十四話 後に英雄と呼ばれる男が、平和を勝ち取るために踏み出した、第一歩である
「おい、聞いてるのか?」
「聞いてますよ。でも、今は立ちたくないんです」
膝を抱えるように座り込んだまま、むすっとフィアが返事をする。いつもなら素直にくっついてくるか、「ベリーパイを作ってくれるなら帰ります!」などとワガママを喚いて困らせてくるのに。
……まさか、
「まさか……おんぶしろ、とか言わないよな?」
「違います。それはそれで魅力的ですが、そういう気分でもないです」
違った。疲労困憊の身体に鞭打つ羽目にならずに済んだことには、ほっと安堵しつつ。それならどうしたのか、と聞くもついに答えることすらしなくなってしまった。
ううむ、どうしたものか。フィアなら自力で帰ることも出来るだろうから、放っておいて一人で先に帰ってもいいのだが。俺は再び彼女の隣に腰を下ろした。
このまま放っておいたら彼女は二度と自分の元に戻ってこない気がしたから。
「……ヴァリシュさん、大丈夫ですか」
「さっきも同じことを聞かなかったか? まあ、シドを救えないのはショックだし悔しいが、いずれは何とかするつもりだ」
「そっちじゃなくて、目の方ですよ」
「目?」
じっとこちらを見てくるのに、彼女と目が合わない不自然さにようやく気が付いた。
「ああ、この目か。今はもう何ともないぞ。目の奥の血管でも切れたんだろ」
自分の手で左目の瞼を撫でる。すでに出血は治まっていた。痛みもない。眼帯の予備は持っているが、この目の事情を知っている者ばかりだったのでそのままにしておいた。
で、フィアがこの目のことを言ってくるということは、
「お前……まだこの目のことを気にしているのか?」
「……だって」
ぶすっと、彼女が目を逸らす。心底呆れたが、それ以上に意外だった。
おおざっぱで、お気楽な性格のフィアが、自分との契約で視力を失った俺の目のことを気にしているなんて。
俺なんて、この目のことを意識しない日の方が多いのにな。別に痛くもないし、特に不便さを感じることもないし。
「私…ヴァリシュさんの左目を見るたびに、怖くなるんです」
「怖いって、何が」
「それは…………」
フィアは答えない。俯いて、そのまま黙り込んでしまった。
……参ったな。こういう場合は、しつこく問い質してみるべきか? それとも、彼女が話し出すのを待つべきか?
わからん。彼女の機嫌を損ねたら、それこそ逃げてしまいそうだし……なんて、こんな風にフィアのことで悩む自分に正直驚いた。
最初の頃は、窓から放り投げたりしていたのに。俺は、いつの間に変わったんだろう。
「俺は、お前が居なくなることの方が怖いけどな」
「え?」
「……あ」
しまった。なんか口走ってしまった。今すぐリセットしたい、どうして現実世界にはセーブとかロードの概念がないんだ。
「え? え? それ、どういう意味ですか?」
「いや、何でもない。忘れろ」
「つまり、隣に居ろってことですか? それとも前ですか、もしくは上ですか? 後ろもいいと思いますが、下は地面なので無しですね! どこですか、ヴァリシュさんはどこがいいですか⁉」
前後左右、それから上へとちょこまかと纏わりつき始めるフィア。つい三分前までは立ちたくないって駄々をこねたくせに、魔法を使って目で追えない速さで動き回っている。引っ叩きたいくらい鬱陶しい。
振り上げそうになる手を理性でなんとか抑え、代わりにその手で彼女の手を摑まえた。
「ひいえ⁉ な、なななんですか、どうしましたヴァリシュさん」
「隣でも前でも後ろでもいいから、とにかく傍に居ろ。あと、落ち着け。目の前でそんな速さで動き回られたら酔いそうだ」
「う……は、はひいぃ」
顔を真っ赤にしながら、フィアが俺の隣にすとんと座り込む。手を握ってるせいか、先ほどまでよりも距離が近い。
……なんだか、抱き着かれるよりも緊張する。自分の顔がクールじゃなくなっているのが、鏡を見なくてもわかる。
それでも、彼女の手を離したくなかった。
「うあああ……え、えっと……そうだ、ヴァリシュさん!」
「何だ?」
「堕天使が言ってたこと、気にしない方がいいですよ。堕天使が邪悪で真っ黒な淀みの塊なのは間違いないですが、ヴァリシュさんはちゃんと人ですから」
先ほどの続きかと思ったら、全然違う話を始めたな。まあ、今は彼女の好きにさせるとしよう。
「ああ、あいつが言っていた歪みのことか」
「そうですそうです。歪みだの淀みだの、よくわかりませんが。ヴァリシュさんは、ちゃんと人ですよ! そりゃあ、ちょっと……結構……かなり、変わってますけど」
