136.かつて、空を摩(こ)する場所で
リゼットさんたちと一緒に、白い部屋からひょいっと扉をくぐって外に出ると、どこまでも透き通った漆黒の晴天が広がっていた。
……なんて言うと、たかだか夜空をこまっしゃくれた言い方しやがって! なんて思うかもだけれど、その光景――煌々と輝く太陽をたたえる空は、そうとしか言いようがない代物だったんだ。
地球の空はどうして青いのか?
かなり端折って説明すると、空気によって、太陽光に含まれる青い光が散乱されるからだ。
……うーん。わかりにくいと思うから、ちょっと問題を出すね。
もしも地球で一番高い山、エベレストのてっぺんから空を見たらいったい何色に見えるでしょう?
答えは青よりも深い紺色!
わざわざエベレストに登頂しなくても、飛行機から上を見上げれば、深海の青の空がこんにちわするから知ってた人もいたよね。
要は高度の高い場所であればあるほど、空気の影響を受けなくなって黒く見えるのである。
つまり、エベレストや飛行機よりもさらに高いところから見上げた空の色はというと、
「わぉ……」
目が眩むほどのまばゆい黒。
これってちょっと不思議な感覚かも。
太陽が照っているにも関わらず、天は夜空のように黒く。なのに足元は明るくて、くっきりと影が浮かび上がる。
いったい、ここってどれくらいの高度なんだろうね?
ひょいっと街の端から身を乗り出したぼくの目に映ったのは、
「ふぉおおお……」
高度は3万キロメートル也。
天にぎりぎり届かない、空を摩する場所。まさに摩天楼。英語で言うとスカイスクレイパー。
そんな特別な場所にだけ許された明るくて暗い空は、思わずため息が出るほどにどこまでも透明でまばゆい黒を讃えていた。
そこから見えるのは青々とした、地球を思わせる1個の球体、母なる惑星だ。
――かつて2000年前、浮遊島世界は世界はひとつの球体であったという。
だとすれば、ぼくが見ているこの夢は、2000年以上の昔。先史文明と呼ばれている文明が最盛期を迎えている時期ということなのか。
地上と摩天楼を結ぶのは長く太い一本の柱のみ。
いったいどういう材質でできてるんだろね? ぱっと見た感じだと、あんな柱だけでこの質量を支えることなんてできないと思うんだけど。
次に、ぼくは街のほうに視線を移す。
人工的というのが街の第一印象だった。
街というのは人間が作るものなので、そりゃまあ人工的なものなんだけど……デザイナーズシティとでも言えいいのかな?
白く、清潔で、でもどこかファンタジックな中層建築物が立ち並んでいる町並み。
公園をふと横切ると芝生が丁寧に敷き詰められ、大勢の人たちが座って談笑し、その横を怪我をしないよう底が砂利で覆われた小川が流れ、子供たちがはしゃぎまわっている。
キャッキャと子どもたちの喜ぶ声を聞いていると、理想郷というものがあるとすれば、ここはそれに近いのかもしれない。そんなことさえ思ってしまう。
ちょっと気になることと言えば、街の中にはたくさんの人が生活しているけれど、犬人や猫人などの亜人がいないことだろうか。
代わりと言ってはなんだけど、あちこちに毬藻が浮遊し、モップのような集合体を作ってワシャワシャと建物の壁を清掃していたり、ドローンよろしく空を飛んで荷物の配達をしていたり。
さすが2000年前の夢。始原の魔法のバーゲンセールである。
そんな街の中でリゼットさんたちはと言うと、
「まったくもう! この大事な日にこんな時間まで読書だなんて、あなたには力を持つ人間としての自覚が足りません!」
「あらあら、まだ時間は大丈夫よ」
「ギリギリまで粘る人がいますか!!」
ぷんすかと怒るマシロにリゼットさんが、あらあらうふふと引きずられていく。
ぼくはそんなリゼットさんの頭の上にちょこんと鎮座しながら首をかしげる。
大事な日ってなんじゃらほい?
うーん。疑問に思っても、リゼットさんにもマシロにも言葉が通じないから質問のしようがないんだよなぁ。
むむむ、どうしよう。と考えていると、ちょうどゴブリンの一群が通り掛かる。
『ちょっとちょっと、そこゆくゴブリンさん。聞きたいことがあるんだけどさ?』
『エラー:1582。パラメータエラー。該当の命令コードは定義されておりません』
は?
『あのさ、大事な日って――』
『エラー:1582。パラメータエラー。該当の命令コードは定義されておりません』
返ってきたのは機械的な返答だった。
ぼくが体験してるこの個体だけが特別なのか、どうやらマシロが言っていたように、この時代の一般的なゴブリンというのは、こういうものであるらしい。
『ちっ。なんてつかえねーヤツ! やっぱり単細胞植物はダメだな! やっぱりマグロがナンバーワン!! 悔しかったらなんか言い返してみろー!!』
『エラー:1582。パラメータエラー。該当の命令は定義されておりません』
くそったれー! 憎まれ口さえ通じなーい!!
ぼくの罵声にも、ゴブリンたちは壊れたラジオのように繰り返すのみである。
あーん、もう! この夢のなかでぼくは何をすりゃいいの!?
いったい誰がぼくにこんな夢を見せてんのか知んないけどさ。何かをさせたいってんなら、もうちょっと優しく手順を示してプリーズ!
ほら。ぼくってば最近の若者だからさ! チュートリアルはちゃんと整備しておいてくんないと困るんだよね!!
ぐぬぬ。この際、マシロでもいいや。ヘルプミー!!
「いいですか、ミス・リゼット。力を持つ人間には力に比例した責任が――」
ええい! マシロなんかに助けを求めたぼくがバカだった。リゼットさん、助けてー!!
