8話 はじまり
待ちに待った日曜日が来た。
今日のことを考えると、大量の課題を出す環境科学の講義も、抜き打ちテストをやらされた線形代数学の講義も、ここ最近やたら絡んでくるご年配の男性が来る書店でのアルバイトも、睡魔と戦いながらの予習も、全部頑張ることができた。
遂にナツキに会える。
俺の心の支えであるSNS上の友人。
趣味全開で話しても受け返してくれる気の置けない女性。
そして、もう無視できないほどにとある感情が俺の心に根付いている。
友人? 親友? そんな型に嵌めていたくない、いくら埋めても塞いでも隠し切れないこの心情。
多分、俺はナツキのことが好きだ。
……顔も声も、年齢すら知らないのにね。
でもそんなものを超越した、詳細のよく分からない絆のような何かを、本能的に感じている。
いつから俺はメルヘン脳になったのだろうか。恋に恋する乙女じゃあるまいし。
それでも、メルヘンだろうがメルキアだろうがメルボルンだろうが、もう何でもいい。
とにかく俺はナツキともっと深い仲になりたい。その気持ちだけは本物だ。
あとは――俺のこの冴えない容姿に幻滅されないことだけを祈るばかりだ。
いくら鏡の前で二枚目気取りの表情を作っても鏡は俺を忖度したりはしてくれないが、きっとナツキならこのままの俺を受け入れてくれる。そんな気がする。
気のせいじゃないことを祈るばかりだ。
× × ×
待ち合わせは前回ナツキと会う予定だった時と同じ駅前のベンチ。
相変わらずの待ち合わせスポットになっているらしく、カラフルな若い男や女が立ち並ぶベンチを賑わしていた。
そのうちの一つ、一番端っこのベンチがちょうど空き、俺は不整気味の脈を落ち着けるように強めに息を吐いてから腰を下ろした。
現在時刻はお昼を過ぎたばかり。待ち合わせは十三時ジャスト。
前回同様、お互いの顔を知らないので俺は目印として今掛けているショルダーバッグにゲームのキャラ【クライズ】のアクリルキーホルダーを付けている。
それを見てナツキが俺に話しかけてくれる手筈なのも前回と一緒だ。
心臓の高鳴りを呼吸で調整しつつ、俺はスマホを取り出して改めてナツキとのやり取りを見直す。
待ち合わせ時間、場所、ともに間違いない。あとはナツキが来るのを待つだけだ。
俺は待つ行為はどちらかといえば好きなほうだが、どうしても前回の記憶が蘇って焦りのような気持ちになる。
ナツキがまたしても現れなかったら……。
小ぢんまりとしたタクシー乗り場とバス乗り場のその先にある防風林を眺めながら、俺は小さくかぶりを振った。
俺が悲観していてどうする。約束をすっぽかすなんてことはそうそう起こるような事象ではない。
もっと違うことを考えなければ。
例えば、そうだな……ナツキが現れた時の第一声、とか。
防風林のその奥にあるお洒落な色合いの喫茶店、まずはあそこに入店することにしようか。
話したいことはいくらでもある。アニメの話、ゲームの話、あとはそう、ナツキのことを知りたい。
ナツキは俺のことを知りたいと思ってくれているだろうか。
……いや、大抵のことはSNS上で言っちまっているな。愚痴紛いのことまで。女々しい奴と思われていなければいいけれど。
周りのベンチに次々と人が現れ、その度にベンチから人が立ち上がり、代わりに違う人間がベンチに座る。
何度目かのそれを見届けた頃合いで、俺の時計は小さくピッと音が鳴った。十三時ちょうどを知らせる音だ。
眼球だけを振り回して辺りを見渡す。今のところそれらしい人間は見当たらない。
身体を反って反対側に視界を移すが、セルフのガソリンスタンドや小さな工務店のような建物がガチャガチャと立ち並んでいるだけで、それらしい気配はない。
鈍い悪寒のようなぞわつきが背中を走る。
いやいや、まだだ。きっとちょっと遅れているだけだろう。
スマホを見てもナツキからの新たなメッセージはない。
まるであの日を繰り返しているような軽いデジャヴを感じながら、胸を締め上げられるような感覚を必死に呼気で誤魔化す。
「おまたせっ」
俯いていた俺は声の方に目を遣る。
二十歳前後の、ショートカットで純白ワンピース姿のおっとりとした女性が小走りで近づいてきていた。
