∥005-H 理想郷の少女・下
#前回のあらすじ:ロリに浸食される生活!
[明視点]
「グスッ。お・・・、おねえちゃ―――」
「シッ、静かに。姉ちゃんのいう事、聞ける?」
「んぅ・・・・」
「いい子ね」
真っ暗闇の中、微かにぐずるような少年の声が上がる。
それを制すように口の上に指を当て、私は息を潜めたまま小さく囁いた。
弟(が居るはずの方)をじっと見つめること、数秒。
無言のまま頷く感触を指先から感じ取ると、私はふっと微笑みを浮かべた。
ミルクのようなにおいのする暖かな身体を、そっと抱きしめる。
―――闇の外からは、幾つもの音が入り混じって聞こえていた。
複数の靴音。
荒い呼吸。
無遠慮に戸棚を暴き、舌打ちする音。
何かを破壊する音。
荒々しく畳を踏み鳴らす音。
耳障りな怒声。
何処へ行った。
まだ見つからないのか。
おれをあまりイライラさせるな。
申し訳ございません。
すぐに探させます。
ああ、ああ、どうかお許しください。
―――複数の殴打音、悲鳴。
誰かが倒れ、その振動で闇に包まれた僅かな空間へ、ぱらぱらと埃が降り注ぐ。
弟がそれを吸い込まぬよう強く抱きしめると、私はじっと耳をそば立てた。
今の時間は、昼前。
駐在は今朝、玄関から見送ったからここには居ない。
『奴ら』はそれを知っていて、この場所へ探し物にやってきた。
探し物とは、いったい何?
―――愚問だ、私達のことに決まっている。
そう。
私は、タイムリミットを自覚し、今までずっと準備を進めてきた。
―――あれは今から、およそ10分前。
微かな鈴の音を耳にした私は、その場で無言のまま立ち上がった。
そして家の中を歩き回ると、私と弟の私物を中心に手早く荷物を拾い集め、押し入れの奥へと放り込む。
この数日、駐在の家の周りへ出られるようになってからずっと、私は人目を避けつつ家の立地、間取りを細部に至るまで調べ上げ、隠れ場所と逃走経路を見つけ出していた。
それを元に幾度となくシミュレーションを繰り返し、優先すべきものから順位付けして頭に叩き込んでゆく。
全ては今日、この日の為。
侵入者の接近を知らせる簡易的な鳴子も、その折ついでに仕掛けたものだ。
計画が決まってからというもの、私の行動は常に『それ』を意識したものとなった。
掃除と整理をこまめに行い、生活痕を極力残さないようにした。
―――逃げ隠れる際、それを容易に消し去れるようにだ。
尤も、二人分の痕跡を跡形も無く消すことは難しい――ーと言うより不可能だ。
だがしかし、要は足取りを掴めなくできればいいのだ。
あえて証拠となるものを残し、その上で『外へ逃げた』とミスリードさせる。
誤った情報で敵を誘導し、欺くのだ。
そんな目論見が仮に成功したとしても、所詮は子供だまし。
精々が時間稼ぎにしかならないだろう。
しかし―――そうして稼いだ時間が私達の命綱となる。
そんな涙ぐましい努力は、ある程度成功に終わったらしい。
侵入者達は先程からひっきりなしに、家の内と外を行き来している。
足音からそれを察すると、私は闇の中こくりと一つ頷いた。
今の所、想定通りに事態は推移している。
後は―――結果を待つだけだろう。
暗闇の中で二人、私と弟はじっと固く抱き合う。
一秒、二秒。
時間の感覚が曖昧な漆黒の中で、ゆっくりと数を数えその『時』を待つ。
―――やがて、千と五百を数えた頃。
急に家の中が慌ただしくなった。
家の外から、男同士が言い争うような声が聞こえてくる。
我が物顔で居間を占拠していた『誰か』は小さく舌打ちを残し、そして―――
侵入者たちを引き連れ、駐在の家から立ち去った。
そこから更に、三百。
なおも私は頭の中で数え続ける。
そして数え終え、静まり返った家の中で、私はゆっくりと顔を上げる。
闇の一角へとおもむろに手を伸ばし―――その突き当りをゆっくりと押し開いた。
闇の中へ、外から一筋の光が差し込む。
始めはか細かったそれは二度、三度と力を込める度に光量を増し、更に押し続けると―――隙間から、半ば引きずり出され横たわる衣装ケースが垣間見えた。
押し入れの奥、その突き当りにカモフラージュした木製の板。
