89.エピローグ:渇き餓え、さまようもの
「珍しいですね。船長が不覚をとるなど」
塩水の民の船長――セドルヴェロワがジャイアント・バグの操作を終えると、「ふふふ」と妖艶な笑い声が聞こえた。
その声の主はこの船に乗り合わせている技官、ラクチェ。
歳はまだ20半ば。技官というには少々露出の強い服に身を包んだ、切れ長でまつ毛の長い双眸の女性だ。
どこか豹を思わせるしなやかさがあり、その眼は男に媚びているようで、だがその実、どこまでも本性を隠している周到さを感じさせる。
艶かしい肢体を露わにするラクチェは、セドルヴェロワにバグが撃破された後遺症がないのを見てとると、嬉しそうに微笑んだ。
「ああ、してやられた。あれがまだ学生とはな。さすがはレヴェンチカというところか」
素肌に張られたシール状のセンサー(バグは、このセンサーから操縦者の動きを読み取って動くのだ)を剥がして、操縦室の外に出る。
セドルヴェロワは狭い操縦席から外に出た解放感で、大きく深呼吸をした。
密閉された操縦室から出ると、ここも船のなかでも空気が美味く感じられるのだから不思議なものだ。
もっとも、2メートル近い身長をもつセドルヴェロワからしてみれば、船内はどこへ行っても狭いのではあるが。
「いつみても美しい体。どれだけ戦えばこのようになるのですか?」
すると、待ってましたと言わんばかりに、ラクチェがぴったりと寄り沿ってくる。
彼女は笑いながら、むき出しになったセドルヴェロワの濡れた肌の、幾十もついた傷跡を愛おしそうに撫でる。
(いつ以来だろうな。こんなにも汗をかいたのは)
バグは操縦者の動きをトレースして動くのだが、この汗はその運動のせいというわけではない。
遠隔操作とは言っても、バグのダメージはある程度フィードバックされるのだ。
フィードバックされる感覚はバグの反応速度に比例し、ジャイアント・バグほどのものともなれば、操縦者にもかなりのダメージが跳ね返ってくる。
下手なものが操縦すれば、心臓を止めかねないほどのダメージ。
セドルヴェロワの肉体を濡らす凄まじい量の汗は、その証左であった。
「何が美しいものか。こんなものは敗北者の証にすぎぬ」
――塩水の民は常に勇者に敗北してきた。
セドルヴェロワの傷は世界各地で、直接的に勇者と相対して戦い続けた結果である。
塩水の民は空中戦でレヴェンチカ――マシロの眷属を圧倒してきたのではない。空中戦以外に勝てる場所がなかったのだ。
そしていま、唯一神マシロが率いる勇者たちは、空さえも己の手中に収めようとしている。
「……お前から見て、あの道具はどうだった」
今回、危険を冒してまでレヴェンチカの上空にやってきたのは、今年から実戦投入されたあの道具の戦力を測るために他ならない。
「はい。バグに比べるとまだまだ児戯ですね。とはいえ……」
「発展の余地はある、か」
先史文明の技術を保持しているとはいえ、塩水の民などしょせん少数民族。
世界を支配するマシロのまえには泡沫勢力でしかないのだろう。
それに――
「もうしわけございません。
ジャイアント・バグといえど、いまだにあなたの力量に追いつかないようです」
「いや、油断した俺が悪い。――いや、それはあの娘に対する侮辱だな」
確かにジャイアント・バグではセドルヴェロワの十全の力を引き出すことはできていない。
だが、あのクロマグロに乗った少女は純粋に強かった。
初めに見たときは何の冗談かと思ったが、
「ああまでしてやられると笑うしかないな」
完膚なきまでの敗北。勇者にさえあれほどに鮮やかに敗北したことは、記憶にない。
「何をおっしゃいますか! バグなどというオモチャではなく、船長が直々に出ておればあのような小娘、相手になりませぬ!」
ラクチェはそう言うが、現在、塩水の民が持ち合わせている最高の航空戦力がジャイアント・バグだ。
逆に言うと一族でもトップクラスの実力を持つセドルヴェロワが、それを操縦して敗れたのだ。
それは、現状、空中戦であの娘を倒す手段はないということでもある。
空を我が物顔で蹂躙していた塩水の民が、初めて出会った天敵と言えるのかもしれない。
(そう考えると、無茶をしてでもここで殺しておくべきだったのかもしれないが……)
「我らも座しておるわけではありません! いま開発中の次世代のバグであれば――」
ムキになって少しだけ素を出しはじめたラクチェに、セルドヴェロワは微笑みを浮かべた。
娘ほどの年齢の女性がムキになるのは、見ていてどこか父性を呼び起こされて仕方がない。
だからだろうか、感慨深くなって、セドルヴェロワは船の窓から外を見た。
「時代は変わる、か」
かつて地上で何度も相対した最強の勇者、ヴァンが言っていた言葉を思い出す。
だとすればあのマグロに乗った娘が、そのきっかけのひとつなのだろうか。
「……セドルヴェロワ様?」
思いを馳せるセドルヴェロワに対し、ラクチェが眉をひそめる。
セドルヴェロワはラクチェを見ると焦燥感に駆られることがある。
先史文明を保持していると言えば聞こえはいいものの、その実、塩水の民はずっと衰退している。
人口の減少は技術の衰退につながり、分断された文明の階段を修復するどころかさらにほころびさせつつある。
「我らも変わらねばならぬときがきているのかもしれぬな」
文明の階段を維持しようとする塩水の民と、新たに自分たちの文明を構築しようとしているマシロたち。
正しいのは果たしてどちらか。
「いや、迷い言だな。これは」
そんなセドルヴェロワの感傷を振りほどき、塩水の民の船は今日も空をさまよう。
大海原のなか、真水を求める遭難者のように。
塩水の民はあくまでも人間枠の相手です。
ときに戦い、ときに共闘したりするかもしれません。
基本的に、主人公の敵はもっと強い大精霊や神々、魔王など人知の及ばない相手とかになります。