∥008-20 山脈よりの物体S(後)
#前回のあらすじ:あいつら先遣隊だってさ
[マル視点]
「・・・遅れてすまない。脚をやってからどうにも、歩くのが億劫になってしまってね」
「せんせー!」「ゆきおとこのせんせー!」
「だから、私は雪男では無いと何度言えば・・・」
急ごしらえの壇上に登った老紳士が、こほん、と一つ咳払いの後に口を開く。
彼の言の通り、その手には茶色のステッキが携えられている。
壇上へ向かう際の足取りにも、わずかに引きずるようなぎこちない動きが認められた。
一方、その姿を見た聴衆の中から上がった歓声に、老人はたしなめるような一瞥をじろり、とくれる。
くどくどと始まったお小言に、やにわに沸き立った観客たちはしんと静まり返ってしまった。
事の発端となったらしき、黒角の子供たちも「しまった」といった表情で、互いに顔を見合わせている。
そこを見かねたのか、我猛青年が助け舟を出すのだった。
「先生、先生。チビどもにゃ、俺から後で言っとくからよ。今は話し、先に進めてくんねぇか?」
「む・・・。そうだったな、すまない。年を取るとどうも、小言が多くなっていかん」
青年の言葉に老紳士は目を瞬かせると、一旦会話を打ち切る。
一つかぶりをふった後に、話は本筋へと軌道修正された。
このまましばらく続くかと思われた説教が止まった事に、聴衆の間からは小さく安堵の息が漏れる。
―――怪生物の襲撃から時は少し遡り、警報が発令された直後のこと。
ぼくらは基地内部の一角へと移動し、バスケットコート程の広さを持つ建物の中へと集められていた。
同じく、建物内に居るのは十名程。
ぼく、寅吉、玄華、野呂の4名を除き、ほとんどは基地職員の面々だ。
我猛、久我島とその部下らの他、先程一緒に遊んだ黒角の子供たちの姿もある。
中には見たことのない顔も居るようだが、基地職員たちだろうか?
それにしても不可解なのは、ここは屋内であるにも関わらず、暖房が切られている事だ。
室内に居ると忘れそうになるが、ここは南極、常に氷点下の世界だ。
外を取り巻く極寒の大気そのままに、建物内は刺すような冷気に包まれている。
窓に目を向ければ、その表面をうっすらと霜が覆っている。
見渡す限り、人々の誰もが防寒着を厚く着込み、それでもまだ寒そうに首をすぼめていた。
そんな中、壇上の人物はいたって平気そうである。
質素ながら品のよさそうなチュニックに、こげ茶色のズボン。
軽装にして、室内着としては違和感のない服装。
しかし、それは極寒のこの環境においては、ことさら奇異なものとして映った。
青白く、不健康な顔色ではあるものの、老人はそのいでたちにも関わらず、寒さを感じている様子が無い。
防寒着に加え、水のヴェールで寒さを防いでいるぼくらはまだしも、あれで本当に寒くないんだろうか?
ぼくの疑問をよそに、老紳士はおごそかに、はっきりと通る声で話し始めた。
「こほん。・・・さて、先ず始めに言っておこうか。我々は基地設立以来、未曽有の危機に見舞われている。この基地が南極大陸の観測とは別に、密かに果たし続けてきたもう一つの『目的』。それが今、不測の事態によって果たすことが難しくなった事が原因の一つだろう」
大きな鷲鼻の上にちょこんと乗った古風な眼鏡。
分厚いレンズを通し、知的な瞳が建物内部を見渡している。
聴衆の反応をひととおり確認した後、老紳士は演説を再開した。
「不測の事態―――職員の過半数を襲った謎の硬直については、後に改めて追及する事としよう。だが今は、まずここへ迫りつつある脅威への対処が必要だ。どうやら、今回は見慣れない顔も居るようだからな、ここで手短に、事の発端について触れておこう」
黒瑪瑙のような瞳がこちらへ向いて、思わずぼくは背筋をぴんと伸ばす。
見慣れない顔、とはぼくらのことを指した言葉だろう。
どうやら、手短にではあるが今起きている状況の発端について教えてくれるらしい。
事情もわからずこの場に居る身としては、願ったりかなったりだ。(ヘレンちゃんは何故か教えてくれないし)
ぼくは内心感謝しつつ、話の内容に神経を集中させるのだった。
「―――1982年、この極地において人類は、『それ』と初めて接触した。『それ』は多細胞生物であるが特定の組織を持たず、周囲の環境に合わせ柔軟に己を改変する力を持っていた。寒さ、暑さ。圧力、外部から受ける様々な刺激。それらが与えるストレスを学習し、その形態を模倣することで、無限に自己を造り変える。ノルウェー隊は内地から凍り付いた生体標本を持ち帰り、蘇ったそいつによって壊滅させられた。その現場に―――私も居たのだ」