しかしながら、残念なことにその女性は俺の隣のベンチ、いかにもバンドマンといった感じの男の前で立ち止まった。
ほぼ同時にバンドマンらしき男がはにかみながら立ち上がり、
「おお! 今日もすごい可愛いね。その服も凄く似合ってるよ」
「えへへ、ありがとっ」
現れた女性と腕を組みながら喫茶店の方角へと歩いて行った。
ふむ、なるほど。まずは容姿を褒めると。いやでも初対面でいきなり容姿を褒めるのもどうなのだろう。
それともちょっと分かりやすいくらいのほうがいいのだろうか。
というかそもそもナツキはどんな格好で来るのだろうか。
普段着なのか勝負服なのか、それを俺の半可な眼球で見極められるだろうか。
いや、もういっそジャージとかで来てくれても一向に構わない。
寧ろ可憐な格好で来られるとベーシックの申し子的な格好しかできていない俺的には申し訳なさで意気消沈しかねない。
でもナツキなら、例え俺が上下グレーのスウェットで待っていても、きっと受け入れてくれる。
ちゃんと話をしてくれる。
そんな気がするんだ。
だから。
だからさ……。
お願いだ。
お願いだから、早く俺のもとに現れてくれよ……。
頭蓋骨の中で独り言を言い続ける俺が腕時計に目を移すと、既に長針はそろそろ真南を通過するところだった。
× × ×
さて。
ナツキに再度メッセージを送ってから既に半刻は経った。
相変わらず俺に声を掛ける人物は出現していない。
念の為、何があっても即座に対応できるようメッセージには俺の携帯電話の番号を記載しておいた。
まさかナツキが俺の番号を悪用などするわけもない。
まあ突然電話が来たら緊張して上手く話せなくなるかもしれないけど。
これから直接会って話をしようとしているのになんとも情けない話だ。
しかしながら残念なことに今のところは俺のスマホは静かなままだった。
まるで発送をもって抽選結果とする懸賞でも待っているような、来てほしいが来ない、でももしかしたら遅れて来るかもしれない、といった心持ちで、最初こそ落胆色をベットリ塗りたくったような精神だったが、次第に俺の中に別の感情が湧いてきた。
――ナツキの身に何かあったのではないか。
それは、ナツキからの例のメッセージに起因する心配だ。
ストーカー。
ナツキは『友人』などと言っていたが、それが本当に友人のこととも限らない。実はナツキ自身が被害者なのかもしれない。
そして俺とのやり取りや待ち合わせをどこからかかぎつけたストーカー野郎が、今現在ナツキをどうにかしている……とか?
……いやいや、さすがに考えすぎだろうか。
気落ちしているとどうしても悪い方向に考えてしまう。
きっと、そうだ。何かやむにやまれぬ事情があって、スマホを弄る余裕もなくて。
まだ十四時半。本来の待ち合わせ時間からたかだが九十分しかたっていない。洋画ならこれからがクライマックスってところだろう。
しかしながらそろそろ俺の臀部が悲鳴を上げている。ずっと座っているのも結構辛いものだ。
そう思い、俺は立ち上がってすぐ横の自動販売機と対峙する。
硬貨を一枚入れ、一番下段の一番小さい缶コーヒーのボタンを押すと、ガコンと音が鳴った。
――と同時に、俺のスマホがバイブした。
一瞬ホッとするのと同時に、心臓が暴れだす。
液晶画面には着信の携帯電話番号が表示されている。
ナツキからの着信なのか。
それとも空気の読めない見知らぬ誰かかもしれない。
とはいえどちらにせよ、この着信など無視するわけにはいかない。
俺は購入した缶コーヒーを放置して応答のボタンをタップする。
「はい、もしもし」
『……』
しばらく待っても何故か応答がない。悪戯か、それとも電波が悪いのか。
どちらにせよ今の俺にとっては焦りにしかつながらない状況だ。
「もしもし?」
『……』
無音の中に僅かに音が聴こえた。これは……盲動鈴か?
「おーい、もしもーし」
耳にスマホを当てたまま、屈んで取り出し口から缶コーヒーを取り出す。
結露した黒い缶を軽く振りながら、元居たベンチに再び腰かけようとした時だ。
『ナツキに……』
ぽそりと、女性の声でたしかにそう聞こえた。
ナツキ? 今ナツキと言ったか?
やはりナツキがかけてくれたのか?
