∥001-D 閑話・丸家の日常
#前回のあらすじ:犯罪ダメ、ゼッタイ
[マル視点]
すっかり陽も落ち、薄暗くなった道を進む。
―――今日は色々なことがあった。
真っ白な空間、夏色少女、時間の止まった世界、【彼方よりのもの】。
だがこうして、見慣れた光景のある場所にまで帰ってくることができた。
小ぢんまりとした住宅街の一角にある、小さなアパート。
側面に据え付けられた金属製の階段をカンカンカン、と乾いた音を立てて上がると、コンクリート壁に並ぶくすんだアズキ色の金属扉が見えてくる。
そのままてくてくと廊下を進む。
途中、様々な音がBGMとなってぼくの耳を楽しませる。
通り過ぎる電気メーターから聞こえるジジジ、という小さな音、扉越しに聞こえるTVのコマーシャル、振動となり伝わる住人の足音。
しばし進むと、『209』とナンバープレートの刻まれた金属扉が目に入り―――ぼくは思わず口元をほころばせた。
ポケットから鈍く光る鍵を取り出し、がちゃりと扉を開くと―――努めて元気よく声を上げた。
「ただいまー!」
ばたん、がちゃり、とてとて。
足音と脱ぎ捨てたスニーカーを玄関へ残し、板張りの廊下を進む。
若干のカビ臭さと、10年以上慣れ親しんだ生活臭を胸いっぱいに吸い込んだ。
改めて、家に帰ってきたのだ、という実感がじんわりとこみ上げてくる。
そうして直進するうち、小じんまりとした和室へ通りがかり、ぼくは少しUターンしてからするりとそこへ入り込んだ。
―――静かだ。
清潔に掃除されたこの一室。
普段、ぼくらは必要が無ければここへあまり近づくことがない。
・・・にも関わらず、丁寧に掃除され隅々にまで手入れが行き届いている。
その理由は、部屋の一角に安置された小さな仏壇にあった。
観音開きの中央にちょこんと鎮座する、小さな位牌。
その前に佇む写真立ての中で、一枚の写真が静かに微笑んでいた。
ぼくはその前へしゃがみ込んで手を合わせ、もう一度小さくつぶやく。
「・・・ただいま、母ちゃん」
答えは無い。
写真の中、40前くらいの女性が無言のまま、息子の言葉にじっと耳を傾けていた。
そのまましばし瞑目する。
するうちに、玄関からかたん、とかすかに物音がした。
ぱちりと眼を開くと、ぼくはよっこいせと立ち上がり、再びのしのしと廊下を戻り始める。
「おかえり父ちゃん!今日は早かったんだ?」
「・・・ああ」
物音の主は誰か?
いまさら確かめるまでもない。
それにこの時間、ここへ訪れる人など一人しか居ないのであった。
若干くたびれたYシャツに、ベージュのスラックス。
そんないでたちの初老の男性が、玄関にぬぼっと突っ立っていた。
ぼくに似ず寡黙な父はむっつりと頷くと、息子の姿に目を細める。
「夕飯は?食べてきた?お風呂はどーする?」
「・・・頼む」
「おっけ」
やや低めの声で二言三言。
いつも通りのやりとりを交わすと、ぼくはてきぱきと革鞄やチェック柄のネクタイといった品を回収し始めた。
そうして荷物を抱えたぼくを追うように、手ぶらになった父は廊下を進む。
衣類は洗濯機と洋服タンス、荷物は書斎の戸棚へ。
勝手知ったると言った手際でぽいぽいと回収品を片付け終わり、そのまま返す刀で夕食の支度へと向かう。
慌ただしく床板を踏み鳴らす音が響く中、仕事を終えたばかりの父は洗面台でうがいと手洗いを済ませていた。
ここ数年ですっかり定着した、丸家における夕暮れ時の風景であった。
■ ◇ ◆ □
―――先程の場面より数十分後。
食卓の上には、できたての夕餉が湯気を立てていた。
朝食の残りに火を入れ直した味噌汁と、茶碗に盛られたご飯。
おかずはがんもどきとひじき、人参、コンニャクに竹の子と具だくさんの煮物。
