10話 ほんしん
昨日のバイトで日野マネージャーから渡された名刺の探偵事務所を探すのは大変だった。
やけに目映い名刺の右下、極小の簡易な地図に描いてあるビル自体はすぐに見つかったが、記載してある『五階』の案内がどこにも無い。
エレベーターにも五階のボタンが無く、建物を間違えたのかと一度外に出るが、やはりビル自体は間違っていなかった。
外観を見上げれば確かに五階建てで、俺はまるで宝物庫を探すようにして非常階段を上り、ようやく事務所の入り口らしき扉を見つけた。
探偵事務所。普通に過ごしていれば入ることなどなさそうな場所で、どうしても入ることを躊躇うが、後には引けない。
インターホンの類が見当たらないので、俺は深呼吸をしてからノックをした。
「どうぞ」
中から小さめの女性の声が聞こえた。
まるで面接でもしているみたいな心持ちで、俺は「失礼します」を呟きながらゆっくりとドアを開けた。
まず目に飛び込んできたのは部屋の中央、ガラスのテーブルの横で立っている背の小さな金髪の女性だった。
黒くふわっとしたゴシック系の簡素な服装で、顔をこちらに向けているが何故か目を閉じている。俺と同じくらいの年齢だろうか。
そしてソファの上には片膝を立てながら仰向けに寝ている人物が一人。
オカルト雑誌が被さっており顔は確認できないが、日野が言っていた『相談する男性』とはこの人物だろうか。
「誰?」
目を閉じたままの金髪の女性が無表情を向けて訊いてきた。
「あ、えーと、日野さんに聞いてきたんですけど……こ、これ!」
緊張と人見知りを発揮しながら、俺はポケットから日野から渡された個包装のチョコレートを一粒突き出した。
画だけ見ればまるで告白みたいな構図だった。
俺が突き出したチョコを見た金髪の女性はわずかに口をあけ、すぐにタタッとソファで寝ている男に駆け寄って、立てられている膝を数回タップした。
やはりこの行為は何かの合図のようだ。日野マネージャーはマジで何者なのだろう。
しかし金髪の女性が何度叩いても、男は「ん~」と小さく唸るだけでなかなか起きなかった。
と思った矢先、今度は雑誌の乗った顔部分に、雑誌ごと強めの平手をかまし始めた。
バンッという打音と同時に「ヴ」という呻きが聞こえた気がする。この金髪、全くもって容赦ない。
「なん……ん、何、ルナさん。お腹空いたの?」
半開きの目で起き上がった男は、後頭部をわしわし掻きながら欠伸をした。
この人が日野マネージャーの知り合い、ということだろうか。そしてこの男が探偵?
「マスターに客」
チョコを突き出したまま動けない俺を指差しながら、ルナと呼ばれた金髪の女性はそう言った。
マスター……?
「客? って、事務所の?」
「違う。マスターに」
何かを話し合っている二人を見ながら、脳内で『マスター』と言う単語がフェードインした。
『最近この街には、どんな相談をも最善の方向に導き解決してくれる≪マスター≫なる有名人がいるらしい』
物好きの噂、程度の存在だと思っていた。
その名前で確かに呼ばれた男は、俺の手にあるチョコレートに気づくと、苦い顔をしながら溜め息をついて、
「わかった。とりあえずそこのキミ、座ってくれるかな」
心底不機嫌そうな顔でそう言った。
「……はい」
座るなりチョコをぶんどられ、もう一度ため息をついた男。
その横にちょこんとルナと呼ばれた女性が座ったタイミングで、
「改めまして、どうも。冬根と申します」
自己紹介をしてくれた。
うん、いや誰?
× × ×
どうやら、日野が紹介してくれた冬根という男は、噂の≪マスター≫なる存在らしい。
俺がした問いに答えない冬根の代わりに、ルナという女性がほとんど答えてくれた。
暫く前からここで≪マスター≫として相談に来る人たちを最善に導いてきたらしい。
それだけ聞くと痒いというかなんというか、そりゃ冬根が苦い表情をしてしまうのもしょうがないというか。
でも男としてはそういう二つ名みたいなので裏で有名とかちょっと羨ましい気もする。
「んで、纏めるとこういうことだね? 九十九くんは連絡が取れなくなった人が何人かいる。バイト先の先輩である蜜峰楠弥、SNSの知り合いであるナツキ、そして同じ大学の鷺森憂妃。その行方が知りたいと」
「はい」
「そして、もしかするとナツキと鷺森憂妃は同一人物である可能性がある」
「推測ですが……」
タイミング的に、その可能性があるのは否定できない。
「そして」
冬根は話しながら、テーブルの上のチョコレートをコツコツとつついている。
「何らかの事件に巻き込まれた可能性がある」
「はい」
話していて俺の頭の中も整い始めた。
そうすることで改めて、もしかするととんでもない何か危険な事件が発生している可能性が浮かび上がった。
蜜峰……いったい何をしたんだ?
