∥006-09 叶くんのお姉さん
#前回のあらすじ:唐突なBSS!あるいはNTR!しかしてその真相は・・・?
[マル視点]
「・・・空が赤い、なぁ」
『なう~・・・?』
ぼうっと窓から差し込む光の色を見つめながら、そんな事を呟いた。
誰に聞かせるでもないその言葉に、鳴き声で相槌を打ってくれた愛猫をひと撫で。
掌の下で暖かい毛玉がもぞり、とくすぐったそうに動いた。
先程の場面から、数刻。
外はすっかり陽が傾き、既に夕闇がすぐそこにまで忍び寄っている。
ぼくが現在居るのは、寮の自室だ。
市場から逃げるように立ち去り、ここへ閉じこもって以降。
今の今までずっと、こうしていたのだ。
時間と場所を空けたお陰か、ぼくの心中は市場に居た時程には混乱していない。
こうしてベッドの上に腰かけたまま、ずーっと猫を撫でているうちに、最低だった気分も幾分か持ち直してきたのだった。
(アニマルセラピー、なんて言葉もあるくらいだし。おりんちゃんのお陰かも・・・ね?)
心の中でそう呟くと、感謝を込めて愛くるしい小動物を指先でくすぐる。
くすぐったそうに身じろぎすると、彼女はそのまますやすやと寝息を立て始めた。
和毛に包まれたお腹が、ゆっくりと上下する様子を見つめていると、玄関の方から物音と共に、少しハスキーな声が聞こえてくる。
「・・・ただいま」
あの声は、叶くんのお姉さん―――明さんのものだろう。
何だか、彼女の声を聴くのも随分、久しぶりな気がする。
ここ数日はぼく自身忙しかったのもあり、寮の面々とロクに顔を合わせれていない日々が続いているのだ。
そんな事を考えていると、こつこつという足音が玄関から、管理人室の方角へゆっくりと遠ざかって行った。
普段、明さんと叶くんの姉弟はあの部屋で暮らしている。
ぼくが叶くんの所に遊びに行く折、彼女の姿を見ると大抵、部屋の中で何か書き物をしているという印象だ。
そういう時はそのまま、部屋で叶くんと話をしたり、二人で(場合によっては他の寮の住人も連れて)任務に出かけたりする場合が多い。
そういった時も、彼女の方からそこに干渉してきた事があまり無かった。
時折、視線は感じるのだが、用事がない時は喋ること自体が本当に、ほとんど無いのだ。
物言わぬ観葉植物のように、じっと部屋の中に佇んでいる少女。
―――かといって、それが不快に感じるという事もあまり無い。
多分、他者との距離感の取り方が上手いのだろう。
存在を意識するギリギリのポジション、それを彼女は常にキープしているように思う。
手が触れそうな所にいるようで、どこか遠い場所に居る存在。
ぼくにとって会取明とは、そういう印象の女性だった。
「・・・ちょっといいか?」
「うぇっ!?あ、はい!」
―――なんて事をつらつらと考えていたら、だしぬけに扉の外から声を掛けられ、ぼくはベッドの上から数センチ飛び上がった。
「・・・ど、どうぞ」
「邪魔するぞ」
がちゃり、とドアノブが回り、少しだけ開いたドアから顔を出したのは、先程管理人室へ行った筈の明さんだった。
どうやら、もう一度こちらへ戻ってきていたらしい。
内心の動揺を悟られないよう声を抑えつつ、ぼくは戸口をくぐる彼女を眼で追うのだった。
「・・・あ、叶くんのお姉さん。えーっと、飾り気のない部屋ですが、いらっしゃい」
「―――ああ」
反射的に入室を促したぼくだったが、入口のあたりで佇む彼女の姿にはた、と気付くと、あたふたと立ち上がる。
今更ながらに客用の椅子を引っ張り出し始めたぼくを、彼女はじっと見つめるとぽつりとそう呟いた。
ぎし、と微かに音を立てて、木製の椅子に腰かける。
上体の動きにつられ、長く艶やかな亜麻色の髪がさらりと流れた。
何もせず腰かけているだけだが、すらりと背が高く、それでいてメリハリの利いた体つきの彼女はただそれだけで絵になる。
「―――あ、お茶でも淹れます?」
「・・・いや。そこまで掛かる用事じゃない」
何となく所在無くなったぼくは、もう一度腰を上げかけたが、すっぱりと断られてしまった。
そこで互いに言葉が途切れる。
中腰の体勢から普段使いの椅子に腰かけ直すと、ぼくは上目遣いで(自然とそうなる)彼女の様子をちらりと盗み見た。
珍しく他人の生活領域に踏み込んできた彼女だが、そのいでたちは普段、寮で見るものと同じ、紫紺のジャージ上下だ。
だぼっ、とした芋臭い上下で身を包み、極めつけには、大ぶりな眼鏡によって顔の輪郭が半ば隠れてしまっている。
常々思っているのだが―――この恰好、男避けの為じゃあないだろうか?