興奮と歓喜が胸に広がる。
「ナツキ、なのか?」
『もう、ナツキに近づかないで』
「え?」
しかしそれは一瞬で消し飛んだ。
えらく不気味で、それでいて通る声が、信じられない言葉を吐いてきたからだ。
気のせいか、どこか聞いたことのあるような声な気がする。
「何? 君誰だ? ナツキって」
『もうナツキに近づかないで。関わらないで』
「いや、だから――」
俺の声が届く前に、一方的に通話は切られてしまった。
缶を握る手に力が入る。
は。なんだよそれ。
近づくな? 関わるな? というかそもそもお前は誰だよ。何故そんなことを誰かも分からない奴に指図されなければならないんだ?
ベンチに座ることも忘れて、俺は眉根に力が入る。
どんどんと視界が鈍くなっていく。
俺が何をした? ナツキに会うことは、それほどまでに禁忌的な行為なのか?
ただ、俺はナツキに会いたかっただけだ。
会って、話をしたかっただけだ。
今季アニメの話がしたかった。ゲームの話もしたかった。ストーカーに関する俺のちっぽけな情報を伝えたかった。
何故そんな願いすら叶わないのか。
俺が強引に会いたいと迫ったわけでもない。
ただ、俺にとっての心の支えであるナツキに会いたかっただけだ。
どうして、誰かもわからない奴に拒まれなければならないんだよ……。
どのくらい突っ立っていただろうか。
とっくに温くなった缶コーヒーのプルタブを引き、一口。
コーヒーが喉を通って、カラカラになっていることに気付いた。
一つ深呼吸をしてからベンチに腰を下ろす。
相変わらず、ナツキからのメッセージはない。
……ゲームセットだ。
流石に心が折れた。意味が分からないとこんなにも悲しくなるんだな。
コーヒーを摂取して水分を得たばかりの俺は、転換するように緩やかに眼球から水分を放出していった。
× × ×
今日はアルバイトも休みで、奇跡的に課題も全て終わっている。
しかしながらこんな日はちょっとくらい忙しいほうが精神衛生上良い気がする。
どうしても、日中のことを思い出してしまうからだ。
ナツキと会う約束をしていた本日。
結局またしてもナツキは現れず、さらに謎の人物から『ナツキに近づくな』という旨の電話が届いた。
考えても訳が分かるはずもなく、かといってナツキから連絡もなく、俺はただやり場のない怒りと悲しみのミックスエモーションをトルソーあたりでぐるぐると回すことしかできていない。
あの後、茫然自失の権化と化した俺はそのまま帰宅した。
どうやって家に帰ったかはあまりよく覚えていない。
自室でどのくらいぼうっとしていたかも分からない。
気づけばすっかり夜も更け、窓から見える空は俺の心情とは裏腹に綺麗な満月を浮かべてやがる。
――もうナツキに近づかないで。
せめて理由くらい教えてくれよ。
せめて名前くらい名乗ってくれよ。
電話をしてきた相手が実はナツキ本人なのでは、と一瞬考えたが、すぐにその了見は雲散霧消した。
だったら、そもそもで合う約束をしてくれるはずもない。
そんな回りくどいようなことをするわけがない、と俺の中のナツキ像は主張している。
どちらにしても。
このままナツキと疎遠になるのは絶対に嫌である。
近づくな? 関わるな? ……嫌だね。誰が名も名乗らない不躾なやつの言葉などに従うかってんだ。
スマホの着信履歴に残る十一桁の番号をしばらく見つめてから、俺は決心した。
俺はこの謎の人物と話す必要がある。
尤もな理由が述べられるもんなら述べてみやがれ!
窓から満月を見つめながら、架電した。
コールがしばらく受話部分から鳴り響く。緊張しているが、今の俺の憤怒具合ならきっとアリストテレスですら論破できる自信があるぜ。
七コールめで、プツッと音が鳴った。
直後に誰かの声が聞こえる。若干騒がしい場所に居るのだろうか。
『もしも〜し』
俺は驚いて即座に混乱した。
聴こえてきた声は、日中に俺に掛けてきた人物ではなかったからだ。
明らかに男性の声だった。誰だ。
「あの、日中電話もらった者なんですが、その、女性からかかってきたと思うんですけど」
『……ああ、このスマホの持ち主? それなら今オレの足元で這いつくばってるんだけどさ――』
「え?」
『いやぁぁぁ!!』
男性の嘲る声の直後、明らかに女性のものと思われる悲鳴が聞こえた。
俺は一気に身体中から汗が噴き出す。
なんだ? 足元でなんだって?
「もしもし! もしもし!?」
応答をせがむ俺の声も虚しく、それ以降俺の耳には遠い悲鳴と男の声が小さく聞こえるだけとなった。
明日、日曜日更新の【side.N】の8話も合わせてお楽しみください。