第3話
『ミーティア』の閉店時間は他の酒場に比べて早い方だ。そもそも客の数も少なかったし、通いで来ているフィーリが門限に間に合うようにと、カロスは日付が変わる前には表の看板を下げてしまうのだ。
流石にそれは申し訳ないと最初は訴えたものの、「金儲けのためじゃないからいいんだ」と流されてしまい、でも実際は有難かったからそのまま甘えてしまっている。
だって、流石に朝帰りはできない。大人ぶってはみせるけれど、フィーリはまだ十七だ。酒は給仕出来ても摂取出来ない幼気な未成年である。
常連客もその辺りをよく分かってくれていて、酔いどれていても時間が近付けば何も言わなくとも会計を済ませてくれた。おかげで今日も閉店作業が捗って大助かりである。
汚れた食器を片付けて店内の清掃をして、売上の計算と戸締りはカロスに任せてフィーリの仕事は終了だ。
「遅くなっちゃった」
カーテンの隙間から外の暗闇を覗き見てフィーリは眉を下げる。あれこれと片付けていたら時刻はもう十二時前だった。いつもより客の入りが多く、行きつく間もなく働き詰めの夜でくたくただ。
ロイはというと、閉店間際までカウンターの一席をずっと占拠し続けていた。というよりは、ポトフの美味しさに打ちひしがれてじっくり味わっていた、という方が正しいか。フィーリにちょっかいを出すこともなくひたすら真剣にスプーンを口に運び続け、食べ終わって会計を済ませてよろよろと店を出ていったのは少し前の話だ。
(……大丈夫かな)
どこかで倒れているかも、と少しだけ心配になるが、すぐにふるふると首を横に振る。だって、ちゃんと忠告はした。それでも強行したのはロイの選択だ。
罪悪感を振り払うように『ミーティア』の扉を開けると、冷たい夜風が吹き付けてきた。ぶるりと肩を震わせながら店の外へ出ると、その背中にフィーリ、と声を掛けられる。
「お疲れ様。送っていこうか」
にこやかに声を掛けられてどきりとする。振り返れば闇夜の中でも浮かぶ金髪が見えて、けれど青白い顔はその声程元気そうではなかった。寒さのせいではないだろう。先程美味しい美味しいポトフをたらふく食べたばかりなのだから。きっと暗くてそう見えるのだと、フィーリはにこりと笑いかけた。
「大丈夫です。ルクセリアの治安はまだいいので」
まだ、と強調すると、男は困ったように頬をかいた。
「悪かったって」
「いいえ。気にしてませんから」
つんとそっぽを向いて、でもちらりと横目で男の様子を探る。本当に悪いと思っているのか、最初程の覇気がない姿に、ちょっと可哀相かなという気持ちも出てしまった。自分のこういうところがつくづく甘いと思う。
「名前」
呟くと、男の目が瞬く。
「名前も知らない人についてきてもらえる訳ないでしょう」
自分がどうこうという訳ではないが、一応それなりに淑女としての自覚はあるし、何よりカロスが結構気にかけてくれるのだ。その心配を無下にするような行動だけはとりたくない。
じっと男を見つめると彼は不思議そうに首を傾げた。
「あれ、俺まだ名乗ってなかった?」
「私も名乗ってないですね」
「おかしいな。もうずっと前から知り合いみたいな気でいたんだが」
酔っているのか本気なのか、飄々とした口調にフィーリは構えていた体から力が抜けていくのを感じた。きっと悪い人ではないんだと思う。警戒する自分の方が大げさな気がしてきて、フィーリは小さく息をついた。
「じゃあ改めまして、俺はロイ」
に、と歯を見せて笑った男はそう名乗る。ロイ、と子供のように繰り返すと嬉しそうな顔をされてしまい、さっきまでのもやもやした気持ちも薄れていくから不思議だった。
「私は――――」
続けて名乗ろうとしたフィーリの口に、硬い指先がと、と触れる。
「フィーリ」
得意げなロイの顔が近付く。唇に触れた指は冷え切っていて、先に店を出た彼が閉店作業を終えるまでずっと外で待ってくれていたんだと、気付かないほど鈍感ではなかった。
どうしてここまでしてくれるのだろう。ただのお節介なのか、それとも何か裏があるのか。頭の中では邪推しては、結局どうしてか絆されてしまう。
「驚かないんだ」
「さっき思い切りマスターが私の名前呼んでたじゃないですか」
「あ、ばれてた」
もう、とつい笑みを零してしまったフィーリにロイは満足そうだった。
「そんなに酔っぱらって宿の場所ちゃんと分かります?」
「平気平気」
