第7話
「ただいま戻りました!」
走ってきた勢いものままに入口をくぐると、扉がばたんと悲鳴をあげた。かつかつと足音を響かせて真っ直ぐ店内に入ると、常とは違うフィーリの剣幕にカロスがきょとんと目を丸くする。
「おかえり、フィーリちゃん」
カウンターの上に買ってきた食材をどすんと置いて、フィーリは詰めていた息を大きく吐き出した。店内に客がいるかも、とか何も考えられなかった。衝動のままに走って一目散に逃げてきてしまった。
「何かあったの?」
「いいえ! 何もないです!」
「そっか~」
即座に否定したフィーリの言葉にうんうんと頷いて、カロスは荷物を受け取った。何かを察したのだろうかそれ以上深くは聞かないで、いつも通りの態度でいてくれるその背中に少しだけ落ち着きが戻ってくる。
走ってきたせいで荒くなった息を整えようと、フィーリは大きく深呼吸する。胸いっぱいに吸い込んだ空気をゆっくり吐き出せばいくらか頭も冷めてきた。
そう、何もなかったのだ。
再びそう自分に言い聞かせてフィーリは台拭きを手に取った。開店時間は間もなくである。きっと今日も忙しくなるだろう。早く店内の掃除を済ませて、カロスの手伝いをして、客が来れば給仕に走らなければいけない。
頭の中でやることをあれこれ考えていても、テーブルを拭く掌がじんじんと熱を孕んでいた。
「……ばか」
人を叩いたのなんて初めてだった。ばちんと響いた大きい音と感触が未だに残っている。からかわれたとはいえ、人に手をあげるのはいけないことだ。だけど頭の中が真っ白になって、恥ずかしくて、とにかくその場から離れたい一心だった。
手に触れた柔らかい唇の感触を思い出してしまい、フィーリは慌てて机をごしごしと吹き始める。お嫁さんだなんて、キスだなんて、からかってるに違いない。
だから、怖くてロイの顔は見れなかった。最初は怒りだけだったけど、走ってる内に込み上げてきた悲しさの理由なんてフィーリに思い当たるはずはないのだ。
それでも、ふと窓の外を見てしまう。ちらりと振り始めた雪に寒くないかな、と考えてしまって慌てて頭を振った。
そのガラス越しに黒い人影が見えてフィーリはぱっと顔を上げた。
「ロ――――!」
「失礼」
カランとドアベルが鳴る。ロイと呼びかけた声よりも早く低い男の声が店内に響いた。落ち着いたその若い声はロイではない。
すっぽりと全身を黒いローブで覆って顔はよく見えないが、少なくともルクセリアの民ではなさそうだった。それが分かった瞬間、フィーリの中でがっかりした気持ちが湧いて出てしまって、打ち消すようにその男の元へ近寄る。
「すみません、まだ準備中なんです」
壁掛けの時計はまだ営業時間よりも半刻ほど早い。とはいえ雪の降り出してきた外に追い返すのは気が引けた。カロスに聞けばきっといいよと快諾してオープンを早めてくれるに違いない。
「それでも良ければお席にご案内しますが」
「いや、俺は客じゃないんです」
「え?」
きょとんとしたフィーリの前で、男はぱさりとフードを外して素顔を現す。
この辺りでは珍しい髪色だった。形の良い頭に沿って切られた短い黒髪と、血管が透けて見えそうな青白い肌。外を出歩くよりも室内で研究でもしていた方が似合いそうな風貌だ。切れ長の鋭い琥珀色の瞳がきょろりと店内を彷徨った。
「人を探してるんですが、ここに金髪の男は来ませんでしたか」
「金髪」
真っ先に思い浮かんだロイの顔に、まさかねと打ち消す。
「身長は僕よりも高いくらいで」
「はい」
「青い瞳のお調子者で」
「……はい」
「ソルアレス国からの旅行者なんですが」
完全にロイであった。思わず頭を抱えたフィーリに、男はなんだか色々察してくれたような哀れみの視線を送ってくれた。
「ご迷惑をおかけしてすみません」
「…………いえ」
丁重に頭を下げてくれた男は顔を上げて深い溜息を吐いた。ロイが言っていた連れとはきっとこの人のことだろう。第一印象こそ神経質そうだな、なんて勝手に失礼なことを思っていたが、苦労を重ねてきた故かもしれないとフィーリはちょっと同情する。
「ロイのことです、よね」
「やはりご存じでしたか」
念の為そう問えば男は深く頷いた。ほっとしたようなその様子に、男といるのはむさくるしくて嫌だ、なんて言うようにはとても見えなかった。きっとロイがこの人を撒いて単独行動してきたに違いない。心配して探しにきてくれたであろうこの人に申し訳なくてフィーリはぎゅ、と服の裾を握った。
「すみません、さっきまでは市場で一緒だったんですが、その」
