∥007-E 父がウツになりまして・前
#前回のあらすじ:先輩のお宅訪問!
[マル視点]
―――あれは今から4年前、ぼくが中学2年生だった頃の事だ。
ある日、父の同僚から呼び出されたぼくは、カフェの4人掛けテーブルを前に半ば放心していた。
テーブルの上に所せましと並んでいるのは、色とりどりの甘味の数々。
ケーキ、プリンアラモード、チョコパフェ、etc。
ガラス容器の上には純白のクリームを土台に、お菓子とフルーツのパラダイスが広がっている。
それが、見える限りでテーブル一杯。
見ているだけで胸やけしそうな景色、その向こうでは鷲鼻の西洋人男性が、喜色満面のままそれらを次々と頬張っていた。
「ワオ!この店はアタリだね。甘すぎず、かといって薄味でもなく。クリームの質感がお見事、フルーツとの相性もすこぶるいいね。欲を言えば・・・もうちょっとボリュームが欲しいかな?ああ!君も見てないで、好きな物から食べるといいよ!」
「いえ、その。見てるだけで満腹なんで、遠慮しときます・・・」
「そうかい?なら全部、僕だけで食べちゃおうかな!ンン・・・美味い!!」
ひょいぱくひょいぱく。
長柄のスプーンを器用に動かし、並み居る甘味を次々と制覇していく。
数分もしないうちに、テーブルの上に置かれた容器は全て、空になってしまった。
化物でも見るような目つきで、ウェイトレスが空の器を片付けいった、その後。
手ぬぐいで口元を綺麗にし終えると、彼はようやく今日の本題を切り出した。
「―――お父ちゃんが、鬱だって?」
「そうなんだ」
彼の口から聞かされたのは、正に寝耳に水の事実だった。
ミッチェルは外資系企業で働く、父の部下の一人だ。
公私ともにお世話になっているとかで、うちの一家とはかれこれ10年以上、家族同士の付き合いを続けている。
営業マンらしく、その性格は軽快にして多弁。
口から先に産まれて来たと豪語するだけあって、寡黙な父とは対照的に常時、喋くり倒している印象が強い。
そんなミッチェルの言によると、うちのお父ちゃんは現在、メンタルを崩しているのだという。
「事が発覚したのは、先日実施されたメンタルチェックの時さ。うちはあれ、営業系だろう?客先とのトラブルや業績の不振なんかで、心の均衡を崩す奴が時々、出てきちゃうんだ。社としても、そこは頭を悩ませてるらしくてね。暫く前に定期的なチェックと、問題の見つかった社員に対するケアが義務化された訳なんだ。でも―――ヒデアキは、それを拒否している」
「な・・・なんで?」
「それが、わからないんだ」
なんで父が。
なんで鬱に。
二重の意味での「なんで?」を零したぼくに、コーカソイドの中年男性はゆっくりと首を振る。
欧米系らしく、彼のジェスチャーはいつも大げさでわかりやすい。
つまり、本当に心当たりが無いということだ。
彼にしては珍しく、懊悩を湛えた様子の琥珀色の瞳。
それが、テーブルの向こうからじっと、ぼくのことを見つめていた。
「・・・表面上は、普段通りさ。でも、間違いなく―――何かが違う。ヒデアキは、内に抱えるタイプだからね。これまでに何度も、悩みが無いか聞き出そうとしたのだけれど・・・。結局、だんまりのままだった。だから―――君を頼ることにしたんだ」
「ぼく!?でも、そんな。専門家か何かに任せとけば、それでいいんじゃ・・・?」
「精神科の受診はあくまで、任意だからね。僕がヒデアキの事情を知ったのも、社の勧告を再三無視しているって、相談が回ってきたのがきっかけだったんだ。当人にその意思が無い以上―――出来るのは現状、周囲からのアプローチしかない」
「そんな・・・」
テーブルの上で組まれた、歴史を感じさせるごつごつとした太い指。
俯き加減の彼は普段見せる、明るい表情はなりを潜めている。
ぼくをまっすぐ見つめる表情は、真剣そのものだ。
ここへきてようやく、ぼくは自分に掛けられている『圧』を理解した。
十年来の親友の危機、それに対し彼は方々手を尽くして、途方に暮れた。
それでも諦められず、藁をもすがるような思いでたどりついたのが、ぼくだったんだ。
その期待の大きさに、思わず身じろぎする。
だがこの期に及んで、ぼくの中には未だ、『そのうち何とかなるんじゃ?』なんて楽観論が居座っていた。
しかしそれは後に、粉々になるまで破壊される事になる。
「いや、でも。ぼくに一体、何が出来るってのさ・・・?」
「何でもいいんだ。家で見せる様子、ふとした時に零した言葉。そういった中で、カイトが気付いた事があれば僕に教えて欲しい。会社での様子からは、ヒデアキを悩ましているものの正体は判らなかった。となれば、残るは家庭の事情くらいしか糸口が思い当たらないんだ。―――頼むよ、この通りだ」
「わ、判った、判りましたから・・・!普段と違う事があれば連絡する、それでいい?」
「恩に着るよ、カイト!!」
テーブルの向こうから身を乗り出し、がっしと両手を掴まれる。
その掌の大きさにどきりとしているうち、ミッチェルは脇に避けていた手荷物をそそくさと集め始めていた。
小物をバッグの中へ詰め込むと、慌ただしく立ち上がった彼はもう一度、こちらへと視線を投げかける。
「忙しなくてすまないね。本当は客先から帰る途中だったから、これから急いで戻らないとなんだ。・・・さっきの件、連絡待ってるよ」
「うん。・・・ミッチおじさんも、お元気で。またね」
「オ・ルヴォアール!」
最後に軽くハグすると、おじさんは店の外へ出て行った。
賑やかな彼が居なくなると、急にあたりがしんと静まり返ったように感じてしまう。
店の支払いは、彼が先程済ませてくれている。
このままここで、時間を潰しても大丈夫な状況だ。
―――さて、これからどうしようか?
手持ちぶさたになったぼくは、ぽつりと呟きを漏らした。
「・・・帰ろ」
結局、ぼくは店を出てそのままぶらぶらと歩き始めた。
帰路に就く途中、先程の出来事を改めて思い返してみる。
なんだか、現実味の無い出来事だった。
父の変調、ミッチェルの頼み事、これからの事。
とりあえず流れで協力することになったが、一体ぼくに何が出来るのだろうか?
歩きながら首を捻ってみても、何も思い浮かばない。
4年後の今から振り返ってみると、この頃のぼくは、あんまり真剣に生きていなかったように思う。
ただ何となく暮らしていれば、大きくなって大人になれて、全てが何となく上手く行く。
そう、何の根拠も無く信じていたんだ。
要するに、子供だったという事なんだろう。
しかし、事態は既に水面下で進行していた。
待っていれば、訪れるはずの未来。
そんなものは全てまやかしだと、そう気付いたのはそれから、すぐの事だった―――
今回はここまで。