ここ数日の仕込みで据え付けたそれを、私は渾身の力を込めて脇へと退ける。
上がった息を整えると、私は変わり果てた駐在の家へ改めて足を踏み入れた。
―――扉と言う扉は開け放たれ、一部は壁に激突し蝶番が外れ、傾いている。
畳の上は黒々と、無数の靴跡によって埋め尽くされている。
箪笥の裏、収納、天袋に至るまで。
隠れ場所となりそうな所は全てが暴かれ、その中身が足元へと散乱している。
その中心、捨てられた子供のように嗚咽を漏らす―――男。
私は駐在へ歩み寄ると、涙と鼻水に塗れた顔を正面から優しく抱きしめた。
涙が染み込み、小さな胸に冷たい感触が広がる。
嗚咽が更に強くなり、身体の後ろに回された手が、ぎゅっと私のシャツの裾を握りしめた。
慈母のようなふるまいを見せる少女の表情は―――しかし、能面のように冷たく、感情の色というものを欠いていた。
(―――潮時か)
私は、賭けに勝った。
だが、この勝利も一時的なものに過ぎない。
本家の連中は方々を探し回り、また遠くない未来にここへと戻ってくるだろう。
つまるところ、私がしたのは時間稼ぎに過ぎない。
ならば―――どうするか。
決まっている。
今、事を起こすのだ。
稼いだ時間を元手に、乾坤一擲の一手を打つ。
その為に、どうすれば良いのか?
それもまた既に、決まっている。
駐在の頭を撫で、優しく言葉を掛け続けながら。
少女の瞳は冷たく、氷のように醒めた光を宿していた―――
・ ◇ □ ◆ ・
「いってらっしゃい。気を付けて―――!」
名残惜しそうに、幾度も振り返りながら歩く駐在。
それを見送る私は懸命に手を振り、その姿はさながら戦地へ夫を送り出す幼な妻のようだ。
夕刻、暮れなずむ紅い太陽の光。
家へと這入り込んでくるそれを、私は罅の入った玄関扉でぴしゃりと遮った。
―――あの後。
私は駐在を説得し、この事態を外部へ報せるべく、家の外へと送り出した。
彼の家には電話線が引かれていたが、乱暴な家探しの途中切断されてしまい、機能しなくなっている。
携帯電話の電波も届かぬこの僻地では、残された通信手段は郵便か、電話のある所へ移動する位しか無い。
仮にも警察職員の家を荒らすという凶行に、このまま黙っている訳にはいかない。
『外』の力で事態へ介入させ、彼等を抑え込もう。
―――と、いうのが駐在を説き伏せた弁舌の内容であった。
無論、ただの名目だ。
選民思想に凝り固まった村の老人達、その支配下にある有力者達に、『外』の介入なぞ蚊が刺した程にも堪えぬだろう。
それに―――理由は不明だが、村の外の勢力はこの地への接触を控えているように感じる。
21世紀にもなって、携帯電話網の一つも引かれていないのがその証拠だ。
私は玄関を後にすると、最後の準備を開始した。
これから始めるのは、賭けと呼ぶことすらおこがましい、無謀そのものだ。
本音を言えば、このような事態に陥る前にこんな村は逃げ出したかった。
しかし、事ここに至って甘い事も言っていられない。
私は―――この身自体を賭け代に、弟を村の外へ送る。
そして。
諸々の準備を終え、私は調理台の前に立つ。
目の前には、油を並々と満たされた鍋が一つ。
ゆらめく陽炎を纏わせて、ガスコンロの上で火にかけられていた。
揺れる青い炎をじっと見つめる、私の背後。
そこには、ただならぬ空気を察したのか、怯えるように視線をさ迷わせる弟の姿があった。
ちらりとそちらへ視線を送ると、私は再び調理台に向き直る。
そして火種(ティッシュを捩って先端に油を含ませたもの)を手に取った。
「ぉ、おねぇちゃん・・・?やめようよ、それ。危ないよぉ・・・」
「・・・・・・」
私は無言のまま、コンロから種火に火を移す。
そして―――鍋の中へと放り込んだ。
瞬時に、薄暗い室内が赤く染まる。
天井近くにまで、真っ赤な火柱が吹きあがった。
背後で小さく上がる悲鳴。
それをよそに、私はシンクに浸してあった毛布を水から上げ、振り返った。
今、視界の中心には、弟が。
恐怖と不安に圧し潰されそうになっている、7歳の少年の姿があった。
「いい?これから姉ちゃんがいう事をよく聞きなさい」
「ぐすっ」
