第167話 黒き執行者
「ハっ……ハっ……ハっ――――!」
クレイモアを拾い上げる事も考え付かない程に、ダルフは縮み、竦み上がっていた。まるで心臓を掌握されているかの様な、残虐なる実感が彼の息を荒げている。
「だが……てめぇの意識が途絶して、実に動きやすいんだ。たまらねぇ位に気持ちがいいよ……このまま貰っちまいたくなる程に……ッ」
満面の笑みをダルフに見せながら、彼は鴉紋へと語り掛けていた。
そしてその背から、更に二枚の暗黒が伸びて影を落とし始めた。
「……ぁ……っ」
あっさりと四枚となった闇の翼に、ダルフは目をひん剥きながらカタカタと歯を鳴らしだした。
鴉紋は自らの体を撫であげると、掌に付着した夥しい量の血液を眺めて舌打ちする。
「だが、あまり時間はねぇみてぇだ……」
「フっ……フっ……――――!」
「……こいつの使い方を見せてやる」
そう囁いた鴉紋の上腕に、白き魔法陣が現れて発光を始めた。
そして空が唸り、黒き雷火が二つ落ちて来る。
「『黒き執行者』」
鴉紋は頭上に落ちる落雷に向けて、その両の拳を順に振り抜く。凄まじい威力で打ち込まれる拳に大気は震え、ダルフの長髪が風に巻き上がった。
その両腕に黒の稲光をバリバリと滾らせる拳が完成する。
眉間にシワを寄せた鴉紋が一度首を鳴らしてダルフへと歩み始めた。黒く変貌した足は無理矢理に引き動かされ、もう跛行する事も無い。
「なぁダルフ」
「く……っ…………!」
「貴様が邪魔だ……俺の復讐の為に」
暴慢を、傲慢を、そして暴虐を思わせる声に、ダルフの心臓は脈打って止まらなかった。バクバクと、跳ね上げる様に胸部を突き上げてくる感覚を覚えてしまう位に。
「人間は全員……そいつらに懐柔された赤い瞳も……ミハイルも……。俺は潰す。貴様を粉微塵にして、思うがままに!」
未だ残る圧倒的たる怨毒の余韻。それがダルフの口を戦慄かせて止まる事が無い。
「……あぁあ……ひ――ッ」
肩を怒らせて来る暴虐の男。その威圧にダルフ尻餅を着いて肩を震わせるしかない。
――何をするでも無く、情け無いままに敗北を受け入れ掛けるダルフの元に、鬼気迫る女の声が届いた。
「――――ッダルフ!!」
拳を握り締めた少女が、不安げな表情で彼を見ていた。
「リオン……」
黄金の眼に彼女を捉え、震えた睫毛が止まる。
だがそんな事には構わずに、鴉紋は迫り、怒り狂った様に喚き出す――
「情けねえじゃねぇか……さぁ立てダルフ! どうした、さっきまで息巻いてたじゃねぇか! 言ってみろ! ……さぁ、この俺にも言ってみろッ! 言うんだ……宣ってみせろ! 言えッ! 貴様の正義を! 語ってみせろよ!! この俺にこそ!! 俺がどうして悪で、貴様がどうして正義なのかをッ!!」
大股で詰め寄って来る激しい熱意。闇を孕んだ凄絶なる感情が、再びにダルフを取り巻いていく――
「――――ヅっ!」
――ダルフの震えた拳が、自らの頬を殴っていた。
「……あ?」
何度も、何度も何度も! その体の震えが吹き飛ぶまで。
「……恐怖に気圧され、気でも触れたか?」
訳の分からぬ狂態に鴉紋の足が止まる。そしてダルフは鼻血の垂れた精悍な顔付きを上げた。
「殺すのか……お前の愛した人間を」
「は?」
立ち上がって語り出したダルフに向けて、鴉紋の眉が不愉快そうに曲がっていく。
「ロチアートと同じ人間を?」
「貴様……ッ!」
忌々しそうに歯を食い縛る鴉紋に合わせて、暗黒の嵐が、雷が、翼が怒涛に坂巻き始める。
「俺の愛した――――」
――だがダルフは続ける。
守りたい者の為に。命を落としていった仲間の為に、その恐怖を振り払い始める!