脇の小鉢には昆布の佃煮、味付け海苔が添えられていた。
男所帯ゆえの大鍋料理で味付けもおおざっぱ。
それでも出来合よりずっとマシだし、栄養バランスもきっと悪くないだろう――ーと、ぼくは自画自賛している。
これが曜日により、ライスカレー、ハヤシライス等に化けるのが、我が家における定番メニューであった。
とある事情により、基本的にうちの台所はぼくが一切を任されている。
見よう見まねで始めた素人料理だが、二人とも美食のケがある訳でもなく、普段からとりたてて味について文句が出る事は無い。
―――まあ尤も、寡黙な父は食事中、滅多に喋る事自体が無いのだが。
それに対し、息子であるぼくは咀嚼し嚥下する合間もよく喋る、とにかく喋る。
近頃の天気、学校の行事、新聞の三面記事から同級生から仕入れた与太話に至るまで。
食卓にご飯粒が飛ばない絶妙なラインを守ったまま喋る、食べる、喋る。
そこへ時折低く小さく、「・・・ああ」「・・・そうか」等、ぽつりぽつりと相槌が入る。
賑やかな食卓を好む人からすれば、お通夜か葬式かと思われるような塩梅だが、あいにくうちの父は元来こんな感じだ。
外資系企業に勤める父であるが、いつだったか職場でもこんな調子なのかと聞いてみたところによると、そうでも無いらしい。
同僚の談によればむしろ、多弁な方だとのこと。
であるからにして、恐らく仕事時と平時のON・OFFをきっちり使い分けるのが、父の社会人としてのスタイルなのだろう。
これもまた、我が家における見慣れた食事風景なのであった。
「―――それで、帰りのバスであーちゃんと一緒になったんだけどさ」
「・・・羽生さんとこの子か」
「そそ。あの子ってば乗り込むやいなや、最後尾でイビキかいてたんだよね。まったく、乙女の恥じらいも何もあったもんじゃ―――」
そうこうするうちに、何気なく下校時の出来事へ話題が移る。
そそっかしい後輩の名が出た時、珍しく父から反応が帰ってきた。
何度かうちに遊びに来たことがあるせいで、彼女は父とも交流がある。
―――そんな彼女が、もしかしたらあの時、あのバスから帰ることが出来なくなっていたかもしれない。
そんな事実に、背筋にひやりと冷たいものが這い上がってきた。
今でも信じられないが、あの場で遭遇した奇妙な出来事の数々を、ぼくの眼はしかと目撃していた。
白い地平線、サマードレス姿の少女、時の凍りついた空を我が物顔に飛び交う、UFOの群れ―――
「・・・海人?」
はっ、と。
意識が思索の海から引き戻される。
顔を上げると目の前には、茶碗を手にいぶかしげにこちらを見つめる父の顔があった。
「言ってなかったな、と思って」
「・・・何をだ?」
―――ぜんぶ話してしまおうか。
そんな考えがふっと浮かぶ。
信じようが信じまいが、あの時見た『真実』は、一人で抱えるには大きすぎるものだ。
それに第一、話したところで到底信じられるような内容ではない。
全部洗いざらいぶち撒けてしまえば、うじうじと一人苛まされる必要も無いだろう―――
「・・・ただいま、父ちゃん」
「・・・ああ、お帰り」
色々考えた末、ぼくは結局言わないことにした。
もうちょっとだけ、この秘密は胸の奥に仕舞っておくのが良いと思う。
いつの日か、『秘密』は人知れず日常を浸食し、ぼくの身近な人に危険を及ぼすかもしれない。
ならば――ー頑張って【彼方よりのもの】をやっつければ、それを遠ざけることも出来る筈だ。
なあに、あの後輩も居るし、しばらくは何とかなるだろう。
そう結論づけると、夕餉を再開する。
ぼくはにっこりと満面の笑顔で飯粒を器用にすくい上げると、それを口いっぱいに頬張るのであった―――
※2023/1/22 文章改定




