∥005-24 波打ち際の怪異
#前回のあらすじ:あーちゃんは湯上り
[生田目視点]
「クソ、クソックソクソッ!!・・・げほっ、げほっ。」
両手で水をかき分ける傍ら、ぐらぐらと煮えくり返る内心を吐き出すようにして喚き散らす。
そんな真似をしていたせいか、波にあおられて塩辛い水が口の中に入ってしまい、おれは思いきりせき込んだ。
屈辱だった。
先程目にした光景が脳裏にフラッシュバックし、生田目の怒りに再び火を注ぐ。
夜の波止場にて、自分と対峙したあの、丸海人とかいう餓鬼。
生意気にも、おれの行動を邪魔しようとした奴を、軽く撫でてやって無力化させた後に、悠々と宿へ向かう。
後に待っているのは、お楽しみだ。
若く青臭い女の肉体を手折り、思うがままに欲望をぶち撒ける。
―――その、筈だった。
しかし、結果はこのザマだ。
おれは冷たい海の中へと叩き落とされ、あまつさえ石まで投げられる始末。
屈辱だった、これ以上無いまでに。
ようやく、脚が付く程度の深さになったところで、おれは水をかき分けるのを止めた。
ざぶりと音を立て、コンクリート製のスロープの上へと身体を乗り上げる。
背広の袖口からは滝のように海水が滴り、スロープの上へと黒い染みを広げた。
ここまで全力で泳いできたせいか、息は荒く、疲労で全身が重い。
しかし、心の内はマグマのようにぐらぐらと煮えたぎっている。
その熱に突き動かされるままに、走り出そうとして―――
つんのめるように、大きなくしゃみをした。
ぶるり、と身体が勝手に震える。
「・・・はぁ、はあ。あの餓鬼、ふざけやがって―――ぶえっくしょい!!!」
暦の上では春とは言え、未だ五月。
一般に、海水温は気温と比べ、およそ1か月遅れで変動すると言われている。
四月といえば、桜の季節とは言え、未だに冬の寒さが残る時期だ。
その中を着衣のまま泳いできた生田目は、知らぬうちにすっかり体温を奪われていたようだった。
身体の重さも、その影響と考えるべきだろう。
一旦、スロープの途中で立ち止まると、おれはこれからの行動を思案する。
あの餓鬼―――丸海人は既に、宿へ戻っているだろう。
梓とかいう小娘におれのことを告げ口して、一緒になって逃げるつもりかも知れない。
だが、それだけだ。
この辺りは、夜中のうちは大して交通量も無いし、何より車のカギはおれの手の内だ。
公共交通機関も朝まで動かず、ヒッチハイクも成功の目が薄い。
―――結論として、連中は徒歩で逃げるしかないだろう。
それもお荷物付きの、大して鍛えていない餓鬼の脚だ。
逃げられたところで、たかが知れている。
多少休んだところで、後から追いつくことは容易いだろう。
「フゥー―――っ。・・・助かったな餓鬼ィ。少しだけ、ブチのめすのを待ってやる・・・」
連中の事は、一旦後回しにすることに決める。
大きく息を吐き出すと、おれは素早く思考を切り替えた。
そして、濡れて重くなった着衣に手間取りながらも、着ているものを次々と脱ぎ捨て始める。
水滴の滴る衣服をコンクリートの上に叩きつけていき、最後に肌着のシャツを脱ぎ終わると、それを両端を持って思い切り捻る。
布地から塩気を含んだ水分が絞り出され、スロープを伝って海中へと流れて行った。
人は、濡れた衣服をそのまま着用していると、気化熱による低体温症を引き起こし―――最悪死に至る。
生田目はそれを知っていたが為に、マルの追跡よりもまず、自らの濡れた身体をどうにかすることを優先したのだった。
絞り切ったシャツを広げると、乾いたコンクリートの上に置き、残る衣服も続けて同じようにして絞っていく。
最後に、絞ったハンカチで身体の水気を拭き取ると、おれはコンクリートの上にどっかと腰を下ろした。
全身にこびり付いていた水気が落ちたお陰か、ようやく幾分マシな気分になってきた。
ひんやりした肌着のシャツに袖を通すと、続いて背広の胸ポケットをまさぐり、煙草の箱とライターを取り出す。
「ちっ・・・湿気ってやがる」
金属製のジッポーライターはその構造ゆえか、フリント・ホイールを数度回すと火が点いたが、肝心の煙草はぶすぶすと燻るだけだった。
思わず悪態をついたがそれでも諦めきれず、つまんだ煙草を火の上にかざすと、おれはじっと火が点くのを待つ。
―――男の足元でとぷん、と水面が揺れた。
暗闇の中、幾つもの丸い塊が波間よりぷかりと浮かび上がり、ゆっくりとスロープのところへと近づいてゆく。
何時の間にか、生田目の周囲は海中より出でたナニカによってとり囲まれていた。
が―――男は気付かない。
「・・・糞がッ!!」
やがて、何時まで経っても着火しない煙草に業を煮やしたのか、生田目は海に向かって手に持ったそれを放り投げる。
