第10話
ユグレシド王にはとある逸話があった。
かつてまだ青年だった頃、ルクセリアの第一王位継承者でありながら、世を知らぬものが国を統治できる訳がないと共もつけずに旅に出たという。
諸国を旅し、人々に触れ、机上だけでは学べないことを知るためだった。
しかし旅の途中、ルクセリアの北の果てに辿り着いたところでユグレシドは流行り病に倒れてしまう。見知らぬ土地で仲間もおらず、生死の狭間を彷徨った彼を助けたのがアルフェリアの母であるキリエだった。
王族という身分を隠しながら旅をしていたためにユグレシドの本当の姿を知らなかったにも関わらず、翼竜が住んでいるといわれる森の中へたった一人で薬草を採りにいき献身的な看護で救ったという。
その心優しさに胸を打たれたユグレシドはキリエをルクセリアに迎え結婚した、という物語が国民の間では浸透しているらしい。
成人の儀を迎える前のことだからと大目に見てもらったらしいが、現王としての姿としか知らないフィーリにとっては信じがたいことである。あの何よりも規律を重んじる厳格なユグレシドが、即位前とはいえそんな奔放なことをしていたなんてとても想像できなかった。
(でも、そのおかげでお母様と出会えたのよね)
ユグレシドはいつも何かに怒ったような厳しい顔をして、フィーリに会えば嫌味や皮肉ばかり浴びせてくるのだ。キリエへ優しい言葉をかけたところも、ましてや愛を囁く姿など一度も見たことはなかった。
それなのにキリエはいつも穏やかに微笑んでいて、子供ながらに不思議で仕方がなかった。
「アルフェリア様、お時間でございます」
コンコンと扉がノックされる。
祈りの間の外から呼びかけてきたメイド長の声に、組んでいた手を解いてフィーリはゆっくりと顔を上げた。迎えがきたということは、もう夕暮れなのだろう。
目の前には翼竜の像が翼を広げてフィーリを見下ろしている。二本の角と持ち上がった前足の鋭い爪、背中に生えた蝙蝠のような翼。こんな巨大で獰猛な生物など本当に存在するのだろうか。
いたとして、母はどうしてこんな恐ろしい竜がいるかもしれないところへ一人で向かうことができたのだろう。
「アルフェリア様?」
「今行きます」
返事がないことを不審に思ったメイド長が再度扉を叩いてくる。フィーリは足元に丸めていたケープを拾って、一度だけ翼竜の像を振り返った。所詮ただの寓話に過ぎない。翼竜も、二人の過去も。
(大体あの自分勝手なお父様が他の誰かと一緒に旅なんて出来る訳ないもの)
旅の途中、ユグレシドの命を狙った暗殺者を返り討ちにして仲間にしただとか、コロシアムで望まぬ殺しを強いられていた奴隷に勝って自由の身にしてあげただとか。今時絵本でもそんな盛らないだろうという内容を未だに吟遊詩人達は各地で歌い続けているのだ。フィーリにとってはとんでもない話である。
「お勤めご苦労様でございました」
重たい扉を開けると、メイド長が深々と頭を下げている。その後ろから橙色の光が差し込んできてフィーリは思わず目を細めた。熱心に祈っていた訳ではないが、気が付けばあっという間だった。
「出迎えありがとう」
フィーリが声をかけると、メイド長は顔をあげて目を丸くした。
「まあ、ケープを脱がれてしまわれたのですか?」
「ええ。でも寒くなかったのよ」
ほら、とローブの裾から腕を出すと鳥肌一つ立っていない。メイド長は信じられないようにじっと見つめている。
自分でも不思議だった。寒さを感じていない訳ではなかった。ただ、体の表面を温かい膜で覆われているように、どこか心地よくすらあったのだ。
「ばあや?」
「し、失礼しました」
声をかけるとメイド長ははっと我に返る。それから失礼しますと手にしていた厚手のマントをフィーリの肩に羽織らせた。きっと祈りの間で凍えていると思って準備してくれていたのだろう。
「ありがとう。優しいのね」
「そのための私でございますから」
マントの前をぎゅっと手繰り寄せるとメイド長は目元を和らげ、それからこほんと咳払いをした。
「湯浴みの準備も出来ています。晩餐会まで時間もありませんので急ぎましょう」
冬の陽が暮れるのは早い。これから一度身を清めてまだ準備し直すとなると、晩餐会の時間までぎりぎりだった。フィーリは頷いて再び王城へと足を向ける。
「アルフェリア様?」
「……いいえ、なんでもないわ」
開いたままの扉の隙間、その奥から視線を感じた気がして振り返ったが誰もおらず、フィーリは苦笑する。
(気のせいね)
懐かしいなんて思う訳がない。緩く首を振って、この後の予定を思い出してフィーリはその感覚を頭から追い出した。
***
ざわざわと人々の賑やかな声が響く。
大広間には今やアルフェリアを祝うために各地から大勢の人が集まっている。扉越しにもその空気は伝わってきて、フィーリは指先が冷えていくのが分かった。
(さっきお風呂に入ったばかりなのに)
『ミーティア』での水仕事のせいで荒れた手を隠すためにつけた手袋の中、温めたはずの指がどんどんと体温を失っていく。鈍くなる感覚に、どうやら柄にもなく緊張しているようだった。
湯浴みをし、再度身支度を整えたフィーリは夜会用のドレスを身にまとっている。デコルテが大胆に開かれているものの、レースは控えめに清楚なデザインにまとめあげられていて、淡い黄色は白い肌によく馴染んでいた。
今まではアルフェリアとして姿を出すにしても、せいぜいがユグレシドやローランドの前でだけであった。
こんなに大勢の前でちゃんと振舞えるだろうか。気慣れないドレスが窮屈だった。不安に思えど、ここには自分ひとりだけなのだ。やるしかない。虚勢ならいつも貼ってきたのだから、出来るはずだ。
「アルフェリア様、よろしいですか」
扉の前で控えていた執事が視線を送る。もう入場の時間だ。フィーリはごくりと唾を飲み込んで一歩踏み出す。
その横に、立ち並ぶ金色があった。
「エスコート致します、アルフェリア王女」
聞き覚えのある声に、フィーリはすぐに横を向けなかった。
視界の端に映る金色がさらりと揺れる。
「な――――」
ふわふわと獅子の鬣のようだった金髪を後ろに撫でつけて形の良い額を露にしている。深紅を基調とした正装にはいつか見た紋様が記されている。初めて見る正装姿に、けれどその青い瞳と称えた微笑みは間違いない。
「お初お目にかかります。ソルアレス国第一王子、ロイ・グランツ・ソルアレスと申します」
胸に手を当てたロイは、まるで別人のように恭しく一礼した。