∥005-28 遠雷
#前回のあらすじ:あっ、死ぬー。
[真調視点]
「おやぁ―――?」
丸く切り取られた視界の中、明滅するコバルトブルーの球体からはじき出され、二人の若者が曇天の下へと躍り出る。
両目を剥き、口を大きく叫びの形にしているのは、先程、啖呵を切って窓から出て行ったあの少年だ。
口元をわずかに吊り上げつつ、暗視ゴーグルを片手にその様子を見守るのは、類人猿めいた容貌のくたびれた男―――真調だった。
彼は先程と同じく、宿の二階に位置する部屋の窓際から、二人の様子を覗き見ている。
しかし―――部屋の中の様子は、先程とは似ても似つかぬ惨状へと変わり果てていた。
少年が閉め切った玄関口は力任せに開け放たれ、廊下から差し込む蛍光灯の光が床の上に残された、異様に大きな足跡を照らし出している。
室内へと足跡は続き、畳敷きの床は乱雑に踏み荒らされ、更には所々に血糊とおぼしき赤黒い液体が飛び散っていた。
黒く染みとなったそこからはすえたような臭気が立ち上り、部屋の中は思わずむせ返るような、酸鼻極まる状態へと化している。
壁の数か所は何かが衝突したように僅かに凹み、その中心には畳と同じ、赤黒い染みが放射状に広がっている。
そこから下へ、帯状に伸びた染みの先には、力尽きてピクリとも動かない男の姿が―――
否。
【深きもの】の水棲生物めいた異様な姿が、壁に背を預け横たわっていた。
更に室内に目を向ければ、そこかしこに同様に血を流し倒れた、【深きもの】達が幾重にも折り重なり転がっている。
今や、ひなびた民宿の一室は野戦病院さながらの、異様な光景へと作り変えられていた。
その全てが、奇妙な風体の中年男―――真調を中心に、半円を描くように広がっている。
しかし、台風の目のように中心に座する男の身には、傷一つ無い。
一方。
当の真調が、現在どうしているかというと―――
周囲の惨状など気にもしていないかのごとく(実際そうなのだが)、暗視スコープの中の光景に釘付けのままだった。
微量な光を増幅し、闇夜にも関わらず明るく保たれた視界の中で、放物線を描き落下コースへと入るマル。
遠目だが、相当の速度が出ているようだ。
「―――流石に、死にましたかねぇ?」
誰に聞かせるでもなく、男はそう一人ごちる。
どこか落胆したように僅かに肩を落としながら、ゴーグル越しに事の顛末を見守る真調。
風に煽られ、くるくると木っ端のように回転する小柄な体が、ついに固いコンクリートの上へと叩きつけられようとした―――その時。
再び紺碧の光が少年の周囲に溢れ、隣で何やら考え込むようなポーズを取っていた少女の身体も含め、もろともに包み込む。
次の瞬間、二人は小山のような巨大な泡の塊へと頭から飛び込んでいた。
落下の衝撃を全て受け止め切り、ぱちんと弾ける泡玉。
紺碧の輝きを残し消滅した後には、一命を取りとめた彼等の姿があった。
一瞬安堵の表情を浮かべ、しかし次の瞬間にはべしゃりと頭から着地する少年。
その姿に、男は類人猿めいた顔を破顔させ、くつくつとくぐもった笑いを漏らすのだった。
「キヒヒヒヒ!いやぁ、本当に彼は愉快ですねぇ・・・見ていて飽きません。まぁ、残念ながら嫌われてしまったようですが。―――それは良いでしょう」
そこで言葉を切り、スッと両目を細めた男は、再びゴーグルを手に取る。
視線を向ける先は、丁度港のある辺りだ