ルクセリアの街がいくら整備されていようと、土地勘のない他国の人にとっては歩きづらいだろう。しかしロイはへら、と笑って気にしたそぶりもない。
「迎えがくるから、ほら」
ロイの視線につられて振り返ると、路地の更に遠くの方でカンテラの灯りが二つ並んでいた。流石にその顔までは見えなかったが、ロイが手を挙げると応えるようにそのオレンジ色がゆらゆら揺れる。
「持つべきものは優秀な仲間だよなあ」
「じゃあ大丈夫そうですね」
よかった、呟くと男はきょとんとした。まじまじと見つめられてフィーリはたじろぐ。
「……なんですか」
「いやあ、人がいいなあと思って」
「皮肉にしか聞こえないんですけど」
「違いない」
ロイはけたけたと笑って、それからすっと目を細めた。
「真面目な話、本当に送っていくよ。いくらここがユグレシド王のお膝元って言っても夜道は怖いだろう」
ロイの心配そうな眼差しが真っ直ぐフィーリに向けられる。その瞳は揺らぐことなく、きっと紛れもない善意なのだろうということはフィーリにも分かった。
「あなたって……」
こんな身元もはっきりしない、調子のよい優男なんて信用するつもりは微塵もないのに、それでもこんな風に案じられると、もうそれ以上は怒れなかった。
フィーリははあと溜息をついて、それからちょいちょいと手招きした。
「手、出して」
「へ?」
「いいから」
フィーリが語気を強めると、首を傾げながらもロイは素直に手を差し出した。存外武骨なその大きい掌にだった。フィーリは肩に下げた鞄の中から掌ほどの小包を取り出して、そこにぽんと乗せた。
「これは?」
「胃薬」
小包を摘まみ上げてまじまじと眺めていたロイの視線がフィーリに戻る。なんとなく照れ臭くなって、スカートの裾を握り締めた。
「良く効くやつなの。早目に飲んでおくと楽だから、その」
尻すぼみになっていく言葉に居たたまれなくなる。最後まで聞こうと耳を傾けてくれるロイのことも相まって、とうとうフィーリはくるりと踵を返した。
「家、ここから近いから大丈夫です。じゃあ!」
そのままカンテラの灯りがある方とは反対側の大通りへと駆け出す。頬が熱い。慣れないことにどんな顔をしていいか分からなかった。
「フィーリ」
決して叫んではいないのに、よく響く声だった。
ロイの声はとても不思議だ。耳に馴染んで酷く落ち着く。どこか抗いがたいその音に、悔しいけれどフィーリの足は立ち止まってしまう。
このまま走り去ってしまえばいいのに、そろりとストールの裾を口元にあてて振り返れば、蕩けそうな顔でロイが微笑んでいた。
「やっぱり送ってこうか」
「大丈夫ですって!」
逃げるようにそのまま再び駆け出すと、流石にそれ以上は追ってこなかった。それが少し残念な気もして、振り切るように足を動かした。
月明かりを頼りにフィーリは進む。その視線の先には王城が空に伸びるように大きな影を伸ばしている。石畳に靴の踵を響かせながら適当な路地で曲がり角を裏の方に折れた。曲がってすぐに壁にぴったり背中を寄せて、誰も近くにいないことを確認すると、ほうと息を吐く。
「ロイ、か」
胸の鼓動が早いのは走ったからだ。そう自分に言い聞かせてフィーリは一度己の頬をぴしゃりと叩いた。ここからは『フィーリ』ではいられないのだから、意識を切り替えないと。何度か深呼吸をして、今度は足音を消して歩き出した。
王城に近付くにつれ民家は少なくなっていく。代わりに姿を現したのは強固な壁だった。その壁伝いに裏手の方へ行くと、兵士達が出入りするための裏門が見えてきた。その前で、夜勤の兵士が二人槍を立てて見張りをしている。
フィーリは壁の影に身を隠してそれを確認すると、ばさりと肩にかけていたストールを脱いだ。三角に折り畳んでフード代わりにし、頭に乗せる。目の上にかかるように少し調節して顔がよく見えないことを確認してから、何気ない顔で裏門の方へ歩いていった。
「こんばんは、ご苦労様です」
ほんの少し、声色を変える。いつもよりも高目の声を意識すると自分の声じゃないみたいだ。ここだけはいつもちょっと恥ずかしい。
声に気付いた門番がカンテラを掲げる。フィーリの顔を認めると、それまでの退屈そうな顔を破顔させて手を振った。
「こんばんは、『エレナ』」
当たり前のように別の名を呼ばれる。しかしフィーリはにこりと微笑んで頭を下げた。
「これ、差し入れです」
