1話 うらぎり
裏切られた――ッ!
その日、俺は心の中でそう叫んでいた。いや、声に出していたかもしれないが、それすらよく分からないくらい混乱の最中だった。
ただ。そう叫んでいた俺は、きっと今までに作ったことの無い笑顔だったと思う。
× × ×
事件が起きたのは俺が笑顔をほとんど忘れてしまっていた六月の中旬のことだ。
ドがつく田舎ではそれなりに優秀だった俺は、地元の高校から唯一、街の方のそこそこ偏差値の高い大学に合格することができた。
田んぼと畑と動物ばかりのこの町に別れを告げて、春からは都会という名のアドベンチャーワールドで優雅で煌びやかなキャンパスライフを送る。鼻息を漏らしながらそう夢見ていたのが約三ヶ月前のことだ。
夢――将来実現させたいと思っている事柄。意味通りである。
しかしながら夢という言葉にはこんな意味もある。
『現実から離れた空想や楽しい考え』
どうやら国語辞典さんが俺に宛がいやがったのはこっちの意味の夢だったようだ。
つまりは俺が望んだ絢爛なキャンパスライフは空想だった。
現実は――。
「はい、次回の講義までにレポート提出。締切厳守、過ぎたら単位出さないからなー」
心理学の講師の無慈悲な捨て台詞とともに二限目が終わった。
俺は滴る汗など気にも留めず必死に黒板の文字をルーズリーフに書き写していた。
一言一句書き逃してはならない。何故なら俺にはコピーを取らせてくれる友達がいない。
次回の講義迄にレポート……今週末も休める気がしない。
本当は夜の数時間をそれらに当てたいが、春から住み始めたアパートの家賃の為にもアルバイトを休むわけにもいかない。
そして昼休みを使って次の線形代数学の予習をしておかないと。あの女講師はいつも俺を当ててくるしな。
まあ先週と先々週課題をやり忘れてしまった自分のせいではあるが、アルバイト疲れで寝落ちしてしまった点を踏まえて情状酌量の余地はあると訴えたいところだ。
学食は本当に大学が楽しそうな連中の巣窟で、席が空いていることなどほとんどないため行く気にならない。
仮に空いていたとしても空気的に居辛いので遠慮しておく。予習に集中したいしね。
よって俺は大学すぐ傍の洋食屋でお昼を取ることが多い。
老夫婦二人で営んでいる老舗チックな店で、客が少なく静かな雰囲気なのが良い。
今日も日替わり定食――水曜の今日はポークチャップ定食だ――をお供に次の講義の予習とレポートの作成に勤しむ昼休みになりそうだ。
――とまあこんな感じである。
つまりは講義と課題とアルバイトの日々で余裕が全くない。
田舎者を晒すのも怖くて自分から他の生徒に話しにも行けずに友達も未だにできていない。
孤独と忙しさに挟まれた土気色の大学生活である。これが俺のキャンパスライフだ。
しかしながら、である。
大学構内では殆ど声帯を揺らすことの無い俺にも、心の支えがあるのだ。
寧ろそれがあるからこそ、この忙しさにまみれた大学生活をなんとか耐えられている。
それこそが、『ナツキ』の存在だ。
高校時代からやっていたSNS上でたまたま出会った知り合いである。
心酔したアニメに対する俺の呟きをきっかけに意気投合し、それからよくやり取りをするようになった、いわゆるネット上の友達だ。
……いや、俺にとっては、ジャイ○ンよろしく『心の友』だと勝手に思っている。
空いた時間で『ナツキ』とアニメやゲームなどについてSNS上で語り合う、俺にとってはこれ以上ない活力の源となる時間だ。やはり人間は好きなことを共有できる存在が必要不可欠なのだ。
女々しいことに俺がSNSで時折こぼしてしまう日常の愚痴紛いの発言にも、若干奇抜とも言える変化球なアドバイスをリプライしてくれる。ちょっとミステリアスな奴だがそこもいい。
地元に居た親友のような、そんな温かさを感じずにはいられなかった。
人間がいかに一人で生きられないかを痛感する。
