第8話
結局、その後ロイは戻ってこなかった。
カロスに事の経緯を伝えると、そっかあといつも通りの笑みを浮かべて頷いただけで終わってしまった。まるで最初から分かっていたかのようなその反応に、フィーリはぽつんと取り残された心地になった。
仕方のないことだと思う。カロスになら雇い主だし、男同士だし、話せることが沢山あるだろう。ただ偶々出会っただけの自分なんかより、余程頼りにもなるはずだ。
何も知らされていないのは自分ひとりだけだったのだ。もう何も聞けなかった。
「別にいいですけど!」
ぷりぷりと怒りながらフィーリは王城への夜道を歩く。つい口から出てしまった独り言は思ったより大きくて、路地裏にいた野良猫がみゃあと驚いて走り去っていった。闇に溶けていくその姿に、どうしてかまた無性に寂しくなる。
最初こそ正直ショックだった。除け者にされたような気がして、でも時間を置くと今度は無性に腹が立ってきた。
だって、ちょっかいをかけるだけかけておいて、肝心なところを秘密にされたんじゃあ堪らない。向こうはいいかもしれないがこっちはもやもやするばかりだ。
ルクセリアに来たのだって成人の儀だけではなく、他に目的があってのことだろう。所詮フィーリはその間の暇潰し程度に構われただけのこと。
「ああ、もう!」
考えれば考えるほど腹が立つし悲しくなってくる。自分ばかりロイのことを考えているようで、それもまた面白くない。
怒りに任せてまた足取りが早くなっていく。大股で進んでいくと夜風が正面から吹き付けてきて、カンテラを持った手がかじかんだ。
もうすっかり外は暗い。いつもは人で溢れている大通りも、冬の夜はその賑やかさがなくなってしまっていた。月も雲に隠れて手元の明かりだけが頼りだ。
ちらちらと降る雪の欠片に冷え込むのはきっとそのせいだと自分に言い聞かせて、フィーリはくしゃみを一つ零した。
「っくし!」
ぶるり、震える肩。もう少し厚着をしてくれば良かった。あの紅色のマフラーならきっと温かいだろうとそこまで考えて、フィーリは慌てて頭を振った。あの太陽みたいな笑顔ばかりが浮かんできて、窘めるように強い風が更に吹き付けてきた。
「きゃっ!」
ひらひらとはためくスカートの裾を抑えるも入りこんだ風のせいで太腿まで露になってしまい、誰もいないと分かっていても慌てて後ろを振り返ろうとした、その瞬間。
「――――っ」
ぞくりと背筋が粟立った。立ち止まった足。どくんと心臓が大きく跳ねる。
「……誰?」
視線の先に広がるのは闇ばかりで、問いかけに答えるものはない。時刻は間もなく日付が変わる頃、こんな夜分に歩くものなどほとんどいないはずだ。
しんと静まり返る空間に、気の所為だったかと詰めていた息を吐き出した。
少し疲れて過敏になっているのだろう。フィーリは肩にかけたストールの前をぎゅっとかき合わせて再び歩き出す。
送っていくよと、いつか言ってもらった言葉が頭を過る。今だったら素直にその手を取れたかもしれない。寒さで真っ赤になった手にはあっと息を吹きかけながら、フィーリは足早に王城へ向かった。
***
そんな具合だったから翌朝の目覚めは最悪だった。
「姫様、どこかお具合でも」
銀色の髪を梳かしてくれていたエレナが後ろから心配そうに声をかけてくれる。お互いが王女とメイドという本来の姿であるのに、最近は逆でいることが多かったせいか少し不思議な感じがした。
くあ、と欠伸を噛み殺していたフィーリはひらひらと手を振った。
「ううん。ちょっと寝不足なだけ」
「そう、ですか?」
あまり気を遣わせないよう、へら、と笑みを貼り付けたものの、その真意を探るようにじっと見つめられてフィーリは少し居心地が悪い。
嘘は言っていない。帰り着いて眠る頃にはもうだいぶ時間が経っていたし、何度も寝返りを打って気が付いたら朝だったのだ。
そう、これは単なる寝不足である。決して夜通しロイのことばかり考えていた訳ではない。
「もうすぐ成人の儀だから緊張してるのかも」
冗談めかしてみるも、鏡の中の自分はどんよりしている。寝起きはもっと酷かった。青白い顔に目の下のクマもくっきり出てしまい、朝の挨拶にきたエレナが思わず叫んだほどだった。それでも今はエレナが施してくれた化粧のおかげでなんとか見れる顔になっている。