鞄から酒瓶を取り出して門番に渡すと、もう一人も近寄ってきて嬉しそうに顔を輝かせた。『ミーティア』で取り扱う酒はどれも上手いと評判だった。時々カロスに頼み込んで一本買わせてもらうのだが、夜食を持ってきた時の倍は喜んでもらえるので最近の差し入れはもっぱら酒だった。
「いつも悪いなあ」
「いいえ、こちらこそご迷惑をお掛けして」
「なあに。王女様の頼みとあっちゃあ断れねえよ、なあ?」
「全くだ」
すまなそうに頭を下げたフィーリの前で門番達は笑った。大事そうに酒瓶を抱えて一通り笑ったあと、彼らは門の脇にどいて中への扉を開いてくれる。
「メイドも大変そうだ」
「国を守る皆さんに比べたら、そんな」
おほほと口元を抑えながら門を潜ってフィーリは通路を進む。煉瓦でできたアーチ状の渡り廊下の先、兵達が控える宿舎を抜けると裏庭へと道が続いていた。
このまま真っ直ぐ進めば王達の住まう本殿に繋がるが、フィーリはそちらには向かわずに離れの方へと進んでいく。裏庭の片隅の小さな塔だ。本殿に比べれば王城のほんの一部に過ぎないものの、それでもちょっとした教会くらいの大きさはある。
「ただいま」
扉を開くと、中は薄暗い。ベッドとテーブルとソファーと。必要最低限の調度品だけが誂えられた部屋の中、テラスへと続く大きなガラス扉の前、天蓋つきのベッドの中に佇む華奢な背中があった。
白のローブを身にまとい、窓から差し込む月明かりに輝くのは長い銀色の髪だ。
「遅くなってごめんね、『エレナ』」
フィーリはストールを外してベッドに近付く。もしかしたらうたた寝をしているのだろうか。反対側のベッドに手をつくと、その揺れでフィーリの存在に気付いたのかエレナと名を呼ばれたその影が振り返った。そして、そのまま飛び込んでくる。
「姫様――――!」
「うわあ!」
飛び込んだ、なんて可愛いものじゃない。エレナの小さな頭がフィーリの鳩尾に激突すると、衝撃でそのままベッドに二人して倒れこむ。ぼふんと上等な枕に埋もれてほっと息をつく間もなく、フィーリの上に覆い被さった少女はがばっと起き上がった。
「こんな遅くまで何されていたんです!」
「ご、ごめんごめん」
「私がどれほどアルフェリア様のことを心配したか分かってるんですか!」
フィーリに詰め寄るエレナのその頭から銀色の髪がずるりと落ちていく。ぱさりと床に落ちたのは良く出来たウィッグだ。代わりに現れたのは亜麻色のふわふわした髪で、同じアーモンド色の瞳には涙がいっぱい浮かんでいた。
「ちょっとばたばたしてて」
「日付変わる前にはちゃんと帰るってエレナと約束して下さったのに!」
そばかすが目立つせいで幼い顔立ちがくしゃっと歪むと、フィーリは慌ててその小さな体を抱きしめた。
「泣かないでエレナ、ごめんね、もうしない」
「心配したんですからあああっ」
わんわんとフィーリの胸の中で顔を覆って泣くエレナの背を撫でながら、フィーリ――――アルフェリアはここが離れで良かったと心から安堵した。エレナの声は結構響くのだ。
「今日も一日ありがとね。お陰で外に行けたわ」
「……楽しかったですか?」
ひっくとしゃくりあげながらエレナが顔を上げる。頭の中でロイの顔が思い浮かんだが、すぐにそれを打ち消してフィーリはにこりと笑う。
「もちろんよ」
「……じゃあ、いいです」
くすんと目元を拭ったエレナの頭を撫でてやって、フィーリはふうと息をついた。真面目でとてもいい子なのだが、結構、いやかなり心配性だった。
「レモネードでも飲んで休みましょうか」
「あっ、私がご用意致します」
「いいから。エレナは先に着替えてて」
一通り騒いで落ち着いたのかエレナは慌ててベッドから立ち退こうとする。その体を押しとどめて、フィーリはクローゼットに隠していたエレナのメイド服を渡してやった。己が今どんな服を着ているのか思い出したのか、エレナは大人しくそれを受け取って部屋の隅で着替え始めた。
「今日は何も大事なかった?」
「ええ。食事の配膳だけであとはいつも通りでした」
部屋の隅に備えられた小さなキッチンでお湯を沸かしている間、ティーカップを取り出そうとしてガラス戸に己の姿がうっすら映る。エレナと同じ亜麻色の髪のままだったことに気付いてフィーリは頭に手をかけた。
「――――ふう」
さらり、中から零れ落ちたのは星屑を散りばめたような銀の髪だ。エレナが被っていたものとは違う、上質な絹糸のような滑らかさがあった。腰まで伸びた髪を手櫛で整えるとようやく落ち着いた心地がした。着ているものは同じであるのに、その雰囲気ががらりと変わる。