何しろ、彼女の弟はあの絶世の美少年。
叶くんの双子の姉ともなれば、その素顔を隠そうとするのも納得だ。
何しろ、ぼくは生まれてこの方、男である事を差っ引いても叶くんを超える美人に出会った事が無い。
正確に言えばもう一人、心当たりがあるのだが―――今は、それは置いておくとして。
記憶に新しい北海の大決戦において、叶くんの名が大々的に知れ渡った要因の一つに、その美貌があるだろう。
その姉ともなれば、世の男どもが血眼になったとしても、仕方のない事だと言える。
・・・なんて胡乱な事を考えつつ、ぼくは来客との会話を開始する。
訪問の目的を聞く段にあたり、先に口火を切ったのは彼女の方だった。
「急に押しかけてすまんな。話というのは『先生』―――楓さんの事だ」
「あ、なるほど。・・・それじゃえーっと、大方の話はもう、知ってたりします?」
「まあ、大体はな」
どうやら、楓さんから依頼されたアイディア出しの件について、彼女も既に聞き及んでいたらしい。
そもそも、諸々のきっかけとなったのが、彼女から紹介された『宝貝』なのだ。
あの時の一幕を知る者として、言い出しっぺ当人としても、事の推移が気になったという所だろうか。
真意を確かめるようにちらり、と視線を向けると、亜麻色の髪の少女はそれを知ってか、にやり、と口元を釣り上げた。
「どうやらちょっと目を離してたうちに、面白い方向に話が転がったみたいだな?」
「・・・ええ、まあ、そんなカンジです。何時の間にか話が大きくなっちゃって、こちらとしては戦々恐々ですよ」
「はっはっは。まあ、無料より高いモノは無いという、分かりやすい話だな。私としてはひと稼ぎする機会を逃して残念、という所か」
そう言うと、ちっとも残念そうに見えない表情でからりと笑う。
そんな彼女に苦笑を返すと、二人してひとしきり笑った後に、ぽつり、と呟きを漏らした。
「・・・どうやら、思ったより平気そうで安心したよ」
「えっ?」
「聞いてた話だと、もっと塞ぎこんでそうだったからな。うちの愚弟が、『マルさんが死にそうな表情で帰ってきたんです!』だなんて、帰って早々に騒いでたんだ。―――まあ、どうやら取り越し苦労だったようだが」
・・・ぼくは何時の間にか、気分が塞ぎこんでいた間の様子を目撃されていたらしい。
記憶を振り返ってみれば、寮に戻った時に何事かを話しかけられた気が、しないでもない。
どうやら、アイディア出しの話題はきっかけに過ぎず、本題はぼくの様子を確かめに来たようだ。
しまった、と思う反面、こういう場面で彼女が自ら動くという珍しい状況に、驚きつつもなんだか申し訳なくなってしまった。
「いやぁ・・・。方々に迷惑掛けちゃったみたいで、なんだか申し訳ない。叶くんのお姉さんも、心配要らない、って彼には伝えといて貰えます?」
「―――あのな。それ、何時まで続ける気だ?」
「・・・えっ?」
後ろ頭をかきつつそう言うと、返ってきたのは思いがけず不満そうな声だった。
思わず顔を上げると、眉根を寄せていかにも不機嫌です、といった表情の彼女が、こちらに向かって身を乗り出していた。
モデル並みの長身の彼女がそうすると、余計に圧を感じてぼくは思わず、椅子の上で数cm後ずさってしまった。
「私は何時まで、『叶くんのお姉さん』なんだ?・・・距離を感じるんだが。もう何度も呼び捨てで良いと、そう言ってるだろうに」
「あ、はい。・・・ごめんなさい」
「よろしい」
そこまで言い切ると、腕組みしたままどかりと客用椅子の上に腰を下ろす。
恐る恐る視線を投げると、それから逃げるようにふい、とそっぽを向いてしまった。
・・・不貞腐れてる?
(えーと、この状況は一体?)
