第486話 あの日焦がれた君はもう……
「なんだ…………その顔は……」
制止した刻の中で、ミハイルのピクついた鼻頭が赤く染まっていった。
「なんなんだ……その目は……」
見上げるは、真っ直ぐにと彼を見下ろしながら煌めいた赤目……
「光り輝いた……その顔は……っ」
誰よりも何よりも大切だった者が、愚物へと成り下がった。その事実に……
「うぁあ……ぅうう……っ!!」
嗚咽を漏らして天使はむせび泣いた。もうそこに居る彼が、どれだけ外面を酷似させていようと
――もう彼では無いという真実に。
「うううぁぁ……ルシルぅうっ……!!」
胸に風穴の空いた様な寂寥感と喪失感に満たされながら、ミハイルはその手の剣を振り上げた――
「希望がなんだ、そこまで人類に冒されたのか……あれ程失って、絶望してもお前は!」
轟々と唸る神聖は、止まった刻の中であろうと変わらずに瞬く。そして全てを呑み込み、ソレは行使される……
「せめてこの止まった刻の中で……死んだ事さえ知覚させないで」
どれだけ足掻こうと、どれ程喚こうと……刻を奪われた世界で人類に出来る事は無い。
「さらばだルシル……愛しき兄よ。ならばせめて人の様に、淡き夢を抱いて……」
スゥと息を吸い込んだミハイルは、その目を冷酷非情に戻して天剣を振り下ろしていった。
止まった肺の景色の中で、光輝いた漠然の光が空を割り、景色を両断していく……
……紆余曲折はあったが、結末はやはり天使の視た未来へと帰結される。人の持つ想いと力……ルシルを魅了したものがどれ程のものかと、ミハイルは未知なる可能性に身を投じた。
「さようなら…………ルシル」
しかし結末は破滅。変え難いその運命から逃れる事などやはり出来はしなかった。
そんな事など分かっていた筈であった。
ルシルもまた、そう理解していた筈だった。
それでも彼は人と混ざり合い、その意志を共鳴させた。到る結果が敗北でも、こんな顔をして死ねるならば本望だと……
……そう思ったとでも言うのだろうか?
紅蓮の悪意と暴力に全てを掴み取ってきた男が……
ぐちゃぐちゃの憤怒に溺れた男がひととき、なんの気まぐれなのか甘い夢に傾倒したというのか。
だとすれば、それは闘争と怨恨の為だけに生きた男の、ささやかなる終の安らぎだったのかも知れない。
あの日見た羨望のささくれはもう見る影も無く。
角を刈り取られ、丸みを帯びた……
苛烈で恐ろしく、何者にも曲げられぬ力と信念に魅せられた。道阻む者全てを叩き殺すだけの、あの灼熱の怨恨が美しいとさえ思った。誰よりも強烈な自己を持ち、あらゆる権威と力にも媚びへつらう事の無い自我に感服した。
悪意を極めたあの混沌を、底の無いあの怒りを……
羨望した、焦がれた……恋い焦がれた。心より。
何よりも力強く、己の覇道を信じて疑わぬ魔王の足取りは……もう遠く……
「こんなくだらないモノが欲しかったのか?」
骸と化したあの日の男の背中を追い求めながら、ミハイルは憧れを終わらせる――
白熱する怒涛の閃光が空を突き抜け、大地へと振り落とされる。
…………その下で
完全に制止した世界の中で……
鴉紋の眼球がぐりんと動いた事に……
ミハイルは気付かない。
明後日の方角を眺めていた悪魔の視線が、刻を剥奪された無慈悲の世界で……
静かに標的を見据えたその事実に……