「・・・!」
「元々、漂泊の身であった私を暖かく迎えてくれた基地は、一晩のうちに灰燼と帰した。唯一の生存者となった私の役割は・・・こうして、君達へと記憶を受け継ぐ事なのだと、そう自負している。今も、この大陸奥地に潜む脅威を、決して風化させぬ為に―――」
・・・後に知った事だが。
1982年にノルウェー隊を襲った悲劇は原因不明の事故として、世間一般にはその真実を伏せられていた。
老紳士はその一部始終を知る、唯一の証言者だったのだ。
「世界はこの地に存在する脅威を知り、密かに南極奥地へと調査隊を派遣した。しかし―――見つからなかったのだ、怪生物の痕跡を示すものは、何も。それは何故か?答えは単純にして明快、見つけられる場所では無かったからだ」
「見つけられる場所では、無い・・・?」
その言葉に、ぼくは思わず首を傾げる。
確かに存在するのに、見つけられぬ場所。
なぞかけのような言葉の答え合わせをするように、再び老人は口を開いた。
「かつて伝承に伝えられ、しかし今となっては存在を否定され、忘れ去られた土地がある。深紅の月の夜にのみ姿を現すという、円柱都市。レン高原。遥かな古代に地底深くに沈んだ、クン・ヤン。それらは地球空洞説のような、誤った学説を基にした迷信として一度は否定され、人々の記憶からも姿を消した。だが―――実在したのだ。特定の手順、暦、星辰正しき時。そういった条件が揃った場合にのみ姿を現し、果てしない謎の彼方へと誘う地。・・・『狂気山脈』もまた、そういった存在の一つだった」
サイレンと共に、ぼくらの前に姿を現した『狂気山脈』。
南極大陸にも山脈は存在するが、それは現在、厚い氷の下に隠されている。
それは決して、遠方からでも明らかに見て取れるような、超山脈では無いのだ。
しかし今、ぼくらの前に『狂気山脈』は実体を伴い、長々と横たわっている。
その正体は、伝承にのみ存在を語られる神々の土地。
あるいは―――魔界。
あれは、そういった場所の一つなのだという。
「怪生物の捜索に於いて、転換点となったのは一冊の手記の発見だった。著者の名は、ウィリアム・ダイアー。私の母校であるミスカトニック大学にて、一時期教授を務めていた男だ」
擦り切れ、ぼろぼろとなった一冊の本が取り出される。
老紳士が携えたその表紙には、英語で『狂気の山脈より』と題されていた。
「当時の出版社より刊行されたこの本は、あまりに空想じみたその内容から、世間では創作物として扱われていた。内容はこうだ―――1930年、ミスカトニック大学により派遣された南極調査隊が、酷寒の地にて氷漬けの生物を発見。これを持ち帰ろうとするが、蘇った生物により血なまぐさい惨劇が巻き起こる。主人公であるウィリアムは生物を追ううちに、太古より南極の地に眠る、恐るべき恐怖と遭遇する・・・」
その内容は奇しくも、老紳士とノルウェー隊を襲った状況と酷似していた。
いっそう声を潜め、老人が語る物語は佳境へと突入していく。
「何より奇妙なのが、今、我々の前に存在するあの山脈について克明に描写されていた事だ。かの山脈の奥地には忘れ去られた種族の遺跡が存在し、その内部にはかつての主を駆逐し、遺跡の支配者となった怪物どもがひしめいているのだ―――と。手記にはそう綴られている」
ミスカトニック大学というのは、現・東アメリカ首都であるアーカムに存在する、実在の大学の名前だ。
なお、コロラド川を境に東側への立ち入りが禁止された今、あの辺りは人跡未踏の地と化している。
そこが母校というのなら、あの老人は1945年以前の卒業生という事なのだろうか?
老紳士の実年齢がとんでもない事になりそうな気がするが、今はそれよりも話の続きだ。
「東海岸がああなった今、当時の記録を回収する事は難しいだろう。僅かながら流通したうちの一冊を回収する事が出来たのは、本当に幸運だった。怪生物の手がかりを探す者たちは一縷の望みを掛け、この書の描写を頼りに『山脈』の出現パターンを割り出すことに成功したのだ。そこで目にした存在を我々は、手記に倣いこう呼称するようになった。『ショゴス』―――と」
今週はここまで。




