第498話 開闢の冥王星*挿絵あり
最終章 【悪逆の翼】
「なんだこれは!?」
「横槍入れやがって!」
互いに押し開いた冥府と天界への天輪が開いた空の下、漠然とした砂丘で雌雄を決していた鴉紋とダルフは弾き合って天上を見上げた。
『『『あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ』』』
世界そのものが鳴いているかの様なその悍ましき共鳴は、大気をかき乱し、大地を震撼させて、地上に残る全生命へと本能的な畏怖を刻み込む。
紅蓮と薄明の空の下には液状の灰色が垂れ始め、巨大な渦を作りながら近付いて来る声に、そこからナニカが顕現しようとしている事が理解出来た。
驚愕としたダルフは、天空に水面が落ちて波紋を広げていく、これまでの常識的認識を覆される様な光景と、迫り来る尊大なる気配に苦い顔をして混乱した。
「何が起きようとしている……これは、これは一体なんだ鴉紋!」
理解を不能としているダルフは息を荒ぶる鴉紋へと語り書けるが、無論答えは返って来ない。その問いは実質的に、彼の中に蠢くルシルへと問い掛けられているのだ。
「んだ……コイツらは?」
深くシワを刻んだ眉間に冷や汗を垂らしたルシルは、天と地を逆転させるかの様な現象を目前にしながら、その未知の正体が分からなかった。人類創世の時より何千年も意識を繋いで来た彼にしても分からぬ現象。
……ただ、天上より這い出そうとして来る“神聖”そのものには、漠然とした確信があった。
右の灼眼に緊迫を走らせた“獄魔”は、息をするのも忘れながらこう呟いた。
「神……?」
天魔の認識としても唯一とだけ存在する“神”……だが今天上の彼方からは、まるでその神に力を分け与えられたかの様な存在が、少なくとも二柱……分身体として、いや新たなる生命として、否元より複数一体であるかの様にして――顕現していった。
灰の液が形を成して、二つの存在を練り上げる。
頭上からの威光に膝を落とし掛けたダルフは、怪訝な面相をしながら、ふとミハイルの去り際の言葉を思い起こした。
――創造主による……災厄!
天上より迫る超常にダルフもまた合点がいった様で、吐きつける様に宿敵へと語り掛け始める。
「お前は神に謀反を起こしたんだろう、顔くらい知らないのか!」
「うるせぇ、俺は奴の前に辿り着く事も出来なかったんだから知る訳ねぇだろうが!」
「なんだと? 顔も知らない相手に戦争を仕掛けたのか!」
「そもそもミハイルも誰も概念としての神を知るだけで、顔を見た者なんていねぇんだ、知った口を利くなダルフ!」
「正体不明の神……その概念が今、なぜ俺達の前に現れようとしている!」
今に胸ぐらを掴み合いそうな勢いで二人が額を突き合わすと、空の灰色より――ぐりんと翻る様にして闇が這い出して来た。
「……っ」
「この気迫……こいつが神なのか!」
空に漂う何よりも黒いその液は、空にポッカリと虚空を産み出していくかの様に増幅し、やがて人の形となって小柄な少女の姿を模した。その長髪の全ては闇で出来上がり、絶えず蠢きながら空を這い回っていた。
「あんな少女が?!」
「馬鹿か、姿形に惑わされるな!」
眺めていると、まるで意識さえも暗黒の最中へ投げ出されそうになる心象。絶望の少女がそこに居るという事実も、視線を外す事さえも忘却の彼方へ吹き飛ばされそうになる“無”の引力に引き寄せられ、二人は怪しき少女の闇を一点凝視し続けていた。
『小童が踊っている……』
ボソリとあどけない声が漏れたと認識した時、少女はその目を開眼する。するとそこに現れたのは二つの暗黒。天空の眩い光に一切反射もしない漠々とした闇は、小さな顔の半分を埋め尽くす程に大きく丸く剥き出されながらも、眼球の一切が黒一色となって何処を見ているかも分からなかった。
「ぅ……!」
「チッ……見下ろしやがって」
――だがしかし、何故だか少女が地上に立ち尽くしたダルフと鴉紋を認識している事が嫌という程に伝わって来る。認識する事さえ難しいその不可思議なる暗黒に見つめられた二人は、未だかつて感じた事の無い絶望的虚無を前に、背が震え上がる感覚を確かに感じていた。
――さらにもう一つ、空の液状の灰より、闇の少女とは対極なまでに存在感を暴発させた“奇怪”が生誕した。
「なんだ、存在が明滅していやがる……訳が分からねぇ!」
「男、女……子ども、いや老人? 頭が狂いそうだ、目まぐるしく認識が変化し続けている?!」
誰とも形容する事の出来ない奇妙なる存在は、瞬きする間も無く、その瞬間瞬間で認識する事実が違った。その存在事態が絶えず明滅した様に見えるのは、単にその姿形から衣服に至るまでの存在が変わり続けているが故である。
『餓鬼が戯れてイる……』
その声帯は、抑揚も高さも太さも絶えず変わり続けた。その奇怪なる声音と存在は、まるで目まぐるしくチャンネルを変え続けているかの如く不可思議な認識のまま、誰でも無く、誰でもあるといった、ある種“無限”の認識として世界を埋め尽くしていくかの様であった。
混乱する頭を抱え込んだダルフの横で、鴉紋が……いやルシルが、ガクンと顎を落としていた。
「グザ……ファ…………?」
「は? 何を呆けている鴉紋!」
対極的なる“神聖”は、背に翼も無いのに宙を漂い始め、やがて鴉紋とダルフを取り囲む様にして天上を旋回し始めた。
ハッと我に返った鴉紋に、ダルフは背を突き合わす形でフランベルジュを構えていった。
「チッ……!」
「……っ!」
互いに不服そうにして背後を一睨みする。今すぐにでも背を晒した怨敵へと牙を突き立てたいと思い合うが、流石に今はそれどころでは無いと、一時休戦を暗黙の了解としながら二人は天上を仰いでいった。




