追魚の終わり
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
ほう、こー坊。またえらい食いおったな。赤みのマグロばかり。
トロに比べりゃ安いもんだが、それでも数十皿と食べられちゃ、しゃれにならんのう。まあわしも、給料直後とか懐に余裕があるときは、やぶさかじゃなかったが。
――なに? これからはフィッシャリアンになりたい?
わはは、なんじゃそりゃ? ベジタリアンの魚版とでも言いたいか。
じゃが知っとるか、こー坊。ベジタリアンはな、野菜を意味する「ベジタブル」からきているんじゃないんじゃよ。本当はラテン語の「ベジェトゥス」っちゅう単語から引っ張ってきておる。こいつには「健全な」「新鮮な」とかの意味合いがあるんじゃ。
すなわち、新鮮な魚をさばいた寿司を食っているということは、実はすでにベジタリアンということなんじゃな。わはは。
食いものにとって、鮮度っちゅうのはかなり重要じゃ。
遠方へ運ぶまでどうにか傷まずに済ませられないかと、氷や香辛料をはじめとする策が練られてきた。逆に食する目的で、現地に足を運ぶことは、いまでもままあることじゃ。
しかし鮮度が高いということは、自然の手を離れて間もないということ。人間の手じゃのぞききれない、不可思議な部分が生きていることも、ままあるんじゃな。
ひとつ、その新鮮さが引き起こした不思議な昔話を聞いてみんか?
むかしむかし。追魚と呼ばれた漁村は、美味な魚が獲れる場所として、一部の者に知られた場所だったという。
現代のマスメディアなどが存在しない時期。優れたものは、口伝えによっておおいに広まる場合もあれば、知る人ぞ知る穴場として存在し続けることもある。追魚は後者だったようじゃな。
追魚で獲れる魚は、その舌触りがよそでは味わえないものだったという。舌全体に絡みつくような肉汁があふれ、それをもっと味わわんと咀嚼をするのだが、肉をすべて飲み込んでしまっても、味が長く口の中へ残るんじゃ。
他の食べ物を口に入れる際はもちろん、水を含んだときでも、ただ空っぽの口内で歯をかみ合わせただけでも、じんわり魚を食べている際の美味さがよみがえってくる。
個人差はあるが、こいつはたいてい数日間続いた。他の飯の味を殺すことは難点じゃったが、魚そのものにハマっているものには好都合となる。口に入れるあらゆるものが、しばらくの間は、件の魚に化けてくれるようなもんじゃからな。もっとも、肉汁のうまさまでは再現できないゆえ、何尾も食べる客もいたらしいが。
固定の客に支えられ、ひっそりと繁盛しておった追魚の村じゃが、それから十数年が経ったころ。
ここを訪れた客たちも新たに家庭を持ち、ちらほらと子持ちになる者が増えていった。その子供たちの一部に、生まれながら味覚に異状な傾向が見られるようになったという。
うすうす見当がつくじゃろう。その子らは常に、例の魚の味を感じてしまう舌を持っておったのじゃ。甘いもの、苦いもの、辛いものと、様々なものを食べたところで、出てくる感想が同じでのう。
本人たちにとっちゃ、母乳を初めて吸った時より、これが食事だと刷り込まれているものじゃから、別段おかしいとは思わなかったとか。
個々人の申告でしか診ることのできない、味覚の異状。その原因があるのではないかと、都合のついたある家族が、子連れで追魚村を訪れ直した。
子供たちも、実際にここの魚を口にして驚いたらしい。これまで食べてきたものでは味わえなかった、風味を伴なう「生」の肉汁が、歯の裏側からのどの入り口にかけてを、瞬く間に制圧していく。
もっと、もっととお代わりを乞うてくる子供をなんとかなだめる親たち。じゃが店を出てしばらくすると、子供たちは今度は、口の中の違和感を訴え出してきた。