「まあ概要と依頼内容は把握したよ。だけど一つ、僕は九十九くんに確認しないといけない。その答えによって、僕らは動くか動かないかを決める」
「え……」
何だよその試験的なやつ。そんなのがあるとは聞いてない。
冬根は口角だけを吊り上げながら、
「九十九くんは、どうしてそれらを調べて欲しいのかな?」
「どうしてって、そりゃバイト先の先輩が行方不明だと困りますし、連絡取るようにも言われてますし、ナツキともどうして連絡がつかないのか、その原因も知りたいですし、鷺森だって……」
俺の必死な説明には、冬根の沈黙が返ってきた。
そりゃそうだろ?
何かが起こっている。それを知りたいというのは当たり前のことで、それが自分の関わりのある人たちなら尚のこと。
それを調べて欲しいと思うことがいけないことなのか?
俺の訴えるような説明に、冬根は無言でかぶりを振った。
「もう一度だけ訊くね、九十九くん。どうして、調べて欲しいのかな? 正直に答えてくれ」
俺の目の奥を覗くような冬根の真っ直ぐな視線と言葉が飛んできた。
だから、何なんだよその問いは!
さっきから言ってる、それが俺の本心――
――お前の気持ちを正直に告げることだ。嘘偽りの無い正直な気持ちを。
昨日の日野の言葉が唐突に蘇った。
嘘偽りの無い正直な気持ち?
蜜峰の行方や行動が知りたいのも、ナツキや鷺森憂妃が今現在どんな状況なのかも、もちろん本当に知りたいと思っている。
でも、そうだな。
俺の根本のところはそこじゃなかった。
どうして、知りたいか。嘘偽りの無い正直な気持ち。
笑われるかもしれない。馬鹿にされるかもしれない。
「それは――」
自分でも口にするのは初めてだし、今日会ったばかりの人物に言うことではない気もする。
でも、俺の気持ちを正直に告げるなら、これしかない。
「――ナツキのことが、好きだから!」
……。
無意識に立ち上がりながら言って、手で顔を覆いたくなるほど恥ずかしくなったが、裏腹に目の前の冬根は今日一番の真面目な表情でゆっくりと頷いた。
その直後、ルナと呼ばれた金髪の女性は立ち上がり、冬根の「気をつけてね」の言葉に無言で首肯してから奥の部屋に消えていった。
「分かったよ。九十九くん、キミの依頼に対して僕らは本気で動く。その結果、どんな事実が待っていても受け入れる覚悟はあるかい?」
冬根の問いに、俺は立ったまま即答した。
「あります」
どんなものだろうが、俺は事実を知りたい。
何も分からずに関われない、携われないのはもう嫌だ。
ナツキは、俺にとって大切な人だから。
「分かった。それともう一つ、これを渡してくれた人に伝えてくれるかな?」
そう言ってテーブルの上のチョコレートを摘まみ上げた冬根。
日野マネージャーに?
日野はこの≪マスター≫である冬根とどういう関係なのだろうか。
「何を伝えればいいですか?」
冬根は悪そうな笑みで、
「一言、『バァカ!』って」
「……え、えぇ」
それは……俺の口からそんな暴言伝えたら殺されませんかね?
× × ×
≪マスター≫と会ってから一週間が経過した。
その間、日野と一緒のアルバイトで神経を擦り減らしたり、休んだ曜日の講義の遅れに四苦八苦することはあったが、特段変わったことは無かった。
『何か分かり次第連絡する』
そう言ってくれた≪マスター≫こと冬根を信じて、俺は極力いつも通りの日常を過ごす。
今日まで連絡のつかない蜜峰や、未だに登校していない鷺森憂妃に、心の中は穏やかではないが、俺個人でできることは何もない。辛いところである。
相変わらずナツキのアカウントも音沙汰は無い。
――ナツキが、好きだから!