「・・・私がいいと言うまで、この場を動かないこと。ここへ最初にやって来た大人について行くこと。私に何があっても、言いつけを破らないこと」
「・・・ぐすっ」
水を吸って重くなった毛布を肩から被せつつ、私は屈んで視線を合わせながら語り掛ける。
毛布の重量によろけ、赤い瞳にいっぱいの涙を溜めながら、小さな少年は必死にその言葉に耳を傾けていた。
―――周囲に煙が立ち込める。
何かが焦げるような臭いが強くなった。
頭上で灯る火災報知器の色が変わり、周囲に警報が鳴り響く。
「ぉ、おねえちゃんは、どうするの・・・?」
「私の事は気にしないで。・・・それよりも。今の言いつけ、ちゃんと守れる?」
「・・・ぅん」
「よかった」
煙の色が黒く変わる、室内の温度が上がってきた。
不安で塗りつぶされそうになる感情を気力でねじ伏せて、私は明るく微笑む。
「じゃあ、指きりげんまんね。ゆーびきーりーげーんまーん」
「うそ、ついたらはりせんぼん、のーます・・・」
「はい。指切った」
絡ませた細い小指を離す。
私は弟の頭に濡れた毛布を被せると、もう一度、精一杯の笑顔を浮かべた。
少年の視界の中。
姉の背後でひときわ強く、赤い炎が吹き上がる。
ひっ、と短く悲鳴を上げ、床の上にへたり込む少年。
それに倣うようにして、弟の隣に私は座る。
頭上を見上げると、台所は既にもうもうと立ち上る黒煙が充満し、天井にまで火の手が回っていた。
喉に痛みを感じ、口元を服の裾で覆う。
―――程無くして、延焼は家全体にまで及ぶだろう。
小火では意味がない。
できるだけ大きく、目立つように火事を起こさなくてはならない。
この家から燃え広がりそうな位置に、他の家屋が無いことは既に調査済みだった。
死ぬのなら―――私一人だ。
弟だけは、死んでも守る。
そして、目的の人物をこの家におびき寄せる。
「おねぇちゃん、寒い・・・」
「あっ・・・。ごめんね、これでいい?」
「ぅん。―――おねえちゃん、あったかい」
弱々しく指先を握る手が小刻みに震えていることに気付き、私は小さな身体を毛布の上から抱きしめる。
衣服越しに触れ合うお腹がゆっくりと熱を伝え、間近から見える弟の顔色に幾分、赤みが差してきた。
心の中で、そっと安堵の息をつく。
そのまま、抱きしめ合ったまま時を待った
・ ◆ □ ◇ ・
やがて―――
熱気と、吸い込み続けた煙のせいで意識が朦朧とし始めた頃。
それはやってきた。
「―――大丈夫か!要救助者は・・・子供が、二人!?」
「ぁ・・・。遅かった、ですね」
オレンジの防火服が、燃え盛る扉を蹴破り踏み込んでくる。
ヘルメットの下の顔が、あの夜、真っ赤なライトバンと共に現れた人物と同じ事を認め、少女はそっと微笑んだ。
―――次の賭けも、私の勝ちだ。
少女が小さな勝利に笑顔を浮かべる一方。
消防団の男は密かに困惑していた。
村の駐在の家から出火したと報せを受け、踏み込んだその先には、見知らぬ幼い子供達が居た。
件の駐在に妻子はおらず、家族も数年前に他界したきりの筈だ。
つまり、少女達の存在は男を含めた、誰も認識していない。
この家の主を除いては。
そこに犯罪の臭いを感じ取り、男は僅かに顔をしかめる。
異端者として村から半ば隔離され、行き交う噂の大半に触れずにいた彼は気付けずにいた。
それが、村の一部住人が血眼になって探す、村長の隠し子と噂される少女であると。
一方。
男が当惑する最中、少女は既に行動を開始していた。
それに気付く前に、見上げるような男の懐へするりと少女は忍び込む。
至近距離から見上げられ、ぎょっと目を見張る男。
交わる視線の先を見つめ、亜麻色の髪の少女は語り掛ける。
「―――村の外へ、連れて行ってくれませんか?」
「何、だと・・・!?」
「ここ数年、病気や怪我で村の外の病院へ運び込まれて、そのまま戻らず『外』で暮らすようになった人が居ると、聞きました。何人も。・・・あなたが、そうなんですね?」
「・・・!!」
実の所、『彼』の噂はあの夜以前既に耳にしていたのだ。
村を出る方法を密かに調べる中。
幾度も耳にしたのは『それ』を手引きするという、消防団員の男について。
この地と外界のか細い繋がり、それに関する噂の内容。