いっそう勢力を増した風雨によって、幾重にも下りた幕を通したように、その奥にあるものを見通すことが出来ない。
しかし、そこには確かにうず高くわだかまる闇の塊が、ゆっくりと一方向を目指し動き続けていた。
ずず・・・ん。
遠く、雷のような音が低く、響く。
「さて―――あちらは今晩、どう動くつもりでしょうかねぇ・・・?」
再び、くぐもった笑い声が上がる。
それをず・・・ん、と、遠く響く遠雷がかき消した。
曇天は錆色に逆巻き、強風に煽られ帯状に層をなした雨粒が、天より地上へと降り注いでゆく。
影に覆われた夜の町は、嵐の様相を呈し始めていた。
・ ◇ □ ◆ ・
[マル視点]
「し・・・・・・死ぬかと思った・・・!!!」
地面にへたり込んだ姿勢のまま、自身の無事を確認する。
意識は明瞭、痛みは特に無し、両の手足はきちんと付いている。
ただ一つ―――ひどく疲れているが、それを除けば至って健康と言ってよい状態だ。
ぼくはそこまで確かめると、ひんやりとしたアスファルトの上にぐてりと横になった。
長々とため息を吐き出しつつ、今に至るまでの出来事をぼんやりと思い返す。
あれは、つい先程のこと。
宿から脱出し、夜の町を水のホイールで全力疾走し始めたぼく達は、その勢いのまま空中へ放り出され、あわや墜落死という危機的状況に直面していた。
絶対絶命の状況から辛くも助かったのは、霧散したメルの身体を再度凝集させ作り上げた、特大水玉のお陰だ。
落下地点に発生させた水玉に、バブルシールドの要領で衝撃を吸収させて、丁度そのショックで泡が弾けるように調整したのだ。
そのお陰もあって、ぼくらは無事、こうして五体満足な状態で生き残っている。
―――ああ、生きてるって素晴らしい。
晴れ晴れとした気持ちで頭上を見上げるが、生憎と空は一面の曇り模様だった。
厚い雲に覆われた空はどんよりと暗く、星明りもまん丸なお月様も見ることはできない。
おまけに、宿を出たあたりから強くなった雨脚は、もうすっかり本降りとなっていた。
仰向けに寝そべるぼくの眼や口に、容赦なく雨粒が入ってきてちょっと痛い。
もう少しの間、感動を噛みしめていたかったが―――
いつまでもこうしてはいられないだろう。
ぼくは勢いを付けて、がばりと起き上がる。
それと丁度同じタイミングで、隣から素っ頓狂な声が上がり、ぎくりとそちらを振り返るのだった。
「・・・できたーーーっ!」
「うわ!?・・・急にどうしたのあーちゃん、ヘンな物でも食べた?」
「先輩先輩!コレ見て、あたしにもできたよ!召喚!!」
「・・・なんて?」
ぼくと同じく、水のエアバッグによって九死に一生を得ていた梓。
喜色満面の笑顔を浮かべたまま、彼女は片手をこちらへと突き出してくる。
ほっそりとした指に握られていたのは、白木で作られた、簡素なデザインの弓であった。
それもアーチェリーで用いられるような洋弓ではなく、いわゆる和弓というやつである。
目の前の後輩が所属する弓道部ではすっかりお馴染みとなったそれを、ぼくは地面に座り込んだまままじまじと眺める。
しばしそうした後、ぼくはこてんと首を横に倒し疑問を口にするのだった。
「いや、コレ見てと言われても。正直ただの弓にしか・・・・んんんん?」
怪訝な表情で目の前の物体を観察しているうちに、ある事実に気づき、ぼくは思わず二度見する。
これは、弓です。
―――それはわかる。
でも、何でここに『これ』が?