そしてもう一度、リオンを優しげに眺める様にした。
「ロチアートを」
遠くでリオンが頬を赤らめた。言葉は聞こえずとも、彼女の目にはダルフの心の形が見えているのだ。
そしてダルフの瞳に生が戻っている。
確かな手付きでクレイモアを掴み、悪を前にしてその手に構えていく。
「何も……ッ キサマは何もワカッテ……ッ!」
怒りの臨界点を越えた鴉紋は途中で口籠り、赫怒した目を血走らせる。
一層と激しく吹き荒れる黒の嵐を切り払い、ダルフは巨大なクレイモアを天に突いた。
「『因果の雷斬』!」
そして頭上に振り回し、曇天からの白雷を溜める。
垂れ流される悪意の濁流をその身に受け止めて、ダルフのクレイモアが巨大な雷を纏った。
「ぐふッ」
「かっ……」
鴉紋は血を吐き、ダルフは抉られた腹部からの出血に苦悶を表す。
互いを必殺の間合いに置き、彼等は奇しくも繰り返す。
「アモン――――ッ!!」
「ダルフ――――ッ!!」
雷そのものとなった大剣が雲を割り、怒涛の雷轟と共に鴉紋の頭上に迫っていった――
噴出する背の白翼を高く昇らせたダルフが、憤激の相貌を刻みながら吼える。
「この身が引き裂けても、お前だけはッッ!!」
巨大なエネルギーの落下は地を巻き上げ、風を飛び散らせ、大気を張り裂いていく!
「…………」
不敵に佇んだ鴉紋が、棒立ちのままその三白眼を上げた。
空に広がった四枚の闇で空を覆いながら、周囲に暗黒の波動を坂巻かせて髪を舞い上げる。
そこに露わになった表情は自身に満ち溢れ、僅かの動揺すらも思わせない。
「ハァアアア――――ッ!!」
猛り声を上げたダルフの雷霆に、暗黒の淀みが呑み込まれる。そして燦然とした瞬きに闇が祓われていく――
――だが猛然とした雷砲の中で、鴉紋の口角が緩く吊り上がっていった。
「黒雷に決められた形はねぇんだ……」
半身となった鴉紋が、黒き雷光の滾る左手を前に突き出した。
そして次の光景に、ダルフは息を呑む事になる。
「な……っ!?」
前に出した鴉紋の左手から拡散する黒き瞬きが、歪な壁となって光を割っていた。
ダルフのとめども無い光の奔流が、黒き稲光の盾に堰き止められて空に散っている。
「――くっ……!」
再びに満ちて来た負のオーラ。邪悪なる気配にダルフの額に汗が垂れる。
光を遮ったその背後で、暗黒の翼が捻れ合う様にし空間を侵食し始めた。
そして鴉紋は後方に残った右腕を引き絞り――その拳を押し開く。
「殴るばかりじゃあ――芸がねぇだろうガッ!!」
そこに表れる黒雷の爪。超大な鷲の様なかぎ爪が、雷電を纏いながら足下から振り上げられた!
「『雷爪』――――ッ!」
その瞬間、黒の閃光が迸り、爪の軌跡を描く様にして極太の雷砲が切り裂かれた。
「ゥ……ッ!? つアァアア!!?」
そのまま地を走り、空を登って来た黒き雷の爪が、ダルフの体を深く切り上げる。
「ァァァァアァアア――!!!」
肉を深く切り裂かれ、そのまま内部に禍々しい感覚を残されたダルフは、絶叫せずにはいられなかった。