そこから導き出した―――『外へ出る方法』。
それが今、私が語って見せたものだ。
わざわざ口に出して聞かせたのは、反応を見る為だ。
少女は生来の才能か、これまでの経験からか、他者の細かな反応から感情と思考を読み取り、それに応じ演じる事に突出した能力を持っていた。
先程の男の表情から、おおむねそれが事実であることを確信する。
少女は花がほころぶような笑顔を浮かべ、聞くものを自然と振り向かせる声色を使い、話し続けた。
「傷病者を村の外へ連れ出し、そこで暮らす為の伝手を用意する。あなたはそうやって何人も、この地獄のような場所から救い出してきた、違いますか?」
「・・・・・・」
少女の断定に、男は無言でもって応じる。
―――あと一手だ。
弟が、この世に残されたただ一つの絆が健やかに過ごす為、私はここで全てを使い切る。
深々と頭を下げ、次に見せた少女の表情から、男は吸い寄せられたように視線を外せなかった。
「お願いします。莫迦な事を仕出かした私の事は、置いて行って構いません。ですから―――どうか、この子だけでも。弟を此処から救い出してください。お願い、します―――!」
「・・・ッ!?」
壮絶な美しさであった。
既に四方は火に囲まれ、灼熱の大気と煙が充満している。
その中で、艶然と微笑み、足元に縋りつく少女。
慣れぬ環境、張り詰め続ける神経、それらは幼い身体を着実に削り取り、既にいつ倒れてもおかしくない状態へ追い込んでいた。
しかし―――倒れない。
極限状態の最中、全身全霊を掛け、目の前の人物の望む姿を演じる。
視線を外す事すら許さない、それは今やまさに、魔性の魅力を発揮していた。
その一言が、視線が。
男の全身に絡みつき、甘く痺れる毒のように体内へと入り込んでゆく。
―――口が勝手に、肯定の一言を紡ごうとする。
その時。
「!?」
「かな・・・っ!!」
天井の一部が崩れ―――床にへたり込んだ少年の上へと降り注いだ。
最初に気付いたのは、少女だった。
一瞬早く、頭上から聞こえた異音を、極限まで研ぎ澄まされた意識は感じ取っていた。
男が反応するよりも早く、熱と疲労で重くなった手足を動かし、小さな身体へと覆いかぶさる。
『説得』は中途半端な形で終わったが、今はそれよりも優先すべき事がある。
弟を、守らなければ。
両親を失い、周囲は悪意だらけ。
親なしとなった身は何処へ行こうと煙たがられ、そのくせ親族を名乗るヒヒ爺はこの身体を付け狙っている。
多少丈夫だろうとも、頭が早く回ろうと、敵だらけのこの世界では大して役に立たない。
所詮は、未だ7歳の子供なのだ。
そんな中、唯一の希望は今や最後の血縁である、白髪の少年であった。
弟は、少女にとって自分以上に大切な存在。
この絆を失えば―――生きる意味を亡くしてしまう。
だから、どうか。
―――この子だけは、助けてください。
瓦礫が落ちきるより一瞬早く、その下へと滑り込む。
小さな身体を固く抱きしめ、両目をぎゅっと瞑り、少女は激突の瞬間を待つ。
しかし―――それはいつまで待っても訪れなかった。
「・・・?」
「大、丈夫・・・か?」
何かおおきなものが、私の身体を包み込んでいた。
それが、消防団員の逞しい肉体であることを、おそるおそる目を開いた少女は知った。
思わず息を飲む。
視界の中、黒く煤に塗れた厳めしい顔が、意外に愛嬌のある笑顔を浮かべた。
目を瞬かせ、脱力した私がこくんと頷く。
それを確認すると、男は背中を圧迫していた天井板の燃えさしを脇へ降ろした。
どすん、と重い音を立てて、瓦礫が床の上へ横たわる。
ふう、と息を吐くと、ヘルメットの下の二つの瞳がこちらを向いた。
オレンジの防火手袋に包まれた大きな手が、ぬっと差し出される。
「そんな表情も出来るんだな。・・・立てるか?」
「はっ・・・はい」
「よし。そっちの坊主は―――気を失ってるか。まあ、いい。黙ってしがみ付いてろ」
「え・・・えッ!?」
差し出された手をおずおずと握ると、力強く握り返される。
その逞しさに思わずぼうっとしていると、男は続いて濡れた毛布の下から弟の身体をひょいと抱き上げた。
