∥007-G 父がウツになりまして・後
#前回のあらすじ:あーちゃんとお父ちゃんの語らい
[マル視点]
中学2年の春、ミッチおじさんからお父ちゃんの変調を伝えられてより、数日。
ぼくの警戒とは裏腹に、日々は特に何事も無く過ぎ去っていった。
それとなく様子を伺っていた父も、なんだか普段通り。
取り越し苦労だったのかな?
そんな事を思い始めた頃。
それは、何の前触れも無く訪れたんだ。
・ ◆ ■ ◇ ・
「ただいまー」
がちゃん。
後ろ手に玄関のカギを締めて、土間から部屋の中へと上がる。
住み慣れた我が家、並べられた靴の中にチャコールカラーの通勤靴を見つけ、ぼくは父の在宅を知る。
・・・その割に、返事が無かったような?
まあ、ヘッドホンでも付けて、音楽か映画でも鑑賞してるのだろう。
そう一人合点したぼくは、洗面所で手洗いとうがいを済ませてから冷蔵庫のお茶で一服。
人心地ついたところで、そのまま足を仏間へと向ける。
普段から気が向いた時、ぼくは天国のお母ちゃんに帰宅の挨拶をしている。
その日もなんとなくそういう気分で、ひんやりした畳の上へと足を踏み入れたのだ。
夕刻の室内は薄暗く、部屋の奥には仏壇のシルエットがぼんやりと見えている。
電気でも点けようかな、そう思ったぼくは薄闇の中、手探りで電灯の紐を手繰り寄せた。
ぱちん。
蛍光灯の白っぽい光が点り、室内を照らし出す。
それと同時に、仏壇の前に存在していた『もの』がはっきりと像を結んだ。
「・・・・・・?」
その存在感があまりに希薄だったせいで、ぼくはそれが何なのか、一瞬わからず首を傾げた。
父だ。
正座した父が物言わぬままじっ、と、仏壇を見つめている。
心ここにあらずといった様子のまま、父は静物のようにそこへ鎮座していた。
何で、電気も点けずに?
さっき、ぼくが上げた声に気付かなかったの?
溢れかえる疑問より先に、得体の知れない気味の悪さを感じてしまい、ぼくは思わず口をつぐむ。
色々と問い詰めたい気持ちをぐっと押し込め、ぼくはおそるおそる父の顔を覗き込んだ。
「ひっ―――!?」
底なしの深淵。
見慣れた筈の瞳は、どろりと濁った色を湛えていた。
それは一切の生気の抜け落ちた、火葬を待つ老いた亡骸さながらの表情だ。
普段、年齢にしては若々しく見える貌は、目の周りがすっかり落ちくぼみ、年老いた老人のごとき様相を呈している。
息を呑むぼくの前で、父は虚空を見つめたまま曖昧になっていた。
―――深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗き返しているのだ。
そんなフレーズが、ふと脳裏をよぎる。
しかし一体、父に何が起きたのだろうか?
相変わらず父は、こちらに気付いた素振りすら見せない。
何で、急にこんな状態に?
・・・いや、ミッチおじさんから話は聞いてたじゃないか。
つまり、『これ』がお父ちゃんに起きている異変、ってコト。
背筋が粟立つ、呼吸が早まり、視野の外が急速に暗くなる。
朝、学校へ出かける前はこんな事態になるだなんて、予想すらしていなかった。
だが、目の前にある光景は冗談や幻覚でも無く、紛れもない現実だ。
どうして、何でお父ちゃんが。
後悔にも似た感情が、とめどなく沸き上がる。
今日と変わらず、明日もまた当然のようにやって来る。
そう、つい先程までの自分は信じていた。
だが、そんなものはまやかしだった。
父の様子は明らかにおかしくて、この場には今、ぼくしか居ない。
―――そうだ。
今、対処できるのは自分しかいない!
「―――た、ただいまっ!!」
「・・・・・・・・・ああ、海人か」
気力を振り絞り、なんとか絞り出した声。
それに父は数舜遅れて、ぼんやりとだが反応を返した。
・・・そこから先は、普段通りだった。
いつもと同じやりとり、いつもと同じ、日常の風景。
おかえり、今日は帰りが早かったね、今晩は何を食べようか。
互いに笑顔を交わし、日々の何気ない幸せを噛みしめる、父と子。
しかし―――つい先程までそこにあった異常を、ぼくははっきりと覚えていた。
あれは、夢や幻なんかじゃない。
今、ここにある『現実』なんだ。
(何とかしないと・・・!)
表面では何事も無いように取り繕いながら、必死に思考を巡らせる。
ぼくに出来る事は?鬱病って?誰に相談すればわかる?
・・・父に、残されている時間は?
