第507話 黒暗淵を歩く鬼神
そして暗黒に消え入るクロンの声……
再び“虚無”へと取り残されたダルフは、その影を追い求める様に、雷電を貯めた拳を前へと突き出し、背の十二の光明を噴出して前へと推進していった。
(姿を現せ、クロン――!!)
だがやはり、空を切っていくばかりの雷の輝線。闇のキャンパスにただ一筋の白線が伸び続ける……
標的の無いまま打ち出されるエネルギーは、何の成果も得られないというのに、果敢に雷撃を放出する事を止めずに主を前へと推し進め続けた。
……だが程なくすると、ダルフは自分が静止しているかの様な錯覚に囚われる事になった。
無音無風、見えて来る景色の代わり映えの無さ。光を放っても、照らし出されるのは自らの存在――それのみであり続けている。
(何処だ、怖気付いたのか! 出て来い、俺の前に出て来いクロン!!)
無意味なエネルギーの浪費を直感が拒み、背に滾っていた翼は萎れていった。上も下も地平も無い暗黒では、先程まで踏み込んでいた足場さえも見付からなくなったが、しかし落下する感覚も浮遊する感覚も無く、まるで空間に見えない糸で宙吊りにされたかの様にダルフは感じた。
(俺は何処を目指して……)
途方に暮れたダルフはボンヤリとしながら、磔刑に処される罪人の様に、水平になった腕をだらりと脱力した。
何処かを目指すにも標が無い。もうどちらが上でどちらが下かさえも分からなくなっている。
十字架に張り付けられた男はもう、寄る辺の無い“無”へと取り残され、捨て置かれ、ただ侵食して来る闇に、体も意識も分解されていくしか無かった。
(消える……? “無”になる、世界が……俺が……)
全てを剥奪されたダルフに残された自由は、己を見つめ直す事しか無かった。
(クロ…………ン…………)
光の失せたダルフの瞳が、完全に消失した背の翼と共に、闇へと染まる……
自分がそこに居るという事も、その存在自体さえも忘却されんとした、その時――
(舐める……なよ……!)
ダルフの奥歯が強く噛み締められ、肉の軋む音がゴリゴリと脳に響いた。存在を呼び醒ます刺激を、自らで自らに与えているのだ。
(……っぐ……)
それでも、周囲に満ちた混沌は冷たく強大で、ダルフの体を蝕む事を止めなかった。
するとダルフは次に、思い切り唇を噛んだ。
(…………っ!)
赤き鮮血が顎に垂れていく。ぎりぎりと噛み締める口元に、痛烈な痛みと、じんわりとした血液の温もりを感じ、存在が呼び起こされて来る――
……クロンはその光景を闇の何処かで見ていたのであろうか、“無”が濃度を増して、意識を覚醒させようとするダルフに怒涛と押し寄せて来た。
(だめ……か――……ッいや!)
白んでいく意識をすんでの所で捉えたダルフは、闇を振り払おうと藻掻き始める。だがやはり、おそらく“神聖”による最大限であろう虚無もまた、ダルフの身を深淵へと誘い込もうと、その手を離さないでいた。
存在を賭けた目に見えぬ激しき攻防の最中――
「やれるだろう、ダルフ」
(――――ミハイル……様っ?!)
麗しき天使の囁きが、ダルフの耳を通り過ぎた。
ダルフの瞳が闇より這い出し、惜しげも無く輝きを放ち始める――!
(……はい……!!)
天使の声へと言葉を返し、ダルフは取り戻した拳を強く握り込んだ。彼の体より放散された光明は、体に纏わりついた暗黒をじりじりと押し退けていく。
『人間が……』
毒気を含んだ神聖の声が闇に轟いたかと思うと、突如と現れた漆黒の大波に、ダルフは沈んでいった――
(次は、なんだ…………意識が……)
より濃密な液へと沈め込まれ、もがき苦しみながら沈んでいく体に為す術も無い。闇の火口へと投げ込まれたかの様な有無も言わさぬ神の怒りは、ダルフの存在を強制的に奪い取ろうと、手段を選ぶ事を辞めた。
(……、…………)
だがしかし、先刻、刻に置き去りにされたダルフには刻み込まれていた。
(……ぉ、…………ぉお……)
筆舌に尽くしがたい負の記憶。だがそれと同時に、無限と続く地獄を克服した際に得た、強大なる副産物。
それは――――
(あぁ、ああぁあ……っ! オオオオオオオオオ――ッッッ!!!)
『この現象……は?』
地獄の淵、あの深淵でさえも消え去る事の無かった彼の意志。
不撓不屈の亡者の自我が、黒暗淵を照らす光となる――
「オオオオアアアァアアアアアァアアアアァアアアッ!!!!」
『闇が……』
何時しか呪縛を解き放ち、確かな咆哮が“無”に轟いていた。
漆黒をもがき、歩み、這い出してくる鬼神の気迫は、“神聖”そのものであるクロンにさえ、危機を覚えさせるものがあった。




