第12話
「一曲踊って頂けますか」
フィーリの心情など知る由もないだろう。にこやかなロイの誘いを断れるはずなどなかった。
「ええ、喜んで」
にこりと笑ってフィーリは膝を折ってロイを立ち上がらせる。繋いだ手はそのままにフロアの中央に立つと、オーケストラの指揮者がタクトを振り上げた。
流れ始めたのは軽やかなワルツだった。お互い向き合って手を繋ぎ、音楽に合わせて円を描くようにステップを踏み始める。
正直、ダンスまですると思っていなかったから踊り切る自信がない。ローランドの練習相手として基本的なことは身についているが、実践としては今日は初めてなのだ。
何よりも心配なことがもう一つある。
(ち、近い……!)
触れ合いそうな胸に鼓動の音が伝わってしまいそうで気が気じゃない。とはいえこんなことに気を取られて躓きでもしようものなら玉座からどんな雷が降ってくることか。表面上はにこやかな笑みを保ったまま、フィーリの内心は大変なことになっていた。
とりあえず完璧に踊り切らなければ。そんな決意をした矢先にロイがターンを決めながら耳元に口を寄せてきた。
「婚約者だなんて、突然で驚かれたでしょう」
決して強引ではなく流れるようにエスコートされてフィーリもステップを踏む。ひたりと寄せた体が意外にしっかりしていることは、この間の『ミーティア』でもう分かっていたが、改めて密着するとそれを深く実感する。
「いえ、分かっていたことですから」
周囲では参列者達が一様に二人を見つめていた。その前を見せつけるようにふわりふわりと円を描く。
「この国に王女として生まれたときから決まっていた運命です。むしろ、遅いくらいだと感じていました」
この国を継ぐという道もない訳ではなかった。しかしローランドが生まれていよいよフィーリが表舞台立つ必要がなくなると、いずれどうなるかは幼心にも理解できた。
十八にならずとも結婚する少女は沢山いる。やろうと思えばいくらでも出来たはずだ。それをここまで引き延ばしたのは、きっとそんなにもアルフェリアを国外に出したくなかったからに他ならない。
(そんなに、お母様に似ている私がお嫌いなの)
この銀の髪も、紅い瞳も、白い肌も。母から譲り受けた大事なものだ。フィーリにとっては誇りであるのに、ユグレシドには違うことが何より悲しかった。
「ようやく王女としての役目を果たせて安心してます」
「ああ、そちらではなくて」
「……どういうことですか」
首を傾げたフィーリの手をぐ、と引き寄せられて更に距離が縮まる。顔がロイの胸に抱きこまれる直前、にんまりと猫のように唇が弧を描いたのが見えた。
「俺がここにいることだよ」
くすり、ロイが笑う。それはいつか見た悪戯を仕掛ける前のものに似ていてフィーリの思考が一瞬止まる。
「フィーリ」
「――――っ!」
それもほんの僅か。ほとんど耳に触れる距離で名前を呼ばれて、一気に顔が赤くなる。吹き込まれるような低い擦れ声に、悲鳴を飲み込む代わりに一瞬動きを止めてしまった。
「あっ……!」
つんのめった足がもつれる。スカートの裾に隠れて周囲からは見えなかったろうが、ヒールで思い切り思い切りロイの足を踏みつけてしまった。ぐに、と嫌な感触にさあっと血の気が引く。
「おっと」
それでもロイは顔色一つ変えずに、それどころか踏まれた足を軸に一際大きくターンを決めると周囲から歓声が上がった。
痛くないはずはないだろう。加減など忘れて体重が乗っていたのに。信じられない思いでロイの顔を呆然と見上げると、ぱちりとウインクを飛ばされた。
「ワルツは苦手かい」
「な、なんで……」
「しっ、ユグレシド王が見てる」
「っ!」
玉座からの視線を隠すようにロイはまたくるりと回る。庇われているようなその動きにフィーリは段々腹が立ってきた。
こっちはずっと気を揉んで落ち着かなかったっていうのに。
