第178話 やり残した使命
第二十八章 古の拍動
自らを諦め、その体をもう一つの意思へと明け渡そうと、鴉紋はその背に闇の翼を開こうとした。
突然の咆哮に、彼の周囲に集っていたグラディエーター達が尻餅を着いて驚愕する。
しかし――――
「なんでだ……なんなんだよ…………」
静まり返った空に、翼は開いていなかった。ただ鴉紋の足元は黒く変色するまでに留まっている。
すると彼は血管を浮き立てて歯牙を剥く。
「なんなんだよオマエッ!! ッオイ!!」
狂乱したかの様に喚きながら、自らの胸を強く打ちつけ始めた。彼の声はもう一つの人格には届かず、ただ目を真っ赤に充血させる錯乱した男が残る。
「俺の体を奪うんじゃねぇのカッ!! オレの体ガ欲しかったんじゃねぇのカよ!!?」
動揺を隠せないでいるセイル達であったが、シクスは一人飛び出して鴉紋の腕にしがみついた。
「どうナッてんだよぉおお!!!」
「やめろ兄貴何やってんだ! 自分を殴ってどうすんだよぉ!?」
「くれてやるって言ってんだ!! 聞こえてんダロ!! もうオレにはムリなんだ!! 代われ! 出来ねぇんダ……! だか……ラ!!」
尚も止まらず打ち付けられる拳は、懇願する幼子の様にも見えた。
「ふっっざけてんじゃねえ!! 兄貴!!」
「――――ガっっ」
シクスが思い切り振り被って、その拳を鴉紋の頬に叩き付けていた。
「――っシクス!!」
「鴉紋様!」
セイルは息を飲み、グラディエーター達はシクスの正気を疑って吠え始める。
「シクス!! 鴉紋様に何を!」
だがシクスは必死な形相のまま、もう一度拳を振り上げる。
「黙ってろ!!」
――そして再び拳を振り下ろそうとする途中で――彼は静止する事になった。
「……嬢ちゃん」
「お願い鴉紋……止まって」
瞬時に転移してきたセイルによって、反対の頬に張り手を喰らった鴉紋は、血の気の失った顔で白目を剥いた。
「兄貴……」
何時に無く思い詰めた表情をしながら、シクスは崩れ落ちた鴉紋を見下ろす。
「……」
そしてセイルは瞳に涙を溜めていた。
*
雲が落ち、月光も霞む闇に、生温い雫が垂れ始めた。
静まり返った森の中で、グラディエーター達は木々や葉っぱで作った簡易な屋根に身を寄せて眠っている。
――じゃり。
土を踏み締める物音に、クレイスは一人薄目を開ける。
「……鴉紋様」
痩せた体を亡霊の様に折り曲げて、鴉紋はテントから抜け出していた。そして闇に染まった表情を足元の男に向け始める。
「あの手紙。見せてみろよクレイス」
「それは……」
鴉紋の囁く様な声につられて、彼もまた静かに言葉を返し始めた。
「簡単な文字なら俺にも読めるんだ」
「……何故です。内容は全て読み上げた筈です。全員でゲブラーのコンサートホールに来る様にと」
「……」
闇に隠れた表情に眼光が鈍く灯る。そこにある表情はハッキリとせず、クレイスは自らの思惑が見抜かれているのではと心臓を跳ね上げた。
「それに、あれは燃やしてしまいました。もう必要の無いものかと思い」
「……」
折り曲げた腰を戻していきながら、鴉紋は寂しげな息を漏らし始める。
「そんなに頼り無いか、今の俺は?」
「え……?」
震え始めたクレイスに、鴉紋は静かに続けていく。
「手紙には俺一人で来いと、そうあったんだろ?」
「そ、それは……」
暗黒の中で高まり続けるクレイスの鼓動が、彼に冷や汗を滲ませていく。
「わざわざ分断して戦力を削ぎ、人質まで取ったんだ。それ位俺にも分かる」
「しかし鴉紋様……お一人では貴方の身が!」
そこまで聞くと鴉紋は彼に背を向けた。そこにある何処か儚げな背中を見つめ、クレイスはただ事でない雰囲気を感じ始める。
そしてソッと告げられる。
「旅は終わりだ」
次に紡がれて来た言葉に耳を疑いながらも、クレイスはただ押し黙る事しか出来なかった。それ程の決意が鴉紋の声音には含まれていた。
「もう俺はお前達の期待に応えられない」
弱々しく左足を引き摺っていく鴉紋に、クレイスはようやく口を開き始める。
「鴉紋様……一体何処へ?」
すると彼は振り返らずに答えた。
「盗られたモノを奪い返すだけだ」
「……」
「この身一つでも、舐められた分の礼位はしてやる」
「しかし、今の貴方では……っ」
夜気に満たされた森に冷たい風が吹き、頬を雨が濡らしていく。
「ゲブラーはどっちだ?」
「本気ですか……? 本当にこの旅を終えると……ロチアート達の夢を諦めるおつもりですか?」
鴉紋は答えずに闇に踏み出していく。
「ついて来るなよ……出なきゃ俺の手が届く前にフロンス達が殺される」
「今の貴方一人で乗り込むなんて……そんなの死ににいくようなものです!」
「あぁ、分かってる」
「やめて下さい、どうか考え直して下さい鴉紋様! 力を蓄え、それからでも遅く無いでしょう? 我々の夢はあと一歩です! あと一歩で叶うのです! だからどうか、我々と共に……!」
油紙に火のついた様にまくしたてるクレイスを背に、鴉紋は名残惜しそうに言い残す。
「セイル達には……すまなかったと伝えてくれ。ここまで俺の勝手に連れ回して、辛い思いをさせてすまなかったと」
「そんな、鴉紋様……勝手です、そんなの……っ」
静かに涙を流し始めたクレイスに、振り返らずに鴉紋は黒い掌をあげる。
「あとは好きにやってくれ……俺は行ける所までいってみるよ」
ジンジンと痛む両の頬を擦り、鴉紋は消えて行った。
「じゃあな、お前達」
そう闇に溶かして。