見てみると、生えている歯がぐらぐらして、抜けかけている。一本や二本じゃなく、また乳歯かそうでないかの別もなく、じゃ。
これが家ならまだ落ち着いて対処できたかもしれんが、旅先でのことじゃ。
思わず口を手でおさえるも、歯のぐらつきはひとりでに激しくなっていき、ついに完全に歯ぐきから離れてしまう感触がした。
よほどの勢いがあったのか。口をしっかり塞いでいても、奥にあった歯はのどの奥から鼻へと回ってしまい、外へ飛び出てしまったとか。
糸引く粘りけを帯びながら、土の上を転がる歯たち。とっさに拾い上げようとした親たちの手よりも早く、「失礼」と脇から別の手が伸びて、落ちた歯を拾い上げたんじゃ。
その手は先ほどの食事処の主人のものであった。そればかりか、いつの間にか家族は周囲を村民たち数名に囲まれており、その視線はすべて、子供のこぼした歯に注がれていたという。
不思議なことに、子供の口の中には抜けたばかりの歯とは別に、すでに生えそろった歯の姿ものぞいていた。両親が驚く間に、主人たちは残りの抜けた歯も融通してもらえないかと話を振ってきたらしい。
ここに自分たちの追う秘密があると踏んだ両親は、その歯をどうするのか、使い道があるなら見せて欲しいと依頼したんじゃ。
翌早朝。家族と店の主人、他数名を乗せた小舟が、朝もやの晴れ出した海の中へと漕ぎ出していた。
昨日、子供の口から出てきた、実に30本近い歯は、巾着袋に入れられて主人が握っている。
「ごくたまにではありますが、お子様のように不意に歯が抜け落ちる現象は、我々の間でも起きるのですわ」
沖合で船が停まり、主人は家族に水面から下をのぞいてみるように告げた。
そこには瑠璃色のサンゴ礁が、木の梢みたく広がっていたんじゃ。それこそ、手を伸ばせば触れられそうなほどの、水面近くに。
更にその枝分かれするサンゴの間を行き来する、小魚たちの姿も見えた。いずれも昨日の料理屋にあった生け簀の中で、泳ぎ回っていたものと同じ魚に思えたらしい。
「不思議と、食べた当人には起こりやせん。その血を継ぐ子にばかり表れるらしいので。我々、地元の人間であればまだ確率は高いのですが、外からの方に見られることは珍しいことです」
「――この子は生まれたときより、ここの魚の味ばかり味わっているらしいのですが、それは?」
「やはり遺伝、と見られておりますな。確証はありませんが、ほとんどの者は成人するまでに、元の味覚へ回復いたすでしょう。ただその間、歯が何度も抜けては生え代わる、ということが起こりやすいのですが」
やがて船の周りに魚たちが集まってくる。主人が歯の入った巾着袋を掲げると、コイのように口をパクパクさせながら、こちらへ顔を向けてきたそうじゃ。
「これらの歯は、こいつらがとても気に入っているんですよ」
主人が中身をぶちまけると、ある歯は直接魚の口の中へ。ある歯はいずれからもそれて水面に浮かんでしまい、そこへ殺到する魚たちによって、もみくちゃにされた。
その光景にぞっとして、肝をつぶしかけている家族へ向け、主人はにこやかに笑いかける。
「ありがとうございます。皆様のおかげで、また良い魚をお出しすることができそうです」
謝礼として金一封を受け取った家族じゃが、もう追魚に近づくことはしなかった。この体験は、当初はひっそりと家族の知人たちに伝えられたらしい。じゃが人のうわさに戸は立てらないし、同じように追魚へ向かった家族も追ったようでな。
あっという間に追魚はさびれて、住んでいた者たちもちりぢりになってしまったそうじゃ。ただそれ以来、近くの海では船のすぐ下をくぐる大きな魚影を見かけたという話が、たびたび飛んだという。
うそかまことか、その口にはどざえもんのものと思しき、手足の一部。もしくはどざえもんそのものがくわえられていた、とも伝えられているとか。