第9話
成人の儀は二日かけて行われる。
誕生日を迎える前日の午前は、日の出から日暮れまで祈りの間にてルクセリアを加護する翼竜に祈りを捧げ続け、夜は貴族や他国からの参列者を招いた晩餐会が開かれる。そしてその翌日に市民へのお披露目が行われるのが慣例だった。
「どう、可笑しくないかしら」
住み慣れた離れではなく、ここは本殿の中の一室だ。にこにこと笑みを貼り付けた見知らぬメイド達に囲まれた中、正面の鏡では着飾った自分が不安そうな顔をしている。
雪よりも白い儀式用のローブは職人が一年かけて刺繍を施したものらしい。その繊細な手触りと上質な生地はフィーリですら滅多にお目にかかれる代物ではない。
カーテンを引いた窓の外はまだ薄暗く、壁の灯りが室内を照らしている。その中でも一際光を反射しているのは、フィーリの頭上にあるティアラだった。
結い上げた髪を彩るように繊細な細工のそれは、かつて王妃が使用していたものだ。代々ルクセリアの女性に受け継がれているもので、成人の儀には着用することが許されている。
「とっても素敵です! こんな美しい王女はどの国にだっていません!」
「そ、それは流石に贔屓が過ぎるんじゃない?」
「いいえ! 私の中では姫様が一番です!」
鼻息荒く熱弁するエレナのきらきらした眼差しに、もう、と困りながらも慰められていた。
日の出と共に始まる成人の儀に備えて、まだ夜が明けぬ内から準備は始まる。国としての行事であるからフィーリの身支度に関わるのはエレナだけではない。今まで顔も合わせたこともないメイドに取り囲まれるのは酷く気疲れしたし、本当は少し怖気づいていた。
これで、『フィーリ』としての生活も終わる。これからは『アルフェリア』として
見知らぬ相手の伴侶にならなければならない。そうすれば今までのように城下町へ出かけたり、カロスの店で働いたり、ロイとあんな風に話したりすることもなくなるのだ。
「姫様?」
「……なんでもないわ」
エレナが心配そうにこっちを見るが、緩く首を振って笑ってみせた。これからは祈りの間へ行かなければならない。余計なことを考えている暇はないのだ。
「アルフェリア様、お時間です」
「――――分かりました」
一番年嵩のメイド長に促され、フィーリは頷く。眼鏡をかけたその奥は柔和に微笑んでいたけれど、この城で誰よりも長く務めてきた貫禄のあるメイドだ。少し太めの体格に、年はきっとユグレシドよりも上だろう。はしゃいだエレナを窘めるように送った視線はとても静かではあったが、彼女を諫めるには十分だったようだ。
しゅんとしたエレナに苦笑して、フィーリは深く息を吸い込んだ。
「参ります」
すっと表情を引き締める。背筋を伸ばし、手は腰の前で緩く組み、扉へ向かうとメイド達は深く礼をした。扉が開かれると外で待機していた近衛兵に先導されてフィーリは祈りの間へと向かう。後ろからはメイド長が少し離れて控えてくれている。そこにエレナの姿はない。
これから行う儀式は神聖なものだ。いくらアルフェリアの側付きメイドとはいえ、エレナはついてくることが出来なかった。姫様と、いつでも屈託なく慕ってくれるあの子の笑顔が寂しくはあるけれど、そうも言っていられない。
まだ空は白み始めてすらいない。夜の静寂に包まれた城内に響くのは足音だけだった。
王城を出て庭園を通り、辿り着いた場所はひっそりと佇む塔だった。そこはいつもフィーリが祈りを捧げる教会に似ており、ただ一つ違うのは入口に近衛兵が二人厳重に警備をしているところだ。
「それではアルフェリア様。これから日没までこちらで祈りを捧げて下さい。時間になりましたらまたお迎えに上がります」
この祈りの間には王族しか入れない。ここからは本当に一人で行かなければならないのだ。
「ええ、よろしくお願いします」
頷いたフィーリの顔をメイド長はじっと見つめる。その目元に刻まれた皺は深く、何か言いたげな瞳に首を傾げると彼女はふっと微笑んだ。
「ご武運をお祈りしております」
「……ええ、ありがとう」
それきりメイド長は深く頭を下げてしまう。
武運ってなんだ、武運って。
思えど聞く訳にもいかず、フィーリは重く開かれた扉の中へ一人進んでいった。
背後では錆びついた扉が鈍い音を立てて閉まっていく。ばたんと大きく空気が震えると、いよいよフィーリは一人になった。
「随分冷えるのね」
はあ、と吐き出した息が白くなる。
中に椅子や暖房器具は何もなく、突き当りに翼竜の像があるのみだった。壁の高いところに四角く小さな窓があるだけの、ほとんど牢獄のような空間だった。
大理石で出来た床は冷気が漂い、爪先がじんじんとしてくる。ローブの上にケープを羽織らせてはもらえたが、早朝ということもあって冷え込んでいる。
ここで半日過ごすとなると通常であれば辛いと思うのだろう。けれど、今はこの澄み切った空気が有難くもあった。
「さて、お勤めに励みましょうか」
ぱん、と両頬を叩いて気合を入れる。生まれて十七年。ルクセリアで暮らしてきたのだから寒さには慣れている。半日くらい薄着でいたって問題ない。
フィーリはケープを脱いで畳むと、薄いローブ一枚になって翼竜の像の前に跪いた。
***
その日、『ミーティア』の看板は下げられたままになっていた。まだお昼にもなっていない時分では、酒場の営業時間としては早すぎる。しかし扉にぺたりと貼られた一枚の紙には本日臨時休業の文字が大きく記されていた。
「よっ、マスターいるかい」
それにも関わらず、当たり前のように中へ入ったロイは人気のない店内をぐるりと見渡した。カーテンで閉め切られたせいか日中なのに店は薄暗く、けれど鍵が開いていることからカロスはいるはずだった。
「おや、ロイくんじゃないですか。今日はお店お休みですよ。表の貼り紙見ませんでした?」
カウンターの奥からひょこりと顔を出したカロスはいつも通りの顔でロイを出迎える。ただ一つ違うのはエプロンを巻いていないくらいだったか。
「見たから来たのさ」
「フィーリちゃんならいませんよ」
先手を打たれてロイはぐ、と言葉を飲み込んだ。あー、だのうー、だの、不明瞭に呻いた挙句、恥ずかしそうにぽりぽりと頭をかいて苦笑いする。
「そんなに分かりやすいか、俺」
「傍から見てると可愛らしいくらいですよ。気付かぬのは当人達ばかりってね」
どうぞ、とカウンター席を勧められるもロイは緩く首を振った。
「連れの目を盗んで来たんで長居できないんだ」
「ふふ、君達は抜け出すのがお好きですね」
「――――やっぱりか」
くすくすと口元に手を当てて笑うカロスにロイは肩を竦める。複数人を示したその言い方に、きっと全て知っているのだろう。
「本当、何者なんだいマスターは」
「まだお答え出来ませんが、今日はそれが目的じゃないんでしょう?」
「なんでもお見通しだな」
降参したように両手を挙げたロイの向かいで、楽しそうにカロスがカウンターに肘をついた。