∥005-20 決裂
#前回のあらすじ:あつい!うまい!
[マル視点]
「げえっぷ・・・うぅ、食べ過ぎた」
『安曇館』と印字された宿泊客用のサンダルに足を通すと、玄関を抜けて宿の前へ出た。
外は既にとっぷりと暮れており、冷たい夜風がほてった肌を心地よく撫でる。
腹部に感じる圧迫感に、思わず浴衣風の館内着の上から胃の辺りをさする。
流石は港町と言った所か、宿で出された夕食はどれもこれも絶品で、ついつい食べ過ぎてしまった。
今頃、部屋の中では梓も、お腹の膨満感にうんうんと唸っている頃だろう。
ぼく以上に食い意地の張った後輩に思わずくすりと微笑すると、腹ごなしに夜の町へと歩き出す。
所々に街灯が配されてはいるが、この町の夜は闇がとても深い。
ようやく暗さに目が慣れてきたお陰か、辛うじて道の凹凸くらいは見分けられるが、周囲は一面が濃紺に塗りつぶされている。
まるで、深い深い海の底でも歩いているかのようだ。
空を見上げると、薄曇りの空には雲の切れ目から、熾火のようにきらめく星の光が遠く、ちろちろと瞬いている。
その更に上には、真円を描く血のように紅い月が、空の彼方より静かに町を見下ろしていた。
そんな景色の中、ぼくはどこかふわふわとした気持ちで砂利道を歩く。
「どこまで行こうかな・・・?」
そう一人ごちた後、何となく海が見たくなったので、ぼくは港の方向へと足を向けた。
来る途中、車窓から見かけた記憶を頼りにして、灯りの乏しい夜道を歩く事十数分。
ぼくはようやく、人気の無い港へとたどり着いていた。
灰色のコンクリートで覆われた岸壁には、太いロープで係留された漁船がずらりと並んでいる。
白を基調とした塗装が施された雄大な船体も、今は灯が落とされ物言わず波に揺られている。
右手に見える、魚市場らしき大きめの建物も今はシャッターが降ろされ、ガラス窓には灯り一つ見当たらない。
時間的な問題か、それとも休漁中なのか、今ここは全く稼働していないらしかった。
ここまで結構な距離を歩いてきた筈なのに、人っ子一人すれ違わない。
まるで時間凍結―――異次元より来襲するあの傍迷惑な連中が作り出す、奇妙な空間――にでも迷い込んでしまったかのようだ。
そうして岸壁に沿って歩いていると、常夜灯の下で海に向かって紫煙をくゆらす、一人の男とばったり出くわした。
着古した感じのブラウンの背広、艶のない七三分けの黒髪、鼻の下にちょこんと伸びたちょび髭、肉食魚のような白目がちなギョロ目。
泣く子も黙る天下の特高警察官、生田目黄身彦その人だ。
気付かれないうちにと、ぼくはくるりと180度向き直ってその場から退散しようとする。
しかし、既に気づかれていたのか、白目がちな瞳がぐるりと動くとぼくの姿を視界に収め、男は小さく舌打ちするのだった。
「―――ちっ、貴様か」
「ハイ貴様です。・・・そういう訳ですので、ぼくはここらで退散―――」
「待て」
そっと後ずさりフェードアウトしようとした所を、タバコを吐き捨てた男の一声が待ったを掛ける。
靴の裏でタバコの燃えさしをにじり消すと、生田目はこちらに向かって小さく手招きした。
・・・何のつもりだろうか。
男の行動の意図が読めず、警戒心たっぷりの表情のまま、しぶしぶそちらへと向かうぼく。
常夜灯の黄色い光の下、骨太の中年男と小柄な少年が無言のまま、そろって並ぶ。
ふいに男は懐から海外銘柄のタバコを一箱取り出すと、人差し指で一本抜き出し、口に咥えた。
「おい。貴様が連れている、身長の高い頭の軽そうな小娘―――」
「あーちゃ―――梓のこと、ですか?」
「ふん、そんな名前だったか。あー・・・それで、その小娘の事なんだが」
「・・・はぁ、何でしょうか」
ふいに口を開くと、こいつにしてはやけに回りくどく、あの後輩の話題を切り出す生田目。
その違和感に首を捻りつつ適当に応じていると、隣に立つ中年男はどこか言い淀むようにして、一旦言葉を切る。
一時その場を満たした静寂に居心地の悪さを感じつつも、ぼくは男が再び口を開くのをじっと待つ。
「・・・付き合ってるのか?」
「ぶっ!?」
そして唐突に飛び出した予想外の質問に、ぼくは思わず噴き出してしまう。
しかしすぐに気を取り直すと、これまでに何度も口にした、お決まりの答えを返すのだった。
「・・・付き合ってませんよ。ぼくと彼女はあくまで―――友達同士です」
「そうか」
本来なら友達同士、の前に『少し特殊な』と注釈が入るべきであろう。
そんな、どこか奇妙な二人の関係性を外向きにオブラートへ包んだ回答に、男は短くそう返す。
―――なんだか、変な気分だ。
今日。
ここに来るまでの旅路にて、この男―――生田目の存在はぼくにとって常に脅威だった。
乱暴で、高圧的で、とことん意地が悪い。
特高という権力をかさに着ており、常にそれでぼくを脅し、あまつさえその行為を誇ってさえいた。
それが今。
男子学生がする雑談のような、他愛のない会話を交わし、こうして一緒に同じ海を眺めている。
ほんの数時間前までなら、とても信じられないような状況だ。
もしかしたら、この男やあの奇妙な中年―――真調とも心を交わし、今後は仲良くできるかもしれない。
そうだ。
同じ人間、腹を割って話してみれば和解することなんて簡単な筈。
そんな、青臭い未来予想図に内心こそばゆくなりながら、ぼくは男の横顔をちらりと盗み見て―――
後悔した。
「なら、心配は要らなそうだな。おい、餓鬼、おれは今夜―――あの小娘を犯す」
「・・・・・・は?」
今、こいつは何と言った?