そのまま弟と二人、荷物か何かのように小脇に抱えられる。
思わず上げた疑問の声はすぐに驚きへと変わり、ぐん、と周囲の景色が後ろへと一気に流れる。
―――気付けば、燃え盛る家の外へ二人は連れ出されていた。
揃って毛布に包まれ、荷物か何かのように真っ赤なライトバンの後部座席へと放り込まれる。
座席シートの上をごろりと転がると、頭上に見える窓ガラスの外から幾人もの声が響いてきた。
―――ああ、よかった。
ぼくの大切なひとは無事だったんですね。
―――あのガキを渡せ、今すぐにだ。
大人を舐めやがって、たっぷりとわからせてやる。
―――何てことだ、恐ろしい。
やっぱりあんな子供はすぐに潰して捨ててしまうべきだった。
―――きっとこのままでは、更に大きな災いを引き起こすに違いない。
―――ひと目でいいから会わせてください。
―――つべこべ言わずに、渡せ。
―――殺せ。
―――殺せ。
―――殺せ。
駐在、会取本家の使い、その他大勢の野次馬達。
三者三様がちぐはぐな主張を繰り返し、不協和音を奏でる。
その姿は浅ましく、惨めで、ヒトの醜さを凝縮したような、正に吐き気を催すおぞましさであった。
ぎゃあぎゃあとがなり立てる外の声を耳に入れまいと、少女は必死に弟の耳を塞ぐ。
その間も、小さな耳は醜悪な大人達が奏でる騒音に晒され続けた。
ぎゅっと両目を瞑り、ひたすらこの時が過ぎるのを待つ。
―――これが、村の実情だ。
誰もが誰も、自分の事ばかりで他者を顧みない。
本当に酷い話だ。
だが―――それは本当に、ここに限った話なのだろうか?
たとえ少女の望みが叶い、村の外へ出られたとしても。
そこに広がるのが、心無い人がひしめく砂漠であったら?
疲労と火事の影響で弱った心に、じくじくと黒い不安が忍び込んでくる。
身体が寒い。
まるで凍えるようだ。
がたがたと震える手を伸ばし、一縷の救いを求めるように弟の手を握る。
そのぬくもりに一筋、涙を零したその時。
―――光明のように低く、落ち着いた声が響き渡った。
「・・・救助した子供、二名は酷い火傷を負っており、迅速な治療が必要な状態だ。こいつらはこのまま、『外』の施設が整った病院まで搬送する」
「「・・・っ!?」」
声は、消防団の男のものだった。
煙で痛めた喉を振り絞り、罅割れしゃがれた声を張り上げ続ける。
その響きには不思議と、耳を傾けずにいられない、引力のようなものが宿されていた。
―――周囲の視線が、オレンジ色の防火服へ一斉に集まる。
好奇の視線、苛立ちの視線、縋るような視線。
その全てを、巌のような男は腕組みしたままに、一歩も引かず真っ赤なバンの前で受け止めていた。
「治療ならば・・・、我が家の典医でも出来ます。一刻も早く医者に見せるというのなら、我々の手に委ねるのが道理では?」
「・・・そいつは、火傷、外傷の専門医か?聞いているぞ、会取本家お抱えの医者は、女の胎を切り開くのが趣味の、産科医だ。そいつも知識くらいはあるかも知れん。だが、重度の火傷の対処などロクに経験も無いんだろう?そんな輩に、重症者を預ける事はできんな」
「ぐっ・・・!」
低く、迫力のある声が、従者の上げた異論を真っ向から叩き伏せる。
痛い所を突かれる形となった従者が黙る一方、代わりにおずおずと声を上げる人物が居た。
駐在だ。
「ぼ、ぼ、ぼくは―――!ふ、二人の保護者として、勿論同行させて貰えますよ、ね・・・!?」
「・・・」
一瞬、男の厳めしい顔がちらりと赤いバンの方を向く。
しかしすぐに駐在へ向き直ると、再び静かに語り始めた。
「20歳以上、もしくは結婚歴のある人物。養親・養子ともに養親・養子となる意思を持っていること。確か養子縁組についてはそう、定められていた筈だ。あんた、何故、あの姉弟のことを村の連中に話さなかった?」
「うっ・・・!」
「・・・まさかとは思ったが、今の反応で確信できた。お前、あの二人を無理やり―――あるいは、両親との死別に付けこむような形で連れ出したな?それが犯罪だと。他ならぬお前が、知らない筈が無いだろうに・・・」
「くそっ・・・くそぉ・・・!!」
自らの行いが犯罪であると、真正面から突き付けられ、膝から崩れ落ちる駐在。
