十話 世界は神の暇潰し
「どうしたのヴァリシュ、新たなリーリスよ。悲しんでいるの? たかが自動人形が一体壊れただけじゃないか」
「あなた……誰ですか? 人間でも、悪魔でもないですよね?」
フィアの言葉に、こみ上げ始めていた悲しみが一瞬で凍り付いた。
相手が人間ではないことは知っていた。というよりも、思い出していた。でも、これほどの力を持つ存在が悪魔ですらないというのはどういうことだ。
「ふうん、腐っても悪徳の一つを冠する大悪魔か。よく私の正体がわかったね。擬態は完璧だと思うんだけど」
「魔力をだだ洩れにしている状態で、隠しているつもりだったんですか? 鳥肌が立つくらいに神聖、それでいて悪魔よりも邪悪。私が知っている中では、そんな存在は一つしか思いつかないのですよ」
「そうか、じゃあ言い当ててごらん。でもその前にヴァリシュ、ちゃんと息は吸いなよ。私の前で呼吸したくらいで殺したりはしないから」
「っぐ、ゲホゲホ⁉」
男に言われるまで、自分が呼吸が出来ないでいたことすら気づかなかった。反射的に息を吸うと、冷たい空気に肺が痛んで噎せた。
こんなこと、あり得るのか? 押し潰されそうな緊張感と、死んだ方がマシだとさえ思わされる恐怖。拷問に等しい状況に、俺は立っているのがやっとだった。
「さあ、言い当ててごらん。私の可愛い色欲よ」
「あなたのものになった記憶はありませんよ、この悪趣味な『神』め」
「あははは、正解。いや、半分だけ正解と言うべきかな」
「神、だと?」
俺は思わず呻く。彼は神。そうだ、それしかない。
そもそも、この世界における神とは色濃い存在だ。勇者は神に選ばれた存在であり、悪魔は神に敵対する種族である。教会では神に祈りを捧げることで聖水を賜る。
そう、この世界には『神』が確固たる形を持って存在するのだ。
「私は神が切り離した端末の一つ。意思を持ち、この世の悪徳の全てを内包した独立個体」
「神が切り離した端末……まさか、天使? いや、堕天使……なのか」
思い出した前世の記憶に、この世界の成り立ちについて言及した記事があった。
世界は全能の力を持つ神が創造し、神はそこに愛すべき人間たちを住まわせた。しかし、時を経るにつれ世界はどうしてもひび割れ、歪み、淀む。
そこから生まれたのが悪魔。悪魔は神を拒み、人間を支配しようと企む。神は悪魔を排除するために、勇者を選ぶ。そうして世界は巡ってきた。
天使とは、神の目であり手足。天使と悪魔は対として考えがちだが、この世界に限っては違う。天使は通常、自我というものは持たない。
あくまでも神の意志を反映し、実行するための端末。でも、それが自我を持ったということは、
「堕天使か……響きは美しくないけど、この身を表す呼び名としては間違ってないな」
「お前のような存在が、どうしてこんな場所に居る」
崩れ落ちそうになる勇気を精一杯奮い立たせて、俺は問いかける。
そんな俺を嘲笑うかのように、堕天使は口角をつり上げた。
「お前たちを虐殺するため」
「なっ⁉」
「というのは、目的の一端でしかないな。神と敵対し、神が愛でる人間たちとこの世界を滅ぼすことが私の最終目標なんだ。神が己から切り捨てた七つの悪徳。それが私という存在を形成しているのだから」
特別に教えてあげよう、と彼は続ける。世界の成り立ち、人間と悪魔、そして神と天使の存在を彼は語る。それは俺が思い出した内容と同じだ。
ただ、ここからが違った。
「しょせんこの世界は、神の暇潰しでしかないんだ。考えてみるといい、本当に美しい世界で人間を愛でたいなら、神がもっと丁寧に管理すればいいだけのこと。淀みを掬い、歪みを一つずつ直せばいい。悪魔が邪魔なら、勇者なんて作らずに自前で用意した天使という端末を使うべきだ。でも、神はそうしない。出来ないのではない、出来るのにしないんだ。理由は一つ、永遠を過ごす神は暇潰しを求めているから」
「そうすると、あなたがこの世界における最大の淀みってわけですね」
「私が最大の淀みならば、そこに居るヴァリシュは世界が生み出した最大の歪みだろうね。それも、世界の仕組みを破壊しかねないほどの歪みだ」
堕天使が俺を見て、嘲笑を浮かべる。吐き気さえ催すほどにおぞましいが、目を逸らすつもりはない。
歪み……俺が前世の記憶を持っていることには、気づいていないようだ。気づかれるわけにはいかない。これだけが、今の俺が持つ優位性なのだから。
そうだ、思い出した。この男もゲームの登場キャラだった。だが、メインストーリーに関わってくるキャラではない。
彼はいわゆる、『裏ボス』である。
「ちょっと! ヴァリシュさんのことを、まるであなたの同類かのように言わないでくださいっ」
「同類だなんて思っていないさ。むしろ、もっとたちが悪いかもしれないよ。この男が、神の描いたシナリオを歪めさせたことは事実なのだから。ヴァリシュ、お前のせいで私は大悪魔の核を二つも回収出来なかったんだ」
「核?」
「私が作った、七つの核。傲慢、嫉妬、憤怒、怠惰、強欲、暴食、そして色欲の核。これらを悪魔の身体に刻み、大悪魔としての力を引き出す。色欲を冠するお前なら覚えているだろう?」
堕天使の問いかけに、フィアが言葉を詰まらせた。どうやら身に覚えがあるらしい。
「神は勇者を創り出して、悪魔を打ち倒す手段を人間に与えた。対して私は自分の悪徳を切り取り核を創り、大悪魔を簡易に生産出来るようにした。この流転を、神はとても気に入ったらしい」
「そうでしょうね。そうじゃなければ、いつまでもこんな悪趣味な泥試合を繰り返すなんておかしいですよね」
悪趣味。そういえば、フィアは前にも言っていた。神は悪趣味だと。それはてっきり、彼女が悪魔だから神を嫌っているのだと思っていたが。
違う。神はあえて、勇者と悪魔が拮抗するような状況を傍観しているのだ。何度も繰り返される争いを、ずっと眺めて楽しんでいた。
他でもない、暇潰しのために。
「だから、今の展開は私も神も想定外なんだよね。色欲は生き残って、強欲は勇者ではない者に滅ぼされた。さすがに予想外だったから、強欲の刻印を回収出来なかった」
「ははーん、アスファさんに預けていた核を失くしちゃったってわけですねぇ」
「そういうこと。それで、ここからが本題なんだけど。これまでの流転を繰り返すには、核が必要不可欠なんだ。一つでも創るのに骨が折れるというのに、二つも失うなんて。ちなみに色欲のフィア、私のために死ぬ気はないか? もしくは、私の仲間にならないか?」
「どっちも嫌です!」
「そう言うと思ってたよ。でも、それでいい。私も、この泥試合には飽きた。神の手の上で踊るのはもう沢山だ。それに、ヴァリシュという歪みが出来た以上、このままではこちらが潰されるだろうし」
だから、と堕天使は表示されたままのプロジェクションマッピングを見上げる。それだけで彼の思惑がわかったが、あえて言葉にするのを待った。