そしてリアルが過酷なほど、俺は『ナツキ』とのやり取りに縋ってしまっていた。
もしも同じ大学で同じ学科で、好きなアニメの話で盛り上がりながら一緒のキャンパスライフを過ごせたら……と幾度思ったか分からない。
てなわけで今日も今日とて隙間時間で『ナツキ』とのやり取りを期待してSNSを開く。
昼ご飯を食べながらで行儀が悪いとは思うが、しかしなかなか時間が取れないので仕方がない。
ちなみに先週が一話だった夏アニメのラブコメ新作【オルタナティブ・ラバーズ】についての溢れんばかりの想いを、早朝ナツキに問いかけたばかりだ。
『昨日の【オルラバ】の一話、見たか? 早速キャラが全員濃いし可愛いし、これからの絡みが楽しみだぜ! 俺がもし付き合うとしたらレインちゃんかなぁ。やはりあのツンからの赤面がたまらん。ナツキは誰派だ?』
……うん、見返すとちょっと興奮してて我ながら気持ち悪い文だな。
まあそれでもきっとナツキは律儀に返信してくれる。本当に俺の支えだ。
返信が来ていないか、来ていれば大学に痛めつけられた精神を癒すためにも熱い議論をしたい、などと思いながら反応のアイコンをタッチする。
『【ナツキ】さんから返信が来ています』
流石ナツキだ! 心の友よ!
早速語り合うことができると分かり心臓が高鳴った。
『うん、見たよ。僕が付き合うならハヤテ君かな。【オルラバ】はラブコメにしては珍しく男性キャラクターにも力が入ってていいよね』
俺は返信を見ながら豚肉を一口。
やはりナツキも見ていたようだ。しかしながらなんという返信だ。ツッコミ待ちというやつか?
俺は味噌汁を飲みきってから、素早く返信の文を打つ。
『いやいやいや。ハヤテ君もいい奴ってのは分かるけど……案外腹黒そうだしなぁ……。とかそういう問題じゃねえ! お前はホモかよ! 男と男なんてのは本の中だけで十分だぜ……』
誤字が無いかだけ素早くチェックし、すぐに返信ボタンを押した。
よし、これで後半の講義も頑張れる! あとは夜に返信を確認して、寝る前にでも熱く語り合いたいところだ。
などと心の中で気合を入れてから両手を合わせて「ご馳走さま」と小声で呟いた。
その瞬間、スマホがバイブした。
どうやら最早ナツキからの返信が届いたようだった。
食後のデザートを頂くような気分で改めて届いた返信を見て、俺は驚愕することになった。
『ホモって……確かにBLとか薄い本は好きだけど、もしかして勘違いされてる?』
勘違い、何の話だ、とそのまま返信の文を下にスクロールした俺は息苦しくなるくらいに心臓が跳ねた。
『僕、女なんだけど。』
「……え?」
俺は多分声を漏らしていたと思う。
その証拠に、老夫婦と客、何人かの視線を感じたからだ。
……女?
ナツキが女?
考えもしなかったことで、しかしながら有り得る事ではあった。
会ったことも声を聞いたこともないSNS上の知り合い。
心が通じているとさえ感じていた俺の支え。
俺が勝手に男で、気の置けない親友みたいな間柄――会ったこともないくせにとは言わないでいただきたい――だと決めつけていた。
その『ナツキ』が、女性だった。
脳に届くはずのその情報は、学食の輪に入れない俺のように脳の周りをぐるぐるとまわり続け、ようやっと数分遅れてシナプスが繋がった時、
裏切られた――ッ!
冒頭の笑顔の混乱に戻ることになった。
裏切り――負の印象しかなかったその単語が、まるで神々しささえ滲み出るような煌めきを帯びる事件である。
いや、その日を境に心の平穏が崩れ落ちたと考えれば、全てにおいて良い意味だったとも言えないかもしれない。
当小説は「在処」先生執筆の【side.N】との合作小説でございます。
同時進行かつどちらからどちらを読んでも楽しんで頂けるように投稿して参りますが、
【side.N】の第一話と併せてお読みいただけるとより一層お楽しみいただけます。