたそうに見つめている。
なんとなく子犬を連想させた。
「よく分からないですけど――」
というか探偵を雇う金も無ければ、そうすべきことなのかも分からない。
まあでも。
「――分かりました」
俺はナツキについて知りたい、知らなければならない。そんな気がする。
ナツキは、何かが無い限り連絡を突然無断で取らなくなるようなひどい奴なんかじゃない。
俺の思い込みでもいい。実は本当にただ迷惑がられていただけでももういい。
ただ俺は真実が知りたい。
その為なら――そうだな。探偵ってのも御誂え向きかもな。
「その代わり、ちゃんとサボらずにバイトに来いよ」
「は、はい!」
何故俺が困っていることを知っているのかは分からないが、きっかけをくれた目の前の小さなマネージャーに俺は小さくお辞儀をした。
「もう一つ、嬉しいことを教えてやろう」
「はい、なんですか」
日野はデスクに戻り、キーボードの乱打を再開してからこう言った。
「しばらくの間、お前と一緒のシフトだった蜜峰の代わりに私が入る。喜べ」
「えっ」
ええええぇ……。
それは全く嬉しくないというか怖いんですが。胃薬買って帰ろう……。
明日、日曜日更新の【side.N】の9話も合わせてお楽しみください。