第42話 食い物が語るな
闇を駆ける殺人鬼の姿に、騎士達に確かな恐怖が刻まれ始めていた。それぞれは膝をガクつかせ、鉄製の籠手に震えた剣の鍔が当たってカタカタと音を鳴らせている。
「こちとら珍しくぶち切れてんだ。こんなもんじゃあ……すませねぇからなぁ?」
シクスのダガーが十メートル程の巨大な大太刀となり、彼は軽々とそれを闇に向けて振るった。幾つもの鉄と鉄を激しくぶつけあう様な激しい物音。
シクスのダガーが無数の兵達を引き裂いているのが、残された聴覚と油っぽい血の匂いで分かる。
「ああぁあああ!!」
「ゴボォアッッ!」
「イデェよどごがら!!?」
右へ、左へシクスはそれを激しく振り回す。その度に騎士の叫声と鉄の弾ける音がけたたましく起こって、やがて周囲の騎士達も自分達が一方的に蹂躙されている事を自覚し始めた。
「……ぃぃい」
「……にげろ、にげろぉお!」
右も左もわからずに走り始める騎士達。彼等を包む暗黒の濃霧が、着実に迫ってくる死という恐怖を直視する事しか出来なくさせている。
「あああ! やだぁあ来るなぁあ!!」
……先の見えぬ道を走り、このまま逃げ切れるのか、この先は行き止まりなのでは無いか……そういった不安。目隠しをされたまま、死神からただ闇雲に走り回るしかないという恐怖。
そんな地獄に、シクスはそっと語りかける。
「怖いだろ? おいおいそっちは行き止まりだぜ? そこにはさっき倒れた屍が転がってる。躓いて転んだら終いだぜ? どうすんだい、俺のダガーの射程は見えるか? もう既にお前の喉元に届く距離で揺らめいてるかもしれねぇぞぉ……ィィハハハハ!! ほうら……お前だ……次はお前」
「ギャアアア!!」
「ギラレ……だぁ!! しにだくな……!!」
「ギィハハハハハハ!!!!」
シクスは闇を走り回って飛び上がりながら、眼球を上転させて白眼を剥き、昇天しそうな緩んだ口元をにへらにへらと震わせる。返り血で赤く染まるよだれを垂らし、舌をだらしなく突き出しながら、闇の中に居る騎士達に向けて口を開いた。
「闇は人を狂わせるんだよ!!」
「ウワアアア!!」
「狂人だ! コイツ狂っていやが……ッぎ!? 痛、イギィぁああッ!!」
恐怖に支配される兵であったが、その集団の中にただ一人、意にも介さず冷静に状況を考えている者がいた。
「……あんだこの臭いは?」
快楽の絶頂に登り詰めかけたシクスの鼻腔が嫌な臭気を捉える。同時にパチパチと弾ける音と、木を裂く様なバキバキという音にも気付く。
完全なる闇に囚われたままに、シクスはその臭いの正体と、それの起こっている場所に目測を立てていった。
そして気付く――――
「なっ……まさか、てめぇ……テンメェェエエエッッ!!」
途端に激情したシクス。唐突に殺戮の止んだ光景に騎士達は動きを止めてシクスに刮目していった。
すると静まり返った闇の中で、ボソボソと小さな声があった。
「お前の仲間のクズ共は、そこの家屋で毒にあてられ悶えているのだろう? そこに終夜鴉紋も居る事だろう」
「――ソコカァッッ!」
声のした方へ風の様に駆けたシクスがダガーを突き出したが、そこに居る筈の者は闇に消え、刺突は空を切っていた。
――何だと!? 何の物音をしやがらなかったのにいないだと?