「あなた、お嫁さんを探してるっていったじゃない」
ひそひそと小声で囁くと、ロイは目を丸くして嬉しそうにはにかんだ。
「覚えててくれたのか」
「覚えてるに決まってるでしょう!」
「やあ、嬉しいなあ」
呑気なその一言にとうとうフィーリの中で何かがぷつんと切れた。
「――――私のこと、最初から知っていたんですね」
「フィーリ?」
酷く心が冷えていく。
すっと低くなった声に、ロイがきょとんとしてフィーリの顔を覗き込んだ。その空色の瞳に映った自分はどんな顔をしていただろうか。
「踊りましょうか、ソルアレスの王子」
にこりと笑みを張り付けて、それからフィーリはひたすら『アルフェリア』であることに徹した。
***
「信じられない!」
グローブを外してベッドに投げつける。イヤリングを外し、ストールを脱ぎ、髪飾りを外すと苛立ちに任せてフィーリは結い上げた髪を荒い手つきで解いた。
『アルフェリア』としての時間は終わった。音楽の終わりまで笑顔のままロイと踊り切り、来賓と挨拶して、全員を見送って、今日の日程は終了だった。
時間はもう十二時を過ぎている。夜明け前から準備していたせいで体はもう疲れ果てて、明日の市民を対象としたお披露目のためにも早く眠らなければならないというのに。
「覚えててくれたのか、ですって!」
フィーリはドレスも脱ぎ捨ててソファーに放り投げると、下着姿のままベッドに倒れこんだ。ぼふんと柔らかなシーツに顔をぎゅうっと埋めて目を瞑る。
覚えているに決まってる。ただの女の子として、笑ったり話したり怒ったり、全部ロイが初めてだ。気になって何が悪い。それをあんな風に言われて、思い出したらじわりと目頭が熱くなってきた。
大体にしてロイがいけない。いつもいつもからかって子供扱いして、一体人のことをなんだと思っているのだ。そりゃあ、あれくらい格好いい男性であれば色んな女性からのお誘いはあるだろう。いつか酒場でロイに近付いた女性のように成熟した体つきではないし、とびきりの美人っていう訳でもない。彼からすれば自分なんて赤ん坊も同然だろうけど、これでももうすぐ成人するのだ。それなりにプライドはある。
「姫様?」
フィーリが脱ぎ捨てたものを拾い集めながらエレナが心配そうに声をかける。こんな姿を見せたことは一度もなかったから、戸惑っていることはすぐに分かった。
けれど、今だけは彼女にも優しくはできそうになかった。
「ごめんね、疲れたの。今日は休むわ」
「……かしこまりました」
言いたいことも聞きたいこともあっただろうに。それでもエレナはしっかりと主の意向を組んで何も言わずに引き下がる。少しだけ、気にするように振り返る気配があったが、程なくしてぱたんと隣の使用人部屋への扉が閉められる音がした。
「みっともない」
一人で浮かれて、馬鹿みたいに期待して。
こんななんの取り柄もない自分なんかを誰が好きになってくれるのだ。
ロイは最初から知っていたに違いない。知っていて、何食わぬ顔で近付いてきたのだ。
そんなにも『アルフェリア』と婚姻を結びたければ、あんな茶番をしなくたって出来ただろうに。わざわざ旅行者を装って、何食わぬ顔で初対面を装って。無理に接点なんか作らなくったって王女としての役目なら果たすのに。
この婚約に『アルフェリア』の意志など関係ない。このルクセリアにとって今一番有益な国と繋がりを強固にするためだけの政略結婚だ。ユグレシドが決めたことならばそれは国の意向だ。フィーリ個人で拒否できるような小さな問題ではない。
ロイにとってもそうであるに違いない。ルクセリアと婚姻が結べたのなら、ソルアレス国はこれ以上ない後ろ盾が手に入るのである。お互いの利害が一致しただけ、それだけの話だ。
「ばかみたい、本当」
呟きは枕にしみこんで消えていく。
フィーリ。
ロイの低い声がいつまでも耳に沁みついて離れなかった。