嗚咽に続き、大声で泣き声を上げ始める彼をよそに、男は鋭い視線で周囲をゆっくりと見渡す。
野次馬達を含め、全ての群衆がその鋭さに思わず一歩引き下がり、周囲には凪のように沈黙が満たされた。
そこへ男はもう一度、低くよく通る声を響かせるのだった。
「繰り返すが―――。あの姉弟は一度、外へ連れて行く。そこでゆっくり、身体と心を癒してもらう。そこから先のことは―――当人たちに、決めさせてやってくれ」
そうとだけ言い残すと、野次馬達をその場に残し、男は愛用のライトバンへ乗り込んだ。
バン、とドアを閉める音に続き、運転席シートの上にずんぐりした男の身体が収まる。
―――その後頭部から、顔の右半分にかけて、赤黒いものが染みたガーゼが覆っていた。
あの時、私達をかばって落下する瓦礫を受け止めた折、付いた傷跡だ。
今更ながらに、自分の行為が齎した結果を目の当たりにした少女は、きゅっと唇を噛む。
「・・・ぁ・・・」
「―――!」
その時。
ふと後部座席へ振り向いた男の視線と、少女のそれがぶつかった。
視界の中、厳めしい顔の右半分を埋めるガーゼの端から、赤黒く変色した皮膚が垣間見える。
それを目にした瞬間、少女は開こうとした口をつぐみ、何も言えなくなってしまった。
―――こんな筈じゃなかった。
何か罰を受けるとしても、それは自分の役割だった筈だ。
たとえ幸福の為であろうと、誰かを傷つける行為が許される道理など、無い。
それを真正面から突き付けられた少女に出来たのは、ただ、かすれた声を細く漏らすことだけだった。
やがて、ショックから立ち直った少女は小さな声で、ぽつりぽつりと謝罪を始める。
「ご・・・ごめんなさ―――」
「いい。・・・いいんだ」
くしゃり。
大きな手が、毛布の上から小さな頭を撫でる。
恐ろしくて合わせる事が出来ずにいた男の瞳は―――穏やかな、優しい光を湛えていた。
男の独白は続く。
「急に親を亡くして、色々と大変だったろう。苦しかっただろう。お前がやらかした事は、許される事じゃないかも知れん。だが―――」
顔の割に小さな、黒目がちな瞳が悲しそうに揺れる。
僅かな間、押し黙った後。
瞳に無数の感情をよぎらせ、男はこう続けた。
「二度と、やるな。それが守れるなら、私から言う事は何もない」
「・・・うん」
「よし」
俯き気味に、少女が僅かに首を縦に振ったのを見て取ると、男もまた静かに頷く。
そしてハンドルへ向き直ると―――ライトバンのエンジンを掛けた。
・ ◆ ■ ◇ ・
そこから先はしばらく、静かな時間が流れた。
私は後部座席で、弟と揃ってうつらうつらしながら切れ切れに意識を覚醒させ、とりとめのない質問を繰り返していた。
家族はいるか。
友達は。
昨夜は何を食べた。
あの夏の、思い出の場所は。
母さまと眺めた蛍の乱舞。
冬の星空。
秋のお月様。
森と山と、どこまで行っても果てが無い草原で、暗くなるまで遊んだ夏の日。
男には昔大切な人が居て―――しかし、一緒にはなれなかったこと。
子供を産めない身体だったその人が、旦那さんに暴力を振るわれるようになって―――しまいには、酷い怪我で死にかけたこと。
その人を助ける為、周囲の反対を押し切って村の外へ連れ出した男は、それがきっかけとなって、今でも似たような事を続けていること。
「・・・その人、なんだか母さまみたい」
「そうか」
「母さまも、まだ小さなころに最初の旦那さまに見初められて、大人になるまで沢山の子供を産んだんだって。旦那さまはそれが気に入らなくて、成長して綺麗になった母さまが子供を身ごもる度に、お抱えの医者に頼んで潰させたんだって。そうして何度も死にかけて、最後に酷く体調を崩した時から、二度と子供を授かれなくなった、って。むかし、母さまがそう言ってた」
「・・・・・・そうか。いや、待て。それじゃあ―――」
私の話の矛盾に、男は開きかけた口を思わず閉じる。
私の母―――
仁愛が本家を放逐されたのは、私達二人が産まれる数年前のことだ。
私が産まれる前から、母さまは村の中で石女と呼ばれ、蔑まれていた。
―――では一体、児を宿せぬ母はナニと交わり、子を成したのか?