混乱する思考。
それを纏め、決断し、行動に移さなければならない。
現実は目の当たりにした、何もせずこのまま座していれば、跡形も無く日常を破壊されるのは、ぼくだ。
この日、この時から、ぼくはただ何となく物事が解決するまで待つことを―――止めた。
行動を開始しなければならない。
さしあたって、最初の一歩は発端となった人物へのコンタクトだ。
震える指で携帯電話を握りしめ、ぼくはミッチおじさんの電話番号を打つのだった―――
・ ◆ ■ ◇ ・
「・・・懐かしい夢を見たな」
意識が覚醒する。
あれは中学2年の春、お父ちゃんが鬱病を発症した頃の記憶だ。
あの時は大変だった。
それまでの生活が全て、ガラっと変わってしまう程のインパクトを、父の変調は齎した。
まず最初に自覚したのは、自分が何の力も無い、ただのガキだという事実だった。
知識も無い、カネも無い、そのくせ父に何かあれば、影響をモロに受ける。
肉親の危機を前にできること探しを始めたぼくは、早々に途方に暮れるハメになった。
恥も外聞も無くミッチおじさんへ泣きついた結果、父が受診する筈だった精神科医への伝手を得られたのは、数少ない幸運と言えるだろう。
『―――家族療法、してみませんかぁ?』
ぼくへ差し伸べられた救いの手、もとい悪魔の誘いは、そんなフレーズで始まった。
市内の大病院の一室。
父の会社の健康診断先でもあるそこで、ぼくはまん丸いフォルムの男と対峙した。
後にも先にも、ミッチおじさんより体重の重い人物と出会ったのはあれっきりだ。
ニタニタと笑顔を貼り付けたようなおじさん、それが件の精神科医に対するぼくの第一印象だった。
一説によると、妻に先立たれた夫の寿命は平均3年だという。
家族を喪失したことによる心的負担は時として、容易に人の心と身体を破壊するのだとか、なんとか。
診察室のちんまい椅子を尻に敷き、やたらコミカルな身振り手振りを交えて医師はそんな話を始めた。
要点を纏めると、父の状態は相当に悪いらしかった。
一刻も早い受診が薦められる状態であるが、当の本人は会社からの受診指示を拒否していた。
医師によると、時折こういう事はあるらしい。
個人的な事情や家庭環境に限らず、社会人として精神科へ関わる事を『負け』と見る風潮も、一部ではあるんだとか。
何はともあれ、当時の父は外部からのアプローチが難しい状態にあった。
仮に強引に連れて行ったところで、余計に態度の硬化を招きかねない。
そういった判断もあり、会社は父に対し不干渉を決め込んでいた。
『心理状態の把握とケア、そして原因追及の手掛かりを得るにはねぇ、内部からのアプローチが一番なんですよ~』
カリン糖をぼりぼりと齧りながら、医師は続ける。
同じ家族であるぼくにしか、それは出来ないのだとか、なんとか。
要するに、何とかして父をここまで引っ張ってこい、という事だった。
初対面のオッサンの奇行に面食らいながら、ぼくは無言のままこくこくと頷いた。
無手無策の身として飲むしかないとは言え、正直、詐欺同然の誘いだったと今では思う。
―――あれから何でもやった。
家事全般、弁当作りから父の交友関係の取り持ちまで。
母が残していた手帳の記述を頼りに、慣れない家事と七転八倒しつつ格闘する日々。
それ以外では時間が許す限り、ぼくは父の側へとベッタリ張り付いて、あれこれと世話を焼いた。
自分はここに居るのだと。
家族の形が変わっても、変わらず明日は続くのだ―――と。
行動の全てを以て、必死に訴え続けた。
実行役はぼく、出資元はミッチおじさん、企画立案は太っちょ精神科医。
登場人物のうち、実に3分の2がメタボという有様。
終いにはぼくまで、そっち側へ仲間入りした。
一癖も二癖もあるメンバーで日々を戦い抜いた末―――ぼくは、父に受診を同意させた。
「大変だったなぁ・・・。結果としてメリットこそあったけど、失敗作の食べ過ぎですっかりデブっちゃったし」
布団の中、しみじみと当時の思い出を振り返る。
父が定期的に受診するようになった後も、一度変化した生活スタイルは変わらなかった。
ぼくが居るうちは、家事はぼくの担当。
家のことも学校のことも何でもやって、出来る限り早く片付ける。
家に居る間、父の回りをうろちょろするのも相変わらずだ。
そうしているうち、家の外でも自然と行動的になった。
テスト前は勉強会、学校行事にはクラス団結の音頭を取り、いびられている生徒がいれば血相を変えて駆け付けた。