束の間、部屋の中を沈黙が支配する。
彼女の発言を振り返るに、どうやらぼくは彼女に対する、常日頃からの他人行儀な態度を窘められている、らしい。
自分としては完全に無意識なのだが、彼女としてはそれがかえってお気に召さなかったようだ。
・・・と、言ってもねえ。
普段から何事もソツなくこなす彼女の事を、ぼくは自然と内心においても『さん』付けで呼んでしまっているのだ。
確かに、叶くんのお姉さん呼びは他人行儀で距離感があったかもだけれど。
いきなり呼び捨ては、流石にハードルが高くないだろうか?
とは言え、ここはぼくが折れておく場面だろう。
恐る恐る、眼前の少女へ呼びかける。
「あ、明・・・」
「(無言で頷く)」
「・・・さん」
「お前な」
「ごめんなさい!」
意を決した呼び捨てトライも、ついつい敬称が付いてしまい頓挫してしまった。
眉をいっそう八の字にして睨む彼女に、ぺこぺこと頭を下げるぼく。
もはや完全にクセになっている呼び方に、彼女は小さく舌打ちを零すと、はあ、と嘆息するのだった。
「はぁ。・・・いきなりあーちゃんみたく、渾名で呼べ、とまでは言わんが。もうちょっとこう、何とかならんのか?」
「善処します・・・」
心の片隅に、ちくり、とたった今飛び出た名前が突き刺さる。
我が後輩の事は、先程までとは言わないまでも、未だぼくの中では整理し切れていないようだ。
そんなぼくに掛けられた次の言葉は、思いがけず優しいものだった。
「―――やっぱりお前、何かあっただろう。話してみろ、その方が楽になる」
「あ・・・」
ぼくの内心を察したのか、明さんはそう言うとじっとこちらを覗き込んでくる。
思いがけない優しさにぼくは言葉を失うと、呆然と彼女の顔を見つめ返した。
分厚いガラスの奥から、グレーの大きな瞳が物言わず見つめている。
不思議とその視線に突き動かされるように、ぼくは市場であった一幕について、ぽつぽつと語り始めるのだった。
・ ◇ □ ◆ ・
「―――そうか。あいつの事だから、何か事情はあるとは思うが」
「ぼくも、そう思います。でも、どうすればいいかわからなくって・・・」
「ふむ」
市場で目にした光景。
中年男性と連れ立って行動していた後輩。
ここ数日の彼女の様子。
それらを訥々と語り終えると、明さんは顎に手を当ててじっと考え込んだ。
―――が、すぐに顔を上げるとぽつりとこう零す。
「・・・悩む必要、無くないか?」
「と、言いますと?」
「本人に聞けば、それで済む話だろう。あいつの人柄からして、ああだこうだと悩むよりはハッキリ聞いてしまったほうが、解決も早いに決まってる」
「・・・確かに」
小首を傾げ腕組みしたまま彼女が零した言葉に、思わず頷くぼく。
言われるまでもなく、ぼくの後輩は素直を絵に描いたようなキャラクターだ。
事実関係をハッキリさせるには、本人に聞くのが何よりもの近道なのだ。
言われてみれば、当たり前の事実を改めて突き付けられ、ぼくはこくりと頷くのだった。
「・・・でも、それでもし年の差カップル誕生!だなんて事になったら―――?」
「そこまはあ、諦めて祝福する他無いんじゃないか?だが、まあ・・・そんな事にはならんだろ。私の目から見ても、あの子の視線が向いている先は明らかに、お前一人しか居ないよ」
「あ、いえ。それは違うと言いますか、そのう」
「・・・?」
そして話題がぼくと後輩の関係性に至ったところで、ぼくは口から出かけた反論を呑み込んでしまった。
羽生梓と、ぼくこと丸海人が付き合っているだの、いないだの。
そういう噂はうちの学校でも定期的に、何度も産まれては消えてを繰り返しているのだ。
だがしかし、そんな事実は無い、無いのだ。
そもそもの発端は、ぼくと後輩のとある約束から始まる。
始まるのだが、果たしてそれをどう説明したものか。
ごにょごにょと言葉尻を濁しつつ、ちらりと目の前の少女の顔を伺う。
―――言ってしまおうか?
ふと、そんな衝動にかられ、ぼくはぴたりと動きを止める。
この場に当人である梓が居ない事が気になるが、いい機会だし、ここで纏めて吐き出してしまいたい。
その方が精神衛生上良いし。
あまり触れ回って欲しくない過去の話ではあるが、口の堅い明さんならそれも大丈夫だろう。
(よし、言ってしまおう)
そうと決めると、ぼくは内心の動悸を抑え込みつつ、ゆっくりと語り始めた。
ぼくと、あーちゃんと、もう一人。
もう手が届かない処に行ってしまった、彼女の話を―――
今週はここまで。