「―――団虹堂のお百度参りか」
「うん」
その答えとなる呟きに、私は小さく頷いた。
―――曰く、村の豊穣は全て、土地神様の加護である。
―――曰く、土地神様は溶け崩れた虹の塊の姿で夢枕に立ち、子宝を授けるという。
多産を誉れと定める土着宗教の蔓延るこの地において、不妊や閉経後の女達が縋る唯一の光明が、土地神の社へ日参する一種の儀式であった。
団虹堂のお百度参り。
日夜欠かさず、山の麓にひっそりと佇む小さな社までの道を通い、無心に祈りを捧げる。
その末に身籠ったのが、明と叶、かの双子であった。
―――あきらめず願い続ければ、望みはいつか叶う。
その純粋な、狂気にも似た母の想いの結晶が、私達なのだ。
だが―――その母さまも、もう居ない。
「ん・・・けほっ」
「喋り疲れたろう、もう休め」
「・・・ぁぃ」
可愛らしい咳がひとつ。
眠気で朦朧とし、言葉にならぬ返事を残したきり、亜麻色の髪の少女はくうくうと寝息を立て始めた。
一瞬振り返り、少しだけ微笑むと男は再び前へと向き直る。
毛布の下、小さく白い二人の手は、二度と互いを離さぬよう、固く固く握られていた。
・ ◆ □ ◇ ・
―――不規則な振動、小鳥の囀り、低くうなるエンジン音。
半覚醒した私は眠たげに目をこすると、ん、と片手だけで伸びをする。
もう片方の手は、未だ弟のか細い指を握りしめたままだ。
ふう、と小さく息を吐き出すと、むくりと座席シートの上に起き上がる。
不規則な生活が祟ったのか、水気を失った亜麻色の髪がしょんぼりとシートの上に広がった。
外は既に明るく、差し込む光も眩しい。
私は少しの間、目を細めうんうんと唸っていた。
やがて意を決して目を開くと、そこに飛び込んできたのは―――知らない景色だった。
「わぁ―――」
道を行き交うたくさんの車、隙間なく舗装された道路、道の脇に立ち並ぶ沢山の家々。
そんなありふれた地方都市の情景は、当時の私には目新しく、とても新鮮な光景に映ったのだ。
思わず声を上げる私に気付き、バックミラー越しにウインクしてみせる男。
その背中に向けて、あれは何、それは何、今どこに居るの、と矢継ぎ早に質問を繰り返す。
そして最後に、けほ、と小さく咳をすると―――
私はその日からしばらく、熱を出してぶっ倒れた。
例によってぶり返した弟と揃って、4日間の入院である。
実に久々の風邪引きさんだったが、恐らくこの数日の疲れと緊張が原因だろう。
一方。
そんな二人を引率した消防団の男―――茂羽賀もまた、入院する羽目となっていた。
私を助ける時に負った火傷が、思いのほか重症だったらしい。
『外』の拠点へと私達を送り届けたその場でブッ倒れ、3人仲良く緊急搬送される流れとなった。
その後、引き取られた先の家で壁ドンされたり、手加減に失敗しそいつに心的外傷を負わせたりと。
そんな感じに色んな出来事があったのだが、それはまた、別の話である―――
今週はここまで。