未だじんじんとした手を胸に抱える。段々と声が尻すぼみになっていくフィーリに男はすまなそうに眉を下げた。
「私の連れが失礼をしたようで本当に申し訳ない」
まるで自分のことのように顔を歪めた男の顔に慌てたのはフィーリだった。
「いえ! 私がちょっと怒ってしまって……」
「とんでもない。怒らせた連れが悪いのです。なんとお詫びしていいか……」
このままだと彼が腹を切りかねない。重くなってしまった空気を打破してほしくてフィーリがカロスの姿を探して視線を店の奥に移した瞬間、カランと再びドアベルが鳴った。
「あれ、ハルちゃんじゃん」
場違いに明るい声が響いてフィーリの肩がぎくりと固まる。別れた時と変わらず飄々とした顔で戻ってきたロイは、ハルと呼んだ男の姿を見つけてぱっと顔を輝かせた。
それにぴくりと反応したのはハルだ。
「あんたどこで油売ってたんですか」
静かに、けれど凄みをきかせてハルが睨みつけるも、ロイはへらりと笑って入口で肩に積もった雪を払う。
「悪い悪い。ここの店の料理がうまくてさあ」
呑気なその返事にぷちっと何かが切れる音がした。ハルはゆらりとローブの裾を翻して至近距離でロイの鼻先に顔を寄せる。
「今日は準備で忙しくなるって言っていましたよね。この耳でちゃんと聞きましたよね」
「あだだだだ悪かった悪かったってば!」
ぎゅうとロイの耳を引っ張る男の目は据わっている。よほど苦労かけられてきたのだろう。骨ばった手にも血管が浮き出ていてその辛さが如実に表れていた。
指先で力いっぱい摘ままれては堪らないだろう。それでも振り解かずに甘んじて罰を受け入れてるのは、ロイはロイで悪いと思っているのかもしれない。
そのまま千切れてしまうのではとフィーリの方がはらはらしながら見守っていると、ハルが不意にぱっと手を離した。
「って、どうしたんですか。その手形」
ロイの左頬。そのキャンバスには掌の跡がくっきり赤く残っている。それは決して寒さ故に染まったものでないことは誰の目にも明らかだった。
「いやあ、まあ、なんだ」
「あなた、まさか……」
言葉を濁すロイを信じられないような目でじとりと睨みつけて、けれどハルはそれ以上何も言わずにくるりとフィーリに向き直った。
「お詫びはまた後日改めて参ります」
「ちょっと待ってくれよハルちゃん。俺はまだ」
「後日、改めて、参ります」
「ハイ」
決して声を荒げた訳ではないのに、一区切り毎にハルの怒りがひしひしと伝わってきて流石のロイも大人しく頷かざるを得なかったようだ。
ハルはフィーリに向かい深々とお辞儀をして再びフードを頭に被る。余程急ぎの用でもあったのか、そのまますぐ『ミーティア』を出ていったその背中にロイ続こうと踵を返した。
「ろ、ロイ!」
「うん?」
思わず呼び止めてしまってから、フィーリははっとして口元を抑えた。引き留めたところで一体何を話すというのだろうか。
口を噤んでしまったフィーリをじっと見つめたあと、ロイはふっと目元を和らげる。
「またな、フィーリ」
にか、と歯を見せて笑ってロイは店を出ていった。カランとドアベルが乾いた音色を響かせる。閉められた扉の内側で、蚊帳の外に放り出された気になってフィーリは己の手をじっと見つめた。
「……ちゃんと謝ればよかった」
掌の熱は未だ冷えない。残されたフィーリは赤くなったままの手をぎゅっと握り締めた。
***
「出歩くときは私かクリスを連れるように再三申し上げましたよね」
日の暮れた城下町に人の姿は少なかった。しんしんと降り始めた雪で視界と気配が上手く読み取れず、それでも周囲を警戒しながらハルはロイの少し後ろを歩く。
「だってお前らがいたら警戒されるじゃん」
「もうだいぶ警戒されてたように見受けられましたが」
「え、結構打ち解けたつもりだったんだけど」
「おめでたい頭で何よりです」
冷たいハルの視線にも動じず、ロイはおかしいなあと首を捻った。こちらの苦労など知らないような素振りにハルの溜息は深くなる。今頃部屋でぬくぬくとお茶を飲んでいるだろうもう一人の連れは、きっとこうなることが分かっていたからハルに迎えを押し付けたに違いない。
「ともかく、今後は勝手な行動は控えて下さい」
「分かった分かった」
「返事は一回!」
「分かりました!」
これではどちらが主人か分かったものではない。痛み始めた頭を抑えるハルは温かいベッドが恋しくなった。
「準備はちゃんとするから心配しなくていい」
「頼みましたよ、本当にもう」
やけに楽し気なロイの視線の先、ユグレシド王のいる王城が黒くそびえたっていた。