もごもごと、珍しくフォローしてくるフィア。悪魔に変人扱いされるとは思わなかった。普通にショックだ。
しかし、ふと思う。歪み。この世界をゲームの世界だ、と認識している時点で確かに俺は歪んでいるのだろう。
記憶を持っているから、闇落ちを回避出来た。アスファに勝つことが出来た。スティリナという国を、自分に与えられた力の一つとして受け入れられた。
それはすでに、多少なりともこの世界を歪めてしまっているということになるのではないか。
「俺がこのまま生きていたら……世界はどんどん歪み、変わる」
それは、正しいことなのだろうか。今まで俺は、自分が闇落ちすることをひたすら回避したかったし、そうしてきた。でも、結果的にそれが原因で世界が変わってきた。スティリナの存在が明るみになったのも、そのせいだろう。
この変化は、果たして正しいのか。俺がここに来たせいで、シドは壊れた。堕天使などという者が干渉してきた。世界は再び危機に晒されることになってしまった。
そこまで考えてしまうと、自分という存在が世界を揺るがす爆弾なのだと突きつけられてしまっているように感じてしまう。
「おおー! なるほど。それってつまり勇者ではなく、ヴァリシュさんこそがこの世界の英雄ってことですか?」
「は? え、英雄?」
「はい! だって、ヴァリシュさんがこの世界を変えてくれるんですよね? あの悪趣味な神が創った世界を、ぶち壊すってことでしょう?」
素晴らしいです! 握った手をぶんぶんと振り回しながら、フィアが楽しそうに笑った。同じことを言っているのに、俺とは真逆の方向から肯定してきた彼女に反論どころか声すら出なかった。
英雄、なのかはわからないが。確かに、この世界を創った神は悪趣味だ。そして、このままでは神のシナリオが永遠に続く。勇者と悪魔が争い、血が流れ悲しみが生まれる。
でも、このシナリオを変えることが出来るかもしれない。勇者でも何でもない俺が、神と堕天使が描いたシナリオをぶち壊し、勇者と悪魔の争いに終止符を打つことが出来るかもしれない。
「私、わかっちゃいました! ヴァリシュさんには、悪魔王の玉座は小さすぎます。スティリナの玉座も似合いません。ヴァリシュさんは、世界中の人間や悪魔に讃えられて一国に百体以上の金ピカ像を作られるような、ものすごい英雄になるべき人なんです!」
「金ピカ像って、それこそ趣味がわる――」
「よーし! なんか私、元気がモリモリ湧いてきましたよっ。何からしますか? どこへでもついていきますよ!」
はい、立って立って! ぐいっと凄い力で引っ張り上げられて、無理矢理立たされる。さっきまでそんな気分じゃないとか言っていたくせに、なんて自分勝手なやつだ。
でも、不思議と悪い気はしない。
だって、俺はフィアのこういうところが、
「ふえ?」
気がついたら、身体が勝手に動いていた。フィアの手を引っ張り返し、バランスを崩した彼女を抱き止める。
いつもはあまり気にしたことないのだが、フィアは小柄だ。こうやって抱き締めてみると、彼女のつむじを見下ろす形になる。
「へ……ええ!? ゔぁっ、ヴァリシュさん何を!」
「なんだ、いつも抱きついてくるくせに今更恥ずかしがるのか」
「だ、だってだって……ヴァリシュさんから抱き締めてくれるなんて、初めてじゃないですかっ」
「そうだったか?」
「そうですよ!」
ギャーギャーと喚くものの、離れるつもりはないらしい。翼がパタパタと弱弱しく震え、耳の先どころか首まで真っ赤だ。
今の彼女は色欲の悪魔ではなく、少しだけワガママな一人の女性にしか思えない。
「そこまで言うなら、絶対についてこいよ」
「つ、ついてこいって?」
「俺が行く場所、全部に。まあ、逃がすつもりはそもそも無いがな」
抱き締める腕に力を込めれば、細い肩が大袈裟に跳ねた。そして擽ったそうに身を捩ると、おずおずと彼女の両手が俺の背中に回る。
「……仕方ないですね。ヴァリシュさんがそこまで言うなら、付き合ってあげますよ。感謝してくださいね!」
「ああ、上等だ」
顔を見合わせ、くすくすと笑い合う。大丈夫。二人なら、何でも出来る。どんな困難があろうとも、俺たちなら解決出来る。世界の歪みである美形悪役と、変わり者悪魔のコンビだ。勇者と聖女にさえ匹敵する。
暖かな夕日と、二人の髪を掬うように揺らす風がなぜだか凄く心地いい。この平穏を護るためだ、絶対に負けるわけにはいかない。
俺たちの新たな戦いはこの日、こうして始まったのである――