呆然としたまま男の横顔を眺める。
その瞳は燃えるようにらんらんと輝き、口元には嗜虐めいた笑みが張り付いていた。
それは、あたかもバッタの足を一本一本引きちぎる様を眺めるように。
暗い悦びが心の端から溢れ出した、おぞましい『悪意』の表情そのものだった。
男の独白は続く。
「いやあ、安心したぜ。いらん邪魔が入るようなら貴様を先に始末せんとならんからな。まあ、楽しみにしていろ。貴様にもお零れくらいはくれてやる。―――さんざ楽しみ尽くした後になるだろうがな。ガハハハハハ!」
「・・・何、で」
「何で?・・・何で、か。おかしな事をほざく餓鬼だ」
思わず口から零れたその一言に、男はギラつく瞳をこちらに向ける。
一つ首を捻ると、にいと釣りあがった口の端から放たれた次の一言は、ぼくを心底ぞっとさせるに十分なものだった。
「理由など無い。強いて言うなら景気付けだ。おれはな。こういうデカい事件の前には、必ず女を抱く。それも化粧臭い商売女じゃない、市井の素人を、だ」
そこで言葉を切ると、思い出に浸るようにして男は天を仰ぐ。
白目がちな瞳をぎょろぎょろと動かすと、口元から零れる涎を拭こうともせず、言葉を続けた。
「あの夜も、こんな血のような紅い月だった。おれが最初に食ったのは政治犯の女だ。教育役だった先輩がな、いいものを見せてやるとこっそり独房へ連れて行ってくれたんだ。女の尻肉を割り開きながら、先輩はこう言った。『我々は公務を遂行するにあたり、清く正しくあらねばならん。だから、貴様もこうして心の膿を存分に吐き出して、清らかなるココロで捜査に当たるのだ』―――とな」
ひひっ。
軋むように男は笑い声を上げる。
そうしてこちらをゆっくりと向いた、奴の表情を見た瞬間。
こいつと和解するなど最初から無理だったのだと、ぼくはようやく思い知ったのだった。
「―――おれもそうした。そいつが首を吊ったのは翌週のことだった。取り調べ中の政治犯が自殺するのはよくある話だ、知っているだろう?だが・・・あの夜感じた熱が、恐怖に歪む表情が、どうしても忘れられなくてな。おれはそのうち自分で相手を探すようになった。商売女では、駄目だ。やるならただの女がいい。つまらなく、平凡で、今日と同じ明日が当たり前のように訪れると信じ込んでいる。そんな女の間抜け面にたっぷりと、ココロの膿を吐き出してこそ―――」
「おい」
―――これ以上は、聞くに堪えなかった。
男の口上を遮るようにして、ぼくは腹の底から振り絞るように声を張り上げる。
途端に感情の抜け落ちた、能面のような表情で生田目はこちらをじっと見つめる。
それを真正面から受け止め―――ぼくも負けじと睨み返した!
「何だ、その目は・・・餓鬼ィ」
「お前をここから帰すわけには行かなくなった・・・そういう、目だっ!!」
「・・・わからんな」
はぁ、と。
心底くだらなそうに、生田目は視線を外して大きなため息をつく。
そして一つ首を振ると―――ぎらりと殺気の孕んだ視線をこちらに向けてきた。
思わずすくみ上がりそうになるのを必死で堪え、ぼくはもう一度声を張り上げる。
「これだから餓鬼は。別にいいだろうが、自分の所有物でも無い他人がどうなろうと―――」
「たとえ、そういう関係じゃなかろうと!笑った顔を知ってる!言葉も交わしたことのある!・・・そういう相手に危険が迫ってるなら、止めるだろ!!」
それはほとんど絶叫だった。
男の声色が、表情が、自分のやっている事に欠片も罪悪感を感じていない事実を示していることが、たまらなく悔しい。
こんな奴が、この世に居るだなんて。
奥歯をぎり、と噛みしめると、続いてぼくは口を開く。
「それに!―――あの子には、一生掛ったって返し切れない・・・でっかい借りがあるんだ」
「はぁ。・・・そうかい」
ため息を一つ。
ぞっとするような、温度のこもらない声でつぶやくと、男は両手を開き構えをとりながら―――眼前の少年を見下ろした。
「なら―――死ね」
今週はここまで。