記憶が定かならば、彼女の手の中にある弓には見覚えがある。
確か、ぼくらが【神候補】となった、『あの日』。
路線バスの中で見た彼女の手には、これとそっくり同じ形状のものが収まっていた筈だ。
間違いなく―――あれは、彼女の【神格兵装】だ。
ぼくのような『使役型』と異なり、『装備型』の彼女は【神使】が変じた魔法の武器―――
【神格兵装】を操ることができる。
それは、ここ現実世界においても同じだ。
しかし―――それには一つの制約が存在する。
思い返してみても、午前中、警察署の前で会った時、彼女はこんなものを持ってはいなかった。
それ以降も、和弓を入手する機会なんて皆無だった筈。
つまり、ほんの数秒~数十秒の間に、この弓は彼女の手の中に忽然と姿を現したことになる。
沸き上がる疑念を晴らす為に、ぼくは簡素なデザインの弓を睨みつつ、おそるおそる口を開いた。
「・・・つかぬことを聞くんだけれど。あーちゃんって、弓の材料になるような木の棒とか、そういう物を何か持ってた?」
「ん-ん?持ってないよー」
「やっぱり・・・」
ぷるぷると首を振る彼女の姿に、半ば予想通りとは言え、ぼくは思わず頭を抱える。
―――現実世界において、ぼくら【神候補】は力の行使に一定の制限が課せられる。
ぼくの【神使】、メルクリウスを使役するのに、依代として水を必要とするのがその一つだ。
水を含んだ適当な液体で良ければ、そこら中で入手可能なので、ぼくの制約は大分ゆるい物と言える。
しかし、『装備型』の彼女はそうは行かない。
霊体の状態で召喚された【神使】を降ろし、【神格兵装】へと変じさせる為の『器』が必要となるのだ。
先程発言した『棒状のもの』というのは、最低限、弓の形状を持つ道具を作る上で必要となる材料のことだ。
弦となる糸は服を解体すれば手に入るので、そこらの枝でも拾って組み合わせれば、(ギリギリではあるが)『器』として【神格兵装】を召喚することは出来る。
だが、それすらも持っていないという彼女の答えに、猛烈にイヤな予感を感じる。
「じゃあ・・・その、弓はいったい、何処で?」
「えーとね?こう、『出ろ~出ろ~!』って念じてたら、なんか出た」
「言い方ぁ!!」
あまりにも雑な表現に、思わず渾身のツッコミが出てしまう。
そうだった、あーちゃんはこういう人だった。
彼女が入学したての頃。
弓道部へ見学に行った際、試しに弓を触らせて貰ったその場でド真ん中に中てて見せた時も、「なんか出来そうな気がした」と言い放ったのだという。
新入生のへっぴり腰をニヤニヤ眺めるつもりだった上級生達も、一目で「こいつヤベェ」と認識を改めたらしい。
その後も、彼女は数々の『伝説』を残し続けているらしい。
弓道場へ遊びに行った折、その一端を語る先輩のどこか疲れたような表情は、今でもぼくの目に焼き付いている。
今回もまた、そんな感じに『やってみたら出来てしまった』のだろう。
軽く頭痛を感じつつもぼくは気を取り直し、座り込んでいた道路から立ち上がる。
その側で、アスファルトの上にぺたんと座ったままだったあーちゃんに向け、無言のまま手を差し伸べる。
彼女はにっこりと笑うとぼくの手を握りしめ、よっ、と小さく掛け声を上げて立ち上がった。
「さてはて。これからどうしようか・・・?」
「お家に帰るんじゃないの?」
「・・・うん、まぁ、そうなんだけれど。移動手段はついさっき潰されちゃったし、このまま徒歩で移動するってのも―――!?」
そこまで言いかけたところで、ぼくははっとなって周囲を素早く見回す。
・・・道路端の草むらをかき分けて、何者かがぬっと姿を現した。
ごつごつとした突起だらけの肌、半透明の脂瞼に覆われ、閉じることの無い大きな目。
前傾姿勢のまま飛び跳ねるような動きで現れたのは、密かにこの町を住処としていた水底の民―――【深きもの】だ。
最初に姿を現した一体が何やらくぐもった声を上げると、それにつられるように続々と他の個体も集まってくる。
みるみるうちに、ぼくら二人は【深きもの】の集団によって半ば包囲されていた。
「くそっ、もう見つかった・・・!」
「ど、どうしよう先輩?」
遠く、雷のような音が響く中。
ゆっくりと包囲の輪を狭めつつある【深きもの】。
連中の動きに警戒しながら、ぼくはじりじりと後退しつつ、連中の魚面とにらみ合いを続けるのだった―――
今週はここまで。