……いやなんちゅう恥ずかしい宣言しているんだよ俺。
冷静に考えて、実際に会ったことのないSNS上の知り合いに対して、よくもまあアレだけ熱く言い放てたものだ。
確証を持てない心の事象をああもスッパリ口にできた自分に驚きと同時に忸怩たる思いだが、自分の気持ちとはもしかすると案外そういうものなのかもしれない。
昼休みになり、俺はいつもの洋食屋に来た。
今日の日替わり定食はポークチャップ定食。ナツキが女性だと初めて知ったあの日と同じメニューである。
裏切られたなどと言いながら鼻を膨らませて歓喜していた自分が懐かしい。
もしかすると俺の人生、これからポークチャップという料理が出る度にこの衝撃と好奇を思い出すことになるのかもしれない。
ただ、俺としては思い出に留めて置きたくはない。そうならないために全力を尽くす心構えはとっくに完了している。
安定した優しい味の豚肉を頬張っていると、俺のスマホがバイブした。
見たことの無い番号からの着信。胸の中が薄く濁りながらも、俺はチェイサーをぐっと飲んでから応答した。
「はい」
『九十九くんかい?』
この声音は、一週間ほど前に聞いた冬根のアンニュイ気味な声で間違いない。
「はい! 何か分かりましたか」
『うーん。そうだね。少なからず情報は手に入った。今日の夜にでも会えないかな』
「はい! あ、でも……」
今日もバイトだった。サボったら日野に殺されかねない。
『ん、都合が悪いかな?』
「いえ、バイトがあるんですが、その後で良ければ」
『バイト……確か駅はずれの書店だったよね』
「はぁ、そうですけど」
俺は拳に力が入る。
なんで知っている。俺は話した覚えはない。
探偵? 的な力で調べられたということだろうか?
『とりあえずわかったよ。またあとで』
それだけ言われて乱雑に通話を切られた。
顔を歪めながらも俺は胸が高鳴っていた。これで少しでも真相に近づけるかもしれないからだ。
俺は虚空に向けて一つ首肯を決めてから残りの豚肉を平らることにした。
× × ×
そして夕方、バイト先の書店。
日野と二人のシフトを何回かこなして気づいたことがある。
店に殆ど居ず、居ても裏方で帳簿類をカタカタしていることが多いマネージャーだが、売り場に出ると豹変する。
要するに接客中は人が変わるのだ。
普段の恐ろしさを感じる声ではなく、ボイスチェンジャーでも使っているのかというくらい声高になり、柔らかい口調、更には満面の愛想笑い。
これぞ接客の鑑といった感じだった。
ギャップ萌えという言葉があるが、日野の場合なまじ普段の威圧的な怖さを知っている分尚更恐ろしく感じる。萌えの欠片もない。
日野の笑顔に何度目かの悪寒を感じながら赤本のコーナーで本の整理をしている時のことだった。
「ちゃんと伝えてくれたかな?」
バイト先に冬根が現れた。ルナと呼ばれる金髪の女性も一緒だった。
「冬根さん……伝えるって?」
「そこの奴にさ」
冬根はレジにいる日野を指差しながらにやりと笑って、
「バァカ! って」
なかなかの声量でそう言った。
案の定、レジにいる日野はこちらに気づいて向かってくる。ひえっ。
「乱暴な愛情表現も嫌いではないが、たまには素直になると良いぞ」
「ポジティブな脳のつくりしてて羨ましいよ」
やはり冬根と日野は知り合いだったようで、何やらよくわからない会話をしている。
一体本当にどういう関係なのだろう。
「さ、行こうか九十九君。ここじゃ落ち着かない」
しかしそれも一瞬で、冬根は俺にそう言ってルナとともにバックルームの方へ歩いていき、日野はレジに戻った。
一応日野にアイコンタクトを取ると、顎でバックルームの方を指して微妙なしかめ面を決めている。
恐らく「早く行け」と言いたいのだろう。
素早くお辞儀をし、バックルームに向かう。
どんな事実が冬根の口から語られるのか分からない。それでも、俺は前に進みたい。
いつもより何倍も重く感じる扉を開けて、俺は≪マスター≫の居るバックルームに入った。
明日、日曜日更新の【side.N】の10話も合わせてお楽しみください。