「は――っ!」
同時にシクスの正面からは、音も無く焼き焦がす様な異臭と熱波近付いて来ていた――
「――見えていやがんのかっ!」
横に転がったシクスは迫ってくる物をかわして、何者かが溶け込んだ闇に問い掛ける。
「見えてはいない。音のした方へ火球を投じただけ。最もお前は私の居場所を掴めないだろうが」
「クソッ!」
シクスが『幻』の能力を解くと、そこには無数の騎士達の甲冑が転がっていた。
いつの間にやら積み上げられていた亡骸のその頂点から、片膝を立て、槍を抱え込んだ痩身の髭面が、冷めた眼差しでシクスを見下ろしている。
「お前の様な貧民街育ちの下衆にはティロモスの毒が効かなかった様子だな。だが、お仲間はどうか?」
シクスの左手奥にある鴉紋達の居る宿舎に火炎が巻き起こり、パチパチと音を立ててその範囲を広げていた。
ワルト・ワーグナーは、シクスの能力によって視界を閉ざされても冷静な思考を止めず、方向感覚を見失わないように、ただピクリとも動かずに思案していたのだ。この状況を覆せる様な策を。
そしてワルトは記憶の中にあった宿舎の方角へ向けて、音も無く特大の火球を放っていた。シクスの作り出した闇は炎の発光すら包み隠す漆黒であったが、シクスはその事態を己の嗅覚と聴覚でもっていち早く察知していた。故に怒ったのである。
「知覚を操るだけの幻惑術ではあの炎は消せはしまい。あそこに終夜鴉紋達が居る事も教育係からの報告でわかっている」
ワルトは全くもって表情を変えぬまま、部下達の死骸の上で、兜から出た長髪と髭を風にそよがせている。
「チッ……俺の能力を、よく研究していやがる様だよなぁ、お前ら!」
シクスの『幻』の対象はあくまで“知覚のある生命”であり、無機物――つまり現実には作用出来無い。
――つまりはシクスの“夢”は現実には干渉出来ず、宿舎の炎を消す事も出来ないのである。
「この不潔ジジイ! どうやらてめぇから相手にする必要があるみてぇだな!」
静まり返っていた騎士達が光に立ち返り、我を取り戻し始めた。
「今ので30人はやられた!」
「仇をとれ! 貧民街のガッシュを殺せ!」
散り散りになった陣形が再びに組まれ、シクスは正面のワルトを見上げたまま70の兵に取り囲まれる形となった。
不愉快そうに鼻を震わせながら、シクスは唾を吐いてワルトを見上げる。
「『幻』!」
辺りの地から骸や巨大な化物が無数に現れる。ワルトの目前には、臓物を撒き散らし雄叫びを上げる肉塊の異形が現れ、開いた掌を彼に近付けていく。
「…………」
しかしワルトは動じる事もしない。
仲間を殺された感情すら剥奪されたかの様に、その積み上がった死骸の上で、座ったまま静かに目を細めるのみである。
「随分余裕そうじゃあねぇかヒゲジジイ! このまま捻り潰してやらぁっ!!」
化物の巨大な掌が、積み上げられた騎士達の甲冑の上からワルトを叩きつける。無機物である甲冑に影響は無いが、『幻』の対象となっている知覚を有したワルトは、プレスした様に叩き潰されているであろう。
「ヒッヒャァー!」
「ワルト様!」
地鳴りと共に落ちた巨大な掌。その衝撃と光景に騎士達は縮みあがる。
そうして次にその掌は、押し潰した物を確認する為に引き上げられた。
「なにっ!?」
――そこにワルトの姿が無い。
そして驚愕としていたシクスの耳元へ、嗄れた男の声が囁きかける。
「……ここで死んでいけ、愚鈍なるならず者よ」
「――なっ!!?」
音も無く、いつの間にやらシクスの背後に立っていたワルトは、手元で引き絞った槍の刺突を繰り出した。
「ぐっぉおおお!!」
左肩を貫かれたシクスは、瞬時にダガーを背後のワルトに向かって繰り出した。
しかし残像の様なものを残し、ワルトの姿は切っ先の半歩先へと消えて空振りとなる。
シクスの左肩がダラリと下がり、そこから夥しい出血を認める。
「っ……つつ、独特な足さばきじゃねぇの……ウネウネしててキモいんだよ」
ワルトはうねる様な動作で流動的に動く独特な歩法によって、物音を立てず瞬時に移動する術を心得ている様であった。故に聴覚に頼りがちなシクスは虚をつかれたのだ。