そうして動き回っているうちに、自然と学校での交友関係も広がっていった。
色んな意味であれは、ぼくの原点となった出来事だろう。
―――だからこそ、医師に言われた一言が記憶の底に、深く刻み込まれている。
『君ぁアレだね、お父さんと似すぎ。何時か奥さん亡くした時は、覚悟しといた方がイイよ~?』
何度目かに進捗の報告に訪れた際、聞いた台詞だったと記憶している。
心当たりはある。
小学生の頃、母を亡くしたぼくは三日三晩泣きはらし、食事すら受け付けなくなったのだという。
伝聞調なのは、ぼく自身その記憶が残っていないからだ。
それ程のストレスが幼いぼくを襲い、父に自身の痛みを忘れる事を決意させるきっかけとなった。
それが巡り巡って、あの一連の出来事を招いたのだろう。
―――ぼくはいつか、愛する者を失うことで発狂するかもしれない。
それは遺伝のなせる業か、それともただ単に、そういう気性として生まれついただけか。
いずれにせよ、父と同じく『その時』に備えねばならない。
故に、マルは交友関係を広げる。
人に優しく、自分に厳しく。
日々のふれあいを心の栄養と捉え、何でもとにかくやってみる。
いつか訪れたその時、隣人に手を差し伸べて貰えるように。
「・・・喉、かわいちゃった」
追憶を打ち切り、ぼくは布団の中でぼそりと呟いた。
熱は下がったが、まだ身体が少し熱っぽい。
くよくよと色々考え込んでしまったのも、そのせいかもしれない。
こういう時は、冷たい牛乳でリフレッシュするのがいいのだ。
そういう訳で、ベッドからのそりと立ち上がる。
病み上がりでふらつく身体に苦闘しながら、ぼくは部屋のドアを開けてリビングへと向かった。
薄暗い廊下に差す蛍光灯の灯り、聞き覚えのある溌剌とした声。
「―――あれ?何であーちゃんが居るのさ」
「あ!先輩先輩、こんばんわー!お見舞いにきちゃいました!」
「・・・少し、良くなったみたいだね」
リビングの敷居をまたいだぼくを待ち受けていたのは、お茶請けを食い散らかしながら談笑する、あーちゃんとお父ちゃんだった。
訂正。
お茶請けを食べまくってるのは主に後輩で、それに相槌を打ちながらちびちび珈琲を啜っているのが父だ。
ぼくに気付いたのか、ぶんぶん右手を振る彼女。
その傍らには、桃缶の入ったビニール袋がちょこんと置かれていた。
ぼくはそれを、何だかまぶしいものを見るような気持ちで見つめる。
何時も通りの日常、ありふれた光景。
その、何とも有り難い事か。
熱と記憶のせいで少し沈み気味だった気分は、なんだかすっかり持ち直していた。
後輩へ密かに感謝の気持ちを送りつつ、ぼくは談笑の輪へと加わるのだった―――
かのH.P.ラヴクラフトが提唱した『宇宙的恐怖』。
その源泉の一つと言われるのは、かの人自らの生い立ちに関するエピソードでした。
幼少のH.P.Lの父親は神経症を患い、後に精神病院で衰弱死しています。
自らも神経症に悩まされ、いつか父のように発狂して果てるのではないか。
そんな、血と狂気に纏わる恐怖こそが、彼の創作活動におけるオリジンとされる訳です。
『お釜大戦』を、H.P.Lの創作した幻想怪奇世界をその舞台として定めるにあたり、主人公であるマルには創造主であるかの人物と、同じ根源的恐怖を背負って貰う事となりました。
しかし、何から何まで同じでは芸がありません。
H.P.Lの著作に徹底的に省かれている要素、それは『女性』だと私は考えます。
『ダンウィッチの怪』のラヴィニア・ウェイトリィを除き、彼の著作には名前のある女性が殆ど登場しないからです。
ラヴィニアに至っては、台詞の一つすらない始末。
その理由が何であるかはさておき、マルの根幹として異性への愛、そしてそれが失われる事を『狂気』のトリガーとして設定しました。
作品全体にわたっても、『愛』を一つのテーマとして据えている面もあります。
H.P.Lが描き出した世界とはまた違う形ではありますが、何も、狂気を一つの凝り固まった形へ当てはめてしまう必要は無いと考えます。
血と呪いに彩られた狂気、恐怖の末の狂気があれば、愛の、怒りの、喜びの末の狂気があってもいい。
もっといろんな狂気があってもいい、と私は考えるのです。
そういった魂胆から、『お釜大戦』の世界観は形作られています。
物語も折り返し、後半となるこれからについても、気を長くしてお付き合い頂ければと思います。
・・・という訳で、今週はここまで。
それではまた来週。




