第488話 逆巻いた灯火が天を燃やし尽くす
「肉体の主導権が終夜鴉紋へと移り変わった……故にお前は止まった刻の中でその身を蠢かしたという事か!」
流れ始めた景観の中で、ミハイルは憤懣やかたるなさそうにして鴉紋を睨む。
「人間風情が……あろう事かお前の様な弱き存在が天魔を喰らうなどッ」
人が天魔を冒し始めたその事態に、ミハイルの心に得も言えぬ憤怒の感情が流れ込み始めた。
凄絶なる次元の歪みを払い、やがて漆黒は天剣を空へと打ち返す。
天地を両断する神聖が跳ね返ると、強烈なる風圧と衝撃が両者の髪を浮き上がらせた。
「ふざけるなよ……そこまで落ちたかルシル!」
「……」
「私の知るお前は、強く傲慢なるお前は! 自己犠牲などというものとは対極にいた存在の筈だ、それがナゼっ!!」
激憤するミハイルの下に漂った邪悪は俯き、影を落としたその口元に輝く歯牙を見せ始めた。
「わら……?」
「いいも何も、この俺がそんな事を看過する訳がねぇだろうが」
「ルシル……ならば、なんで……」
「このガキが勝手に……俺の寝首に噛みつきやがった……クックク」
「は…………っ??」
顔を上げたルシル……空からの陽射しが彼の表情を照らし出した。
「やってくれるぜ……クソガキが」
……ミハイルはそこに落ちた最愛の面相に心より失望する事になった。
沈み込んだ黄色の虹彩。そこに反射して映った光景はまるで……
「なんで……そんな……嬉し…………そうに」
まるで……
「……私を、置いていくな……一人で行くなよ……行かないで……私を置いて……どうして一人で……ッ」
親が我が子に向けるかの様な、慈愛に満ちた笑みが浮かべられていた。
「ぅうううぁぁあぁあッッ!! ルシルぅぅううううう!!!!」
彼が遠くへ行ってしまう様で、ミハイルは感情を剥き出しにして叫んでいた。胸を締め付けるその感情は確かに恋慕。永き時を生きた彼に残された、およそ感情と呼ぶべきモノは……おそらくそれだけなのである。
不老故の永く寂しき天使の生を満たし続けていたのは、あの気高き悪逆への慕情。だがその姿はもう……
「行かないでぇえッッ!! 行かないでルシル、そんな顔で笑わないで……うぅうァァァ、一人で遠くに!! 私の手の届かない所なんかにッ!!」
再び振り下ろされて来た天剣。そこに込められたミハイルの想いは鬼気迫り、白熱する閃光は極太の一筋となって神聖を行使した。
「お前が居なくなってしまう位なら、お前がお前で無くなってしまう位なら! せめてこの手で――!!」
頭上に揺らめく光線の莫大……神の御力を見上げて半身となった鴉紋が――短く息を吐き出す。
「『黒の螺旋』――」
「――――!」
空を這う黒き雷光は一つに混ざり合い、極太の螺旋となって鴉紋の背より噴き出し始める。そこに煌めいた闇の灯火は全てを呑み込み、起こる波動は大地を吹き飛ばす。
「『冥界の拳』――――ッ!!!」
赫灼する闇と雷電纏い上げ、深く腰を落とした鴉紋の拳に――絶大なる冥府の拳が出来上がる。そこに宿る深淵と冥府の吐息。地の獄より這い出して来た魔王が、今永き因縁に、全開の憤怒を打ち付ける構えを取る――!!
「撃ち破る気か……っ、この御力を……!」
だがしかし、天空より迫りし神の威光に、よもや何の手立てが残されているというのか……
ミハイルによって顕現されたその神聖は、天界より授かり得た最大限の光明である。
「いかにお前といえど、それは思い上がり過ぎだ」
拳に途方も無いだけの暗黒を溜め込んでいく鴉紋。そこに墜落していく神の一撃……
神の前に、全ての生命は下位である。次元の違う存在からの干渉など一切寄せ付けない。
そうそれは、人が天魔に抗えぬ様に……そう考えた刹那、ミハイルは思い起こす。ズキリと傷む人類に捩じ込まれたその頬の痛みを……!
「良いだろう終夜鴉紋、そしてルシル……!」
完成された冥府の鉄拳に大地が舞い上がる。頭上からの天罰が、空を切り裂く――!
「見せてみせろ。不可逆さえ可逆に変える、そんな暴力があるのだとしたら……!」
――次の瞬間……
空へと走った暗黒の螺旋――!!
そこに悪魔の雄叫びを乗せて、天を突く!!!
「人にあって天魔に無いモノ……それはなミハイル――ッ!!」
「ハ――――ッ!!」
爆発するかの様な衝撃が空で起こって、時空の歪みを引き起こす。いかなる存在、どの様な事象であろうと、神の威光を阻める者などありはしない。
――その矛盾が!! 世界を歪めて揺らいでいるのだ!!
「ぬぅ……ッぉおおおお」
「…………ぁ……?」
「おお……ッぐぅおおおおおおおおおオオオオア!!!」
「なんだよ…………ソレ……」
「ウァァァァアアアァアアァァアアアァアアァアアァアアアアァアアァァアアアァアアアアアアアア゛――ッッ!!!!」
爆裂的な闇の拳と鍔迫合った神災に……天を埋め尽くすだけの莫大なる天剣に――
――ピシリと亀裂が走った事にミハイルは気付く。
「……こんな…………事が」
そして自らの眼下に、燃え上がる悪鬼の形相が迫り来る――!!
悍ましき、悪魔の顔が――!!!
「人は弱き故に、あらゆる苦痛と困難に喘ぎ続けて来た! お前ら天魔じゃあ想像も出来ねぇ様な苦難と辛苦に見舞われ続け、弱き体でどんな逆境も跳ね除けて来たッ!!」
「…………っ」
「人にあって天魔に無いモノそれは!!
不屈の心!! 弱者故に宿る、不可能を可能にせんだけの心の灯火ナンだよぉぉぁぁぁああッッ!!!!」
神聖爆散し、空に光の雨が降る……
その衝撃に天も地もなく宙を回ったミハイルは、煌めきの豪雨に打たれたまま、吐き出した血液で輪を描いた。