「見ろよ、仲間の騎士が笑ってんぞ? くねくねして気色わりぃつってな!」
「……」
「何とか言えこの変態ジジイ」
軽口を叩くシクスであったが、その実かなり焦っていた。宿舎に居る鴉紋達に火の手が迫っている事、背中に受けた傷が思いの外深く、左腕が痺れて上がらなくなっている。
シクスは自分とワルトとの間に鋼鉄の盾を幾つも出現させる。
彼を取り囲んだその鋼鉄の盾が、形状を変えて鋭利な突起物を作り、ワルト押し潰そうと同時に輪を小さくした。
「……ぬるい」
ワルトは迫り来る盾の一つに自らの槍の切っ先を突き立てて真っ直ぐに押しやり、その包囲を抜けていた。
『幻』による創造物は、あくまで現実には存在していない“夢”である為、現実と幻影が鍔迫り合う様な場合、“現実の存在が優先”される。
とはいえ、その破壊力を物語るワルトの風圧に気圧され、シクスのイメージしていた幻影は遥か遠くにまで吹き飛ばされてしまっていた。
「いくぞならず者……」
ワルトはその勢いのまま、独特な歩法でシクスに詰め寄り、今度は正面から横腹を裂いていった。
「があっ!!」
更に、精練された素早く強烈な突きの連続がシクスを襲い始めた。身体中に深い切り傷が出来上がっていく。
「くっそ……ナメんなっ!!」
身を捩りどうにか致命傷は避けていたシクスが、眼光を滾らせ、肉の塊の複合体を地より現した。
醜い異形が腕を広げてワルトに覆い被さる。化物は切り刻まれる体にも怯まず、八つ裂きにされた肉のまま彼を押し潰そうとした――
「そいつは幾ら刻んでも無駄だっ……しかも毒気を含んだ奴だぜ! 触れればお前の皮膚は爛れて焼け落ち、呼吸も出来なく――」
「フン――――!」
ワルトは無表情の面を貼り付けたままに、銀の槍を猛烈に薙ぎ払って、巨大な異形を吹き飛ばしてしまった。シクスの出した化物は紫色の血液を四散させながら、その巨体を数メートル先まで吹っ飛ばす。
「こんの化物め! なんだその力は!」
「お前に言われたく無い。……私にお前達の様な突飛な能力や魔法は無い。ただ修練した技を淡々と繰り返しているだけ……そう、淡々と、普通の事を、延々と……そうしていつしか私はこの隊の長となっていた」
音も無く詰め寄ってきたワルトの槍が、シクスの体を斜めに切り裂いていった。
「ぐああっ!!」
強烈な一閃に、シクスの傷口から血が噴き上がった。
「…………はぁ〜〜」
長い溜息と共に、途端に呆れ顔になったワルト。
――彼はそこでくるりと反転すると、シクスに背を向けて悠々と離れていってしまった。
「つまらん……もういい、魔法球を放て」
「――……ぁ? おい、逃げんのかクソヒゲこらぁ!」
シクスの傷は致命傷には至ってはいなかったらしく、彼は何とか踏み留まってワルトの背を見上げていた。
しかし満身創痍には変わり無い様で、激しく息を荒げ、動かなくなった左肩はダラリと下げられていた。
「……端からお前の様な能力者には遠距離から魔法を放てば死に絶えるしかないのだ。少し遊んでみたがもういい、お前の様なゴミと遊んでいてもつまらん」
「……んだ……っと……!」
「人にもロチアートにもなれなかった醜悪なる者よ。ここで潔く死に絶えろ。存在意義も無いゴミとして」
「俺は……ガキどもが……夢を語り合える……そんな世の中に…………だから、こんな所で……」
「食い物が夢を語るな。思い描くな。」
シクスは右手のダガーを強く握り締めながら、ワルトの圧倒的たる力の前に、膝を落としていった。
――こんな強ぇえ奴が世界にはいんのかよ……すまねぇ兄貴。
…………すまねぇネル。
思いやりなんて気持ちと、生まれてこのかた縁の無かった人でなしの脳裏を、ほんの数時間前に出会っただけの少女の姿が過ぎった。
歯の抜けた顔で大きな口を開けて笑い、些細な夢を語る。そんな少女が明日を夢見て瞳を輝かせる、ただのささやかな笑顔が。
周囲の騎士達は手元にシクスに向けて、各々の属性の魔法球を練り上げ始めた。