「無理なさらないで下さいね。もしお辛いようでしたら本日はお休みされても……」
「そういう訳にもいかないわ。お父様から食事のお誘いを頂くことなんて滅多にないんだから」
ふう、とフィーリは溜息をつく。
淡いブルーのドレスに華奢な銀のネックレス。荒れた手を隠すためにサテンの手袋をしたその姿は紛れもない王女であった。
こんな余所行きの格好をしたのは久しぶりである。いつもはどうせ誰にも会わないからと、よくてシンプルなワンピース姿なのだ。最近は特に見なくなった『アルフェリア』が自分じゃないみたいだった。
「それにしても前もって教えてくれたら良かったのに」
くあ、と欠伸を噛み殺しながらフィーリは唇を尖らせる。
王であり、父であるユグレシドから朝食の席を共にするようにと通達があったのは今朝方だった。朝日も漸く顔を出したくらいの時間と言えばそれがどれだけ早朝だったかは分かるだろう。王直属の近衛兵がわざわざ離れまできたのだから、二度寝なんてする暇もなかった。
「でも私は久しぶりに姫様を飾ることが出来て楽しかったです」
「エレナも物好きね」
「姫様のためにいっぱい勉強してるんですよ。ほら、御髪はこちらでいかがですか」
櫛を置いたエレナは、フィーリに髪型が見えるよう二つ折りの鏡を手に持ち替える。細かく編み込んだサイドの髪を緩く結い上げてまとめることで清潔感を出し、朝食の席だからと背中に流したそのセットは見事なものだった。華美になりすぎないようシンプルな髪飾りを添えればそこそこ人前に出られるくらいになっただろうか。いつもながらエレナの腕前は見事だった。
「じゃあ行きましょうか」
時計を見れば間もなく指定された時刻になる。化粧台の椅子からゆるりと立ち上がってフィーリはエレナを伴って離れを出た。庭園の石畳を通り、いつもはこのまま裏門へと向かうが今日は本殿の中へと進んでいく。半歩下がった後ろではエレナが静かに付き従ってくれていた。
本殿へと続く門の前には衛兵が二人並んで立っていて、『アルフェリア』の姿を見つけると驚いたように慌ててびしっと敬礼の姿勢をとった。
「ご苦労様です」
「は、はっ!」
にこりと微笑みかけて通りすぎるが、昨夜のように大股で歩く訳にはいかない。今は王女であるアルフェリアなのだ。しかも離れから滅多に出てこない病弱な身という肩書きがあるからには、それなりにちょっと嫋やかな空気を醸し出さなければなだない。
直立不動で道を開けてくれた衛兵の間をしずしずと進んで食卓の間へと向かう。その歩みの遅いこと遅いこと。漸く人目につかないところまで行って、フィーリははあと息をついた。
『フィーリ』としてだいぶ気を抜いた生活を送ってきた弊害だ。まもなく成人の儀を迎えるのだから、そろそろ王女としての勘を取り戻しておかなければならない。
(暫くお店には行けないな)
カロスからは来れる時に働いてくれたらいいとだいぶ自由にさせてもらってはいるが、これからはきっとそうもいかないだろう。
王族の成人にはそれ相応の責任が伴うのだ。政治の全権自体はユグレシドにあるものの、国営に関する会議の出席やサロンでの交友、果ては外交の一端を担うものである。ユグレシド王の意向でそれらは全て弟のローランドが対応してきており、今までアルフェリアだけが免除されてきた方が異例だった。
しかし、成人を迎えればそうもいかない。
今回朝食の席に呼ばれたのも、きっとその話だろうことは容易に想像がつく。
食事の間の扉の前で、フィーリは一度深呼吸をした。それから再びピンと背筋を張って頷くと、控えていた他のメイドが扉を開いた。
「おはようございます、お父様」
扉が開ききる前にスカートの裾を摘まんで一礼する。腰を折り、爪先を見るように頭を下げたままフィーリは動きを止めた。例え親子であっても許しがなければ顔を上げてはいけないのだ。
「座れ」
しゃがれた声が響く。決して怒鳴っている訳ではないのに、不思議と鼓膜が震えてフィーリはごくりと喉を鳴らした。
久しぶりに聞いたユグレシドの声が重く圧し掛かる。柄にもなく緊張している体を頭の中で叱咤して、フィーリはゆっくりと顔を上げた。