スロープの途中で一度バウンドし、くるくると回転しながら水面へ落ちるシガレット。
このまま波間に消えるか―――と、思われた、その時。
投げ捨てられた煙草はぴたりと落下前の状態で静止し、空中に縫い留められていた。
否。
何者かが長い爪の先でそれを抓み、現在の位置に止めているのだ。
何となく煙草の行き先を目で追っていた生田目は、その奇妙な光景に顔をしかめる。
満月の光は上空を覆う厚い雲により遮られており、煙草を掴み取った何者かの正体は杳としては知れない。
ぷん、とどこからか、磯の香りがひときわ強く香った。
夜の海を背景にして佇む、黒々としたシルエットを睨みつけたまま。
生田目は無言のまま、じっとその様子をうかがう。
すると唐突に、囁くような、不可解な淀みのある声が―――
眼前のシルエットより放たれ、男の耳へするりと滑り込んだ。
『コレ捨テルノ、良クナイ』
「貴様・・・何者だ!?」
誰何の声を発した、その瞬間。
周囲にざわり、と小さなどよめきが、波紋のように広がった。
岸壁に沿って立ち並ぶ倉庫の影に、湾内にたゆたう波間の奥に。
それこそ無数の気配が息を殺してそこに潜み、じっとこちらを伺っている。
ようやく、生田目は眼前に潜む何者かが一人ではない事実に気付いていた。
自分の迂闊さに内心舌打ちしながら、視線だけで周囲の様子をうかがう。
『彼等』は既に、男の周囲をずらりと取り囲んでいた。
脳裏に鳴り響く警報。
生田目は咄嗟にジッポーを掲げると、周囲の様子を照らした。
仄かなオレンジ色の光によって浮かび上がったその光景に、男は思わず己の目を疑う。
それは、ヒトの形状を悪意を以て歪めたような、怖気をそそるような奇怪な生物だった。
それは目鼻口や手足といった、人体を構成する要素を備えながらも、その全てにおいて明確な奇形を有していた。
その額は後退し、潰れた頭頂部とほとんど同化したまま、ごつごつとした突起に覆われた無毛の皮膚が頭の上半分を占めている。
その下に位置する眼窩は極端に両側へ離れており、この町の住人に共通する、あの平目顔を彷彿とさせた。
顔のサイズに比して巨大な瞳はゼラチン質の脂瞼に覆われており、閉じること無く男の掲げたジッポーの放つ光を注視している。
その瞳孔は開ききっており、まるで黒く無機質なガラス玉のようだ。
鼻梁はほとんど潰れ、痕跡のような小さな鼻の穴が二つ、顔の中央に並んでいる。
彼等の頭部は全体が下膨れの形になっており、顎を欠いた口元には厚く、無数のトゲの浮かんだ巨大な唇が、横一文字に引き結ばれていた。
くすんだ赤茶色の皮膚は、ごつごつとした突起物に覆われており、波しぶきを受けて表面に細かい水滴を浮かばせている。
彼等は一様に極端な猫背で、前に突き出された腕―――というより前肢は、節くれだった指の間に水かきを有していた。
これらの奇形は周囲に居並ぶ連中に共通しており、特に奇形が強い個体はあたかも、ヒトと底生魚を融合させたかのようなおぞましい姿をしていた。
異形の怪物達の視線が一斉に、男の掲げるジッポーへと集まる。
次の瞬間。
周囲は蛙の鳴き声のような、奇怪な叫びによって包まれていた。
『ゲッ!ゲッ!ゲッ!ゲッ!!』
「な―――何だこれは!一体何がどうなってやがる!!?」
『ゲッ!ゲッ!ゲッ!ゲッ―――!!』
混乱し、喚き散らす男の周囲を、細かい乱杭歯の並ぶ口内を見せた怪物達が取り囲む。
コンクリート製のスロープの上へへたり込んだまま、右へ、左へと、威嚇するようにジッポーを突き出す男。
それをせせら嗤うようにして、じりじりと包囲の輪を狭めてゆく怪物の群れ。
その背後から、ぺたぺたと湿った足音が近づき―――
ぬっ、と生田目の頭上から、ダークグレーのフェルト帽子を被った何者かが突然、覗き込んできた。
ナマズのような、どこかユーモラスな顔が上下逆向きに、生田目の視界を覆う。
丸く大きな瞳をくりくりと動かすと、そいつは厚ぼったい唇をニヤリと吊り上げた。
「あらん?イイ男。・・・ちょっとアタクシのタイプかも」
「なっ、なっ!?貴様は何だ、何のつもりだ!!・・・おれを特高警官と知ってのことか!?」
「知らないわよん?でもねぇ・・・。アンタ達に今、ここでウロチョロされると迷惑なの。だから―――ごめんね?」
「がふッッッ!??」
ごん!
鈍い音が響き、鼻面を陥没させ鼻血を噴いた生田目が、どさりとスロープの上に横たわる。
彼の前頭部を襲った衝撃が、ナマズめいた男(?)の放った頭突きであったことに気付くより前に、その意識は暗い海の底へゆっくりと沈んでゆく。
次第に霞んでゆく、視界の中で。
上空を流れる暗雲の奥から、赤い月がぼんやりと、血のような赤い光を投げかけていた―――
今週はここまで。




