或る社会人の一時
今日、会社を解雇された。
コロナウイルスという脅威があるこのご時世、仕方ないことだとは思うが、何年も勤めてきた会社にクビを切られるのは正直つらいものがある。
そのおかげで、今日から俺は稼ぎ口が完全になくなった。退職金がもらえたのは不幸中の幸いだが、それでも定期収入がないのは致命的だ。
また新たに仕事を見つけようと思うのだが、営業自粛勧告が出ている現状で、雇ってくれる店があるとは到底思えない。
最近はUber Eatsなんていうものがあるらしいが、田舎であるここら一帯ではそんなものが必要になることなどない。
これまで貯めてきた金もあるにはあるが、それもおそらく1ヵ月かそこらで底を尽きてしまうはずだ。
いや、切り詰めれば3カ月は持つかもしれないな。
なんにせよ、俺の人生お先真っ暗だと言うことに変わりは無い。
俺が住むボロアパートの室内に、雨が窓を打つくぐもった音が絶え間なく響いている。
外を見れば、曇天の下を通る道路には1台も車が走っていない。
みんな律儀に外出自粛を守っているようだ。
——そういえば、できるだけ外出頻度を減らさなければいけないのだから、食糧を買い込む必要がある。
行きつけのスーパーは歩いて30分位のところにあるから、運動不足解消とガソリン代節約も兼ねて、徒歩で向かおうと思い腰を上げた。
そして、雨に濡れた窓ガラスを見て、一瞬で行く気が失せた。
ただでさえこの数週間はコロナウィルスの流行で暗い気分のままなのに、それに加えて仕事を失ったことでもう何もやる気が起きない。
まだ数日分の食料はあるし、今日はカップ麺でも食べて1日中家でごろごろしていようと思い直した。
若干みすぼらしい見た目の布団に、契約期限切れ間近のスマホを握って潜り込む。
最近は雨が続くので、なんとなく気温が上がらない。それにじめじめして、お世辞にも気分が良い天気とは言えなかった。
うっとうしい雨の音を少しでも遮断するためにカーテンを閉め、全身すっぽり布団の中に収めて、スマホでYouTubeを開いた。
確認してみれば、ちょうど俺の好きなライバーが雑談放送を始めたところだった。ぼんやりとした可愛い声が、スローテンポなBGMとともにスピーカーから漏れる。
俺はいつものように、スーパーチャットで挨拶をしようとマウスを動かし——己の懐事情を思い出してやめた。
普通にチャットで挨拶をすれば、他の何千といる(実際にチャットを打っているのはその中の半分位かそれ以下なのだろうが)人たちのコメントに押し上げられ、あっという間に見えなくなってしまった。
スーパーチャットを送って彼女に反応してもらうのが嬉しかったので、それがなくなると考えると少し寂しいものだが、反面仕方ないとも思う。
高速で動くチャットを見ているのか、視線が一点に固まった彼女の姿を眺めて声を聞く。
と、その時。
初めの挨拶が終わって軽い世間話をしていた彼女の口から、「あ、『淫力魔神』さんいらっしゃい」という言葉が漏れた。
『淫力魔神』とは俺のアカウントの名前だ。それを呼ばれたということは、つまり彼女は俺のことを覚えていて、しかも俺がきたことに気がついてくれたということ。
そう考えると、自分が特別な存在になったみたいで嬉しくなった。
流れで「今日はスパチャじゃないんですねぇ」なんて言われたので「会社クビになっちゃったんで」と返すと、彼女はすごく心配してくれて、最後には「でもきっとこれから良いことがありますから」と励ましてくれた。
よく用いられる激励の言葉ではあったが、彼女が言ったというだけでありがたい言葉になる。我ながら現金なやつだとは思うが、それでもよかった。
雑談配信は二時間ほど続いた。終わりの挨拶を聞いて画面を閉じた時、すでに俺の心の中にあった暗い感情は吹き飛んでいた。
部屋の中が暗いと感じたので、カーテンを開けた。雨はいつのまにか止んでいたらしい。
空を染める夕日の茜色が山のシルエットを浮かび上がらせている風景が、歴史に残る名画のように見えた。
俺は急に手作りの飯が食いたくなって、適当に材料を買いに行くために財布を握って外へ出た。