「失礼致します」
顔の筋肉を総動員して微笑みを貼り付ける。フィーリはもう一度腰を屈めて礼をすると、用意された席へと足を向けた。
この部屋の天井にはシャンデリアが輝いている。窓から差し込んだ朝日が反射したその部屋の中央に、恐ろしく大きな長方形のテーブルがあった。入口から一番遠いその上座に座った初老の男は、入室したフィーリを認めると一つ頷いた。
王だけが纏うことを許されるベルベットのマントに、白くくすんだ髪の上には唯一の王冠が輝いている。いつ見ても変わらぬ王としての姿に少しだけ気圧される。
動揺を悟られぬよう、笑顔のまま執事に椅子を引かれて着席すると、それを合図に控えていたメイド達が配膳を始めた。ユグレシドとフィーリしかいないのに随分大掛かりなことだ。いつもエレナと二人きりだったからこんな大勢に囲まれることにどうしても慣れない。
「本日はお招き頂きありがとうございます。昨夜は雪が降っておりましたのに、今日のこの晴天はきっとお父様のご威光のお陰かもしれません」
「ああ」
沈黙。たった一言で会話は終了となった。
色々と話の種は考えていたものの、特に興味がないのかユグレシドはフィーリに目もくれない。食事が運ばれてくると黙々と食事を始めてしまった。
元々、ユグレシドとフィーリの仲は良くない。
母が生きていた頃はそれなりに顔を合わせることもあったが、今は戯れに離れにやってきては嫌味を告げて帰っていくだけだ。それも月に一回あるかないかの頻度で何をしたいのかさっぱり分からない。
(息が詰まりそう)
沈黙のまま食事が始まる。会話もなく、ただ時折食器の立てる微かな音だけが全てだった。とても親子には見えないだろう。無表情で給仕をするメイド達にはこの光景がどう見えているのか。
「アルフェリア」
かちゃり、フォークが置かれる。フィーリはまだ食べ途中であったが、同じく食器を置いてユグレシドに視線を向けた。
これが本題だ。朝食なんて呼び出すための口実に過ぎない。
「はい」
しんと静まり返った部屋の中、ユグレシドはナプキンで口元を拭った後にフィーリへ視線を向けた。
「成人の儀でお前の婚約者を発表する」
「――――こ、」
婚約者だなんて初耳だ。慌てて叫びそうになったのをぐっと堪える。今はアルフェリアなのだ。はしたない真似は出来ない。引き攣った口元はまだ笑みの形を保っていただろうか。
こほんと一つ咳払いをして、フィーリは改めてユグレシドに向き直る。
「ど、どのような方なのでしょうか」
「お前が知る必要はない」
「――――っ!」
冷たく吐き捨てられて、フィーリは息を飲み込んだ。
ユグレシドの瞳がフィーリを貫く。その鋭い眼光に貫かれてしまったように体が動かない。
「言っただろう。お前はこの国のために生き、死ぬのだ。そこにお前の意志など存在しない。私の言うとおりにしていればいい」
そこに親子の情などなかった。冷酷なまでの王が命令を下しただけだった。
いずれ、そうなるのだろうと漠然とは思っていた。
この国はローランドが継ぐ。第二子ではあるが、王子なのだ。それは揺るぎない未来だった。そうなれば、アルフェリアに残された役目は他国へ嫁ぐことだけだ。
手っ取り早く、克つ強固に結びつくことが出来る簡単な方法だ。王女の存在意義などそんなものである。
だから、ユグレシドはこの時までアルフェリアを生かし続けた。十八年間好き勝手させてもらったのだ。ならばその恩に報いなければなるまい。
「……かしこまりました」
頭を下げるとユグレシドは席を立ちあがる。深紅のマントを翻して迷いなく去っていくその背をフィーリはじっと見つめた。
一度だけ。たった一度だけでいいから振り向いてくれないだろうか。
繁栄のための駒でいい。物として扱われたって構わないから、本の少しだけでもアルフェリアに対して愛情を見せてくれたら、きっと死ぬまでいい王女を演じることができるのに。
けれど、無情にも扉は重く閉ざされる。残された食卓の上には冷めた食事が影を落としていて、一人ではとても再びフォークを取る気にはなれなかった。
母はどうしてこんな人を愛したんだろう。
いくら問いかけても、記憶の中の母は何も答えてくれなかった。