「まあ、癖がついてしまってます」
さっきまで来ていた白のローブではなく、紺を基調としたメイド服を身にまとったエレナがぱたぱたと走り寄ってきてフィーリの髪を悲しげに見つめた。
「お座りになって下さい。今お茶の準備をしたらすぐ整えます」
「もう眠るだけだから平気よ」
「だ、め、で、す」
ずい、と詰め寄ったエレナの迫力に負けてフィーリは手に持っていたティーポットをそっと奪われる。ここからは自分の仕事だといわんばかりのエレナにソファーの方へ追いやられると、フィーリは渋々従った。
「エレナは真面目ねえ」
てきぱきとお茶の準備を進めるエレナの背中を見つめながらフィーリはくあ、と欠伸を噛み殺した。大きく伸びをしてソファーに体を預けるその姿は猫のようにリラックスしていて、その姿こそが、まさかこのルクセリアの王女だとはとても思えないだろう。
雪のように透明感のある白い肌、星屑を砕いたような銀の髪に、紅玉をはめ込んだ赤い瞳。ユグレシド王の妻であった、今は亡き王妃の面影にそっくりであることが何よりの証拠だ。
「姫様をお守りするにはまだ足りないくらいです」
陶器の音もたてず、フィーリの前にティーカップを置いたエレナはきっと眉を吊り上げる。
エレナはアルフェリア付きの唯一のメイドだった。
そもそも、アルフェリアの姿をみたことがあるのは王城でも極僅かであった。生まれつき病弱で、と世間ではわざと噂を流してはいるが、風邪一つ引いたことがないくらいの健康体である。
「そんな気負わなくったって平気よ。だって」
ティーカップに口をつけて、ふとフィーリは窓の外に目を移す。透明な硝子のその奥、本殿の中央にある塔の最上階が見えた。
「どうせ私はあの宝玉以下の存在だもの」
宝物庫よりも、王の寝室よりも。この国で一番警備の厳しい場所が、そこであった。
ユグレシド王の若き頃、旅の果てに見つけた宝珠が安置されているとされる場所だ。門番は王が自ら選定した信頼のおける騎士が配置され、フィーリですらまだ足を踏み入れたことがない。
それに比べて、ここの離れには警備兵すらいない。政治とか外交とか全くしていないけれど曲がりなりにも王女であるはずなのに、つまりは所詮、ユグレシドにとっての自分などその程度なのだ。
「この国はローランドが継ぐわ。私はせいぜい政略結婚の道具ぐらい」
「でも、一週間後にはお祝いして下さるじゃないですか」
「外交のためにね」
ふう、とティーカップを置いてフィーリは溜息をついた。街のお祭り騒ぎも、他国から来てくれている人達も、口実として騒いでいるだけに違いない。こんな平凡でつまらない女を祝ったって、なにもいいことなんかないのに。
「生まれた時からこんなだし、ある程度覚悟はできてるわ」
「姫様……」
別に病弱だった訳でもなんでもない。ただ地方の民族出身である母の容姿を色濃く受け継いだゆえに、父に気に入られなかった。公の場に出すことを頑なに許されなくて、結果、幽閉まがいの生活を強いられていたのだ。
「でもエレナのおかげで不満はないの」
フィーリの傍らで佇んでいたエレナに微笑みかける。
エレナがメイドとして勤めてくれるようになるまでは、それこそ一人で暮らしていたのだ。時折城を抜け出して街に行くこともあったけれど、エレナにアルフェリアの影武者をしてもらって、『エレナ』として堂々と出入りし、『フィーリ』という名で働けるようになったのは全部彼女のおかげだ。
「そんな! 私こそ姫様に命を救って頂いたんです。こんなことくらいお安い御用です!」
アルフィリオンの足元に跪いてエレナはその両手をそっと掴む。孤児院から出て途方に暮れていたエレナを見つけてくれたのは『フィーリ』の姿をしたアルフェリアだったのだ。
「私は姫様が喜んで下さるならなんでも致します」
ぎゅ、と水仕事でかさついた手を握りしめる。丹精込めてケアしていても、酒場での仕事は柔らかな肌を傷つけるものだ。アルフェリアが自ら望んだこととはいえ、本来の身分であればもっと柔らかな手でいられたのに。それを思うだけでエレナはどうしようもなく胸が苦しくなる。
「ありがとう、エレナ」
感情を殺して人形のように生きるだけの王女ではなく、どこにでもいるただの女の子として自由に歩けるフィーリの姿でいられることが、どれだけありがたいか。こうして協力してくれるエレナには感謝しかない。
くすりと顔を突き合わせて笑いあう。これは二人だけの秘密だった。