∥005-30 魔宴
#前回のあらすじ:でっっっっか!!
[マル視点]
―――悪夢のような光景だった。
天には渦巻く鈍色の雲。
群れ成し泳ぐ魚群が見せる腹のように、複雑な模様を見せながらあっという間に変化し、東の空へ向かって流れてゆく。
天からは滝のような大雨。
間断なく降り注ぐ降雨は時折強風に煽られ、白く波しぶきのように塊となって、繰り返し打ち寄せてくる。
厚い雨のカーテンによって遮られ、視界に映る景色は濃霧の中のようにぼんやりと、全てが不確かなままだ。
眼を細めて空を仰げば、そこにはまん丸い月が二つ、冷たい光を湛えてぼくらを見下ろしていた。
―――否。
それは、断じて月などではない。
本物の月は、天を埋め尽くす暗雲の向こう、遥か空の彼方だ。
故に、断じて月などではない。
それは―――
小山程の大きさを持つ生物の、あまりに巨大な瞳であった。
路面に降ろされた片手から、頭上に位置する眼の高さまで。
目算で少なくとも、3階~4階建てのビルと同程度はあるように見える。
しかし、折からの視界の悪さもあり、巨大生物の全容は杳として知れないままだ。
流れる雲を背景として、稜線のように黒く伸びる怪物の輪郭。
それこそ全身を含めれば、途方もないサイズがありそうだった。
地球最大の動物とされるシロナガスクジラで、平均して全長22Mほど。
古代の地球にまで範囲を広げれば、60M(推定)もの巨体を持つ恐竜が、この世には実在していたとされる。
しかし―――
目の前のこいつは、そのどれとも異なる。
指の間に水かきを持つ手、閉じることのない瞳、ごつごつと突起物に覆われた岩のような皮膚。
闇に閉ざされた視界の中、辛うじて見える情報を拾い集めただけでも、そのフォルムには間違いなく見覚えがあった。
この町の住人、【深きもの】と同じ。
つまり―――人類種だ。
『泥艮ヨ! 泥艮ヨ! 泥艮ヨ!!』
周囲でそろって天を仰ぎ、奇妙な合唱を続ける【深きもの】達。
それに呼応するかのように、巨大生物の―――
否、巨神のシルエットが闇の中動きを見せた。
一旦、力を溜めるようにして全身を低く沈み込ませる。
次の瞬間、バネのように空中へ飛び上がると―――アスファルトの上へ途方もない質量が降ってきた。
「きゃああああ!!」
「うわーーーーっ!!?」
轟音。
先程とは比べ物にならぬほどの衝撃、巻き起こる突風。
着地点を中心として、路面はクレーター状に深く陥没し、それに留まらず周囲へ向かって幾筋も深い亀裂が刻まれていた。
悲鳴を上げる梓を離さぬよう、ほっそりとした指先をしっかりと握りしめたまま、ぼくらは爆風に煽られそろって路面の上に尻もちをつく。
もうもうと立ち昇る土煙は雨によって次第にかき消され、一旦ゼロになった視界はすぐに元通りになった。
ぼくはぺたんと濡れたアスファルトの上にへたり込んだまま、空を見上げる。
雷鳴のような爆音が止み、雨音のみが周囲を満たす中―――『神』が、そこに居た。
手を伸ばせば届きそうな距離から、1M程はあろうかという、巨大なガラス玉めいた瞳が覗き込んでいる。
大型トラックだろうと、一吞みにしてしまいそうな大顎。
それは岩肌のような、荒くごつごつとした突起によってびっしりと覆われており、隙間からは建築用の杭と見まごうばかりの、極太の乱杭歯が僅かに見えていた。
洞穴のような鼻孔からは、隙間風のように呼気が吹き出し、顔に当たって前髪を噴き散らす。
僅かに生暖かい。
―――こんな状況ではあるが、目の前の怪物にも温もりがあるのだと、血が通っているのだ、と。
そんな奇妙な感動が、急に胸の内から沸き上がってきた。
今、ぼくの目の前に居るのは正しく、人類が文明の英知を手にするより遥かに昔。
黎明の時代に地上を闊歩していたと言われる、大いなる旧き世の支配者そのものであった。
巌のような口元がわずかに動き、周囲におごそかな低音が響き渡る。
≪ コ ド モ ≫
今、こども―――と、怪物はそう言ったように聞こえた。
ぼくはぽかんと頭上を見上げたまま、怪物が呟いたとおぼしき言葉を繰り返す。
今のが聞き違いでなければ、眼前の存在は明確に対象を認識し、それを表す言葉を発したという事になる。
「知性が、ある?ぼくの事が、わかるの―――?」
≪ ・ ・ ・ ≫
ぼくのつぶやきに、怪物は沈黙を以て答える。
周囲を満たす静けさの中、降りしきる雨音に、突如としてぼそぼそと小さなつぶやきが混じった。
音の発生源を探すべく、ぼくは素早く周囲に視線を巡らせる。
「・・・ナマズのおっちゃん?」
「えっ?」
―――と、その時。
つぶやきの発生源を見つけられずに居たぼくの耳に、後輩がぽつりと漏らした言葉が届いた。
疑問の声と共に隣を見ると、彼女は真っすぐに前を指差している。
「あそこ。おっきな人の右手のとこに―――」
彼女が指差す先につられ、視線を滑らせる。
怪物が胸の前で大切そうに抱えた掌の上に、コートを纏った人影が一瞬、見えたような気がした。
「あれは・・・?」
その正体を確かめようと、目を凝らしたその時。
急に何かに気づいたように顔を上げると、怪物がその巨体をゆっくりと起こす。
そして、天に向かって巌のようなおとがいを向けると、大気を震わせるような咆哮を放つのだった。
≪ オ オ オ オ オ オ オ ! ! ≫
『父祖ノ御霊ハ君臨セリ! 父祖ノ御霊ハ君臨セリ!
オオ オオ オオオ!!』
天地をつんざくような大音響に呼応するようにして、【深きもの】達が一斉に動き始める。
小山のような巨神の下へ、そして足元を通り抜け、その先へ。
海側の防風林からは、途切れることなく【深きもの】の列が溢れ出し続ける。
県道の上は赤褐色の身体で埋め尽くされ―――
今週はここまで。




