第72話 カオスの中での決断
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―暗い。
――冷たい。
深く冷たい闇の水の中に、頭から真っ逆さまに落ちて行く感覚がダルフを襲う。
―――何も守れなかった。俺が決断出来なかったばかりに。
闇は何処まで彼を落としていくつもりなのか、落下していく感覚が一向に終わらない。
――――俺は何の為に闘っていたんだ?
闇の中で、いつに無く厳格な口振りな声が答える。
「正義だろ」
―――――俺にはもう、何が正義なのかもわからないんだ。
「正義とは、なんだ?」
――――――なんだ?
「お前にとっての正義は?」
―――――――守る事だ。大切な人を、民を、仲間を。
「何も守れず、大切な人を全て失ってきたのに?」
――――――――……。
「一人じゃないか。お前にはもうとっくに守るものなんて無い。何もかも失った。殺されたじゃないか、お前が弱いせいで」
―――――――――そうだ……俺にはもう。仲間も、大切な人も、何も……。
「黙って寝ていろ。この世はセフトが維持していく。正義を振りかざすのは、お前じゃない」
――――――――――……嫌だ。
「何故だ」
―――――――――俺を待っている人がいる。助けを求める声がするからだ。
「セフトに従え。世界の意思に」
――――――――嫌だ!
「何故だ!」
―――――――民が殺されるからだ。
「民の醜さを見てまだ言うか。それは正義では無い。セフトに反逆するお前は、悪だ! 奴と同じ悪逆だ!」
――――――それが悪だというならば、それでも構わない。
「なに……?」
―――――俺の周りから誰もいなくなっても。
「…………」
――――たとえ悪と呼ばれようとも。
「…………」
―――俺は民草を守りたい。
「…………」
――友が、仲間が、父が、みんなが守ろうとした民を。
闇の沼から浮上していく感覚を覚えると、いつもの調子の、朗らかな声がダルフを迎え入れた。
「ならば、それがお前の正義だろう」
―それが、俺の正義。
「正義とは規則に従うものじゃない。己が心にあるものだ」
冷え切った掌に頭をかき回された。まるで子ども扱いするかの様に。
闇を突き抜けた先に、光が見えた。
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雪原の上でダルフは瞳を薄く開いた。傍らで膝を着いていたリオンが、ダルフの体に白い光を照射するのを辞める。
「リオン」
上体を起こしたダルフがリオンに振り返る。
「夢を見ていたんだ」
「……」
するとリオンのその固く閉ざされた口元が、みるみると開かれていく。
「夢はすぐに忘れてしまうけど、この夢はきっと忘れない」
「……っ」
唖然とし、そして彼の胸の中心をジッと見つめている。
リオンは自らの側に置いていた彼の鈍色のクレイモアを両手で持ち上げて、ダルフの掌に握らせた。
そして何処か上擦った声と共に、僅かに紅潮した顔を彼の目前に差し向けていた。
「翔んで……ダルフ」
粉雪の舞う日射しの中で、彼はたおやかに、そしてしなやかに立ち上がり、その星屑の込められた視線を真っ直ぐ標的に向けた。
そしてダルフの背に、神の怒りの様な、激しい音と共に明滅する白き稲光が二枚現れた。
まさしく翼となったその閃光を纏い、ダルフは真っ直ぐに飛び立った。金色の長髪をたなびかせ、光のように。雪をキラキラと巻き上げて。
激しい突風に乱れる髪を抑えたリオンが、飛び立った彼の背を眺めている。
見たことも無い、可憐な笑顔を惜し気もなく携えながら。
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己の非力を嘆き、声を挙げるグレオの頭上に冷酷な巨腕が振り上げられる。
「終ーー了ーーッ! ギィハハハハ!」
紫色の虹彩が、蠢く胴体の百合の薮の中からニヒルに、慟哭する少年を見下ろした。
そしてその無慈悲な巨腕が、彼に向かって振り下ろされた。
「………………ぁ?」
振り下ろした百合の腕の断面が、グレオの顔の前で止まっている。そして音を立てて切り落とされた彼女の巨大な前腕が、グレオの目前に落ちて雪を舞い上げた。
ルイリの拳が振り下ろされる刹那的瞬間に、白き光の道筋がそこを通り過ぎていった事を微かに思い出しながら、彼女は小鼻に、これでもかとシワを寄せてピくつかせる。
「なんでてめぇが生きてんだ……」
「ダルフさん!!」
憤激して、みるみると赤くなっていく相貌。グレオは驚きの表情を見せながら、その場から距離をとった。
「間違いなく死の確認はした筈だ……てめぇは衰弱した赤子程にも息をしていなかった、心の臓腑に花を咲かせた筈だ……なのに、なのに……!」
ルイリが白き光の過ぎ去った方角へと向き直った。膨張した様な真っ赤な顔をして。
「なんで生きてる!? ダルフ・ロードシャインっ!」
金色の騎士が紅蓮を纏った瞳を彼女に差し向ける。この世の正義そのものへと。
「どういう事だ……あり得るのか、そんな能力……生き返るなど、ミハイル様より授けられた能力でもない、異能力なんぞに、そんな理を越える力が……ッ」
ルイリが、まじまじとダルフの姿を眺める。すると、先程体内に咲かせた百合による傷痕が未だ、その顔に痛々しく残っているのに気が付いた。
「再生か……てめぇの能力は! …………聞いてねぇ、聞いてねぇぞマニエルからは! あんのクソ女、謀っていやがった! 我等を、セフトを裏切って! どういう訳だか、てめぇの能力をひた隠しにしていやがった!」
ダルフはそのクレイモアの投身に額を着けて、赫灼せんばかりの金色の瞳をルイリに向けた。
「地獄の縁から舞い戻ったぞ」
憎々しいといった表情でルイリは唾を吐き、彼によっていとも簡単に切り落とされた前腕を再生する。
「自分が無敵だと思い違って、態度がでけぇんじゃねえのか? どういう訳だか、天使の真似事みたいな醜い翼を生やしやがって」
「不遜だと思うならば、それでいい。もう俺は何者に囚われる事もないのだから」
「よくわかってるじゃあねぇか! 私に楯突いた時点で、てめぇはこの俗世から隔絶されたんだよ!」
ダルフは動じる事もなく、その二枚の翼を天に向けて、轟音と共に肥大させていった。
「てめぇの能力は無敵じゃねぇぞ。一度殺したら終いだ。二度はねぇ。くく……なんでって簡単だ。てめぇの体を切り刻み続ければいい。再生する前に壊し続ければいいんだよ、その辺の騎士にでも命じて」
「……そんな事か」
「それか、そうだなぁ、煮えたぎる火山の火口にでも放り込んでやろう。そうすればてめぇの肉体は永遠に焼き焦がされ、久遠の時を、痛みだけが支配する世界で過ごすんだ! 楽しそうだろうダルフ!? ギィハハ! マニエルに感謝するんだなぁ、てめぇの能力を知っていたら、みすみす甦らせはしなかった」
「自分が無敵じゃない事なんて、とうにわかっている!」
光の様に、二枚の翼で飛来したダルフのクレイモアと、ルイリの蠢く巨腕が交錯して、重い鉄を弾きあう鈍い音が響き始める。
少し離れた場所から、リットーが上体を起こして肩を戦慄かせていた。金色の騎士の姿を眩しげに眺めながら。
「あぁダルフくん……君は、それでも立ち上がるというのか」
何か衝撃的な思いに貫かれ、その瞳の下の隈に熱いものが、絶え間無く溢れ返る。
「世界を敵に回そうと……君はッ! それでも民を守るというのか……っ!」




