第13話
ソルアレスは気候のよい国だ。
ルクセリアの遥か南に位置していて、暖かといえば聞こえは良いが少々温暖すぎるきらいがある。砂漠も多いせいか、ルクセリアからしてみれば灼熱のように感じるかもしれない。
降水量も少ないため育つ作物には限りがあるし、だからこそソルアレスにとって貿易の盛んなルクセリアと繋がることは重要な意味をもっていた。
だからこそ、ソルアレス国はユグレシドの提案を受け入れたに違いない。
ルクセリアから厄介者を追い出すことができて、大国と繋がりも持てて、きっとユグレシドは今頃ご満悦だろう。
「――――聞いていますか、アルフェリア様」
かけられた声にフィーリははっと我に返る。顔をあげると、フィーリが座っている机の向こう側に困った顔をした眼鏡の男性がいた。
深い緑の髪は一つに括られて背中に細長く流れている。インナーのシャツを襟元まできっりちボタンで留めて細いリボンタイを巻いている。神経質そうな灰色の目にじっと見つめられて罰が悪い。
「ごめんなさい、イグニス」
「どうも今日は注意力が散漫のようですね」
慌てて謝るとイグニスと呼ばれたその男は溜息をついて手に持っていた本を閉じた。ぱたんと大きく響いた音にフィーリは肩を縮こまらせる。
ここはルクセリアの王城の一室にある部屋だ。四方には本棚が置かれ、中央には一対の机と椅子があるだけの、王族が勉強するための場所だった。
アンティーク調の椅子は長時間座っても疲れないようふかふかのクッションが置いてある。お陰で腰が痛むことはないのだが、その心地良さが逆にフィーリの思考を別なところへ奪っていた。
「昨日の今日でお疲れなのはわかりますが、アルフェリア様には覚えて頂かなければならないことが山ほどあるのです」
眼鏡のツルを押し上げるイグニスは、本来王付きの秘書でもあった。普通、王に仕えるものは大体が貴族の中から選出されるのが常だったのだが、ユグレシドは元老院に反対される中で公募制にしたのだ。
とはいえ採用には試験に合格する必要がある。筆記から始まり面接を経て、実際に秘書の業務を体験してもらった上で任命する形となった。
ユグレシドの秘書ともなれば将来は約束されたも同然だ。ゆえに自信のある貴族の子息達がこぞって受験しにきたのだが、その中からたった一人選ばれたのがこのイグニスだった。
出自が辺境の村で就任当初は周囲から色々言われて大変だったらしいが、今となってはルクセリアになくてはならない参謀の一人である。
「……分かってはいるのです。けれど」
思わず唇を尖らせるとイグニスが苦笑する。
「お気持ちはお察し致します。私も昨夜が初耳だったものですから」
「あなたも?」
驚いて目を丸くするとイグニスは頷いて向かいの椅子に座った。
「恐らくは他の誰も知らなかったでしょうね。あの後は大変だったんですよ」
議会の承認も得ずにアルフェリアの嫁ぎ先を決めたとなれば、流石の大臣達も黙っているはずなどない。
「どういう意図があったのかは分かりませんが、今回のことは王がお一人で決められたようです」
「そう……」
ユグレシドが一人で決めたということは、そこに必ず何か意味がある。無駄を嫌う人だからそういうところは信じられた。この婚姻がルクセリアの役に立つのならそれでいい。
考えこむフィーリの顔をイグニスがじっと見つめていた。
「何でしょう?」
「ああ、失礼致しました」
首を傾げると懐かしそうにイグニスが目を細めた。
「段々王妃様に似てこられましたね」
昨日の夜会で空いていたユグレシドの隣の玉座。本当であれば、あそこにキリエも座っているはずだったのだ。きっと誰しもが微笑んでいるキリエの姿を望んでいたに違いない。
「そうだといいんですけれど」
フィーリは苦笑して、己の頬に手を当てた。フィーリの髪も瞳も母譲りの色をしている。
「その仕草もそっくりです」
「ふふ、イグニスにそう言ってもらえると嬉しい」
イグニスが笑うと目元に少しだけ皺が刻まれる。その穏やかな表情を見るのがフィーリは好きだった。
フィーリとイグニスは親子ほども年が離れているが、ユグレシドより程父親のように感じられる。実際、こうして話す時間はイグニスの方が多いのだ。
物心ついた時、フィーリはキリエと二人暮らしだった。記憶の初めは王城ではない。ルクセリアから少し離れた森の中にある小さな家だ。
ユグレシドに見初められてルクセリアに迎えられ、程なくしてキリエはフィーリを身籠った。しかし元々が庶民の出であったことで周囲のプレッシャーに耐え切れず、また王城での暮らしにも馴染めなかったため、フィーリを連れて故郷の村に戻ったと聞かされている。
ローランドはその後生まれ、産後の肥立ちが悪くキリエは死んだ。
当時まだ五歳にもなっていなかったフィーリと赤子だったローランドを迎えにきてくれたのがイグニスだった。その時のことは、今でも覚えている。
不安だった体を抱き上げて笑いかけてくれて、どれだけ心強かったか。
(イグニスが父上だったら――――)
そこまで考えてフィーリは緩く首を振る。考えてはいけないことだと自分を心の中で戒めていると、ぎい、と扉の開く音がした。
「お話し中失礼」
割って入ってきた声に振り向くと、半分開かれた扉にロイが寄りかかっていた。今更こんこんと扉を叩くその姿にフィーリは肩を竦める。
「ノックの作法もご存じない?」
「随分と夢中になってお話されていたようだったんでね」
悪びれた様子もないロイにじとりと半眼で睨みつけるも、気にした様子もなく部屋に入ってくる。
『ミーティア』で会った時のような旅の軽装ではなく、しっかりとした王族としてのジャケットを羽織っていた。髪は昨夜のように後ろに流してはいないものの、着ているもののせいか雰囲気が王子然としている。
「では今日の講義はこれで終了にしましょう」
「ええ、ありがとう」
「失礼致しますね」
気を利かせてくれたのだろう。一礼して部屋を出ていくイグニスの背中をロイはじっと見送った。
「今のは?」
「父の側近のイグニスです」
「ふうん」
昨日の夜会にもイグニスは出席していたはずだが、何がそんなに気になるのか考え込むようにロイは目を伏せた。