「あらあらまあまあ」
言葉が通じないどころか話しかけてることすら認識されねー!!!
誰かに語りかけることもできず、同族には自我がなく、そしてぼくはやるべきことがわからない。
ぼくはこの夢の世界のなかで、あまりにも孤独だった。
『……寒い』
ふと、誰かがつぶやいた。
『……寒いよ』『寂しい』『返事してよ』『エラーじゃないよ?』
その声はぼくのものだった。
いや、正しくはこの群体――夢の主の感情そのものだった。
例えば、自動掃除ロボットに急に自我が芽生えたとして、人間はそれをどうやって認識できるんだろう。
誰にも認識されない自我は、果たして自我と呼ぶことができるんだろうか。
この世界に、突如として自我を持った群体は、冷たい孤独の中にいたのだ。その感情を寂しさとも知らずに……。
・
・
・
と、普通ならしんみりするのかもだけど、あいにくぼくはクロマグロ。
言葉が通じないならサバサバと次の行動に移るのみ! そう、クロマグロはサバ科の生物なのである!!
言葉が通じないなら次なる一手はボディランゲージ!
くいっ くいっ。
へいへい、古代人。醤油の貯蔵は充分か?
日本人なら見ただけで醤油を用意したくなると万人に言わしめたマグロダンスをくらえ!!
「……ゴブリンさん、なにやってるの???」
しまったー! そういえばリゼットさんって日本人じゃなかった!!
しかも、言いたいことは相変わらず伝わってねー! なんとか頑張ってアピールしてようやく異変に気づいたという程度。
でも、それでもいいや。
誰かに認知されるっていうのは嬉しいね。
ぱぁっと心のなかに陽光が差したように、暖かいものが広がる。
『――リゼット、好き』
その言葉がトリガーだったのか、その瞬間、記憶と感情が爆発的にぼくの脳裏に吹き荒れた。
『リゼット大好き』『名前くれた』『アーフェアって名前』『ぼくらに優しいのリゼットだけ』『遊んでくれるのリゼットだけ』
それは、まるで生まれたての鳥のひなが、初めて見た生物を親だと信じるかのような、いわば狂信に近い感情だった。
孤独が癒やされていく。それは恐らく依存と呼ばれる状態なんだろうけれど、未熟な精神をもつ彼らにはそれでよかった。リゼットさんがいれば彼らにはよかった。
『――でも、いなくなっちゃった』
世界が一変した。
いったい、何年経ったのだろう。
ぼくは誰もいなくなった、折れた柱の跡地にいた。街は無残な廃墟となり、美しい球体だった星も無数の断片に分かたれて虚しく宇宙を彷徨っていた。
いったい、何があったのか。ずいぶんと増えたアーフェアはただ無感動にそれを見ていた。
1年、5年。10年。孤独なまま時間が過ぎゆく。
毬藻は生きていくのにただそこに在るだけでいい。生殖行動も必要としない。喜びも、悲しみも、何も必要としない。太陽と水さえあれば、生きていける。細胞分裂で増えていける。
20年。50年。100年。
拙い自我が朽ち果てていく。
でも、それとは反比例して、ぼくらは細胞分裂で数を増やしていく。
101年目にマシロがやってきて、へし折れた柱の跡地に世界樹の苗木を植え、後にエルフの始祖になる者を置いていった。
300年経って、世界樹が柱をすっぽりと覆って見えなくなった。
1000年経って人間たちが移住してきた。
『でも』『誰もぼくらのことを』『知ろうとしない』『理解する気がない』
森人はゴブリンへ命令するための、先史文明のプロトコルを維持してはいたものの、扱い方はあくまでもそれは家電に対するそれだった。
アーフェアは悲しくなった。
命令が下されるたびに――リゼットさんの遺品である指輪が持ち出されるたびに、もうこの世界には彼女がいないという事実を突きつけられるから。
(なるほど)
ぼくはようやく理解した。これが誰の夢で、なんのために見せられているのか。
言うまでもなく、これは世界樹の精霊と呼ばれているアーフェアの夢だ。
じゃあ、誰がなんの為に見せたのかというと……
ぼくは醒めつつある夢のなかで彼女に尋ねた。
「あなたは後悔してるんだね。……アーフェアを孤独から救うことができなかったことを」
そして、ぼくは目を覚ました。
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「ぐ……ぐぎぎぎ!!」
目覚めたぼくの耳に飛び込んできたのは、ウィルベルの唸り声だった。
ぎゅぎゅっと凄まじい圧力をもって、汚染されたゴブリンの壁が押し寄せてきている。ウィルベルは中トロモードのパワーで抗ってはいるものの、もってあと3分。それを過ぎればグチャっと潰されて見るも無残な状態になることだろう。
でも、そんな危険のなかにあって、ぼくは落ち着いていた。
「おはよう、ウィルベル」
「おはようなんよ、ミカ」
ぼくののんきな言葉に、ウィルベルが歯を食いしばりながらも微笑みで返してくれた。その表情を見て確信する。
(リゼットさん。あなたはアーフェアへの対話の仕方を誤ったと思っているかもしれないけれどさ)
ぼくは、じぶんのお腹のなかにあるソレに話しかけた。昨日、クロラドの女の娘から出てきた魔法宝石に。
(でも、ぼくの意見はちょっと違うかな?)
やるべきことはわかっていた。
---セドルヴェロワ視点---
まずその異変に気づいたのはセドルヴェロワだった。
「どうかしましたか?」
セドルヴェロワの操るバグが足を止めたことに、プラパゼータが訝しげに尋ねる。
「……森が、ざわついている」
いや、森がざわついているのはずっと前からだ。
怪獣が接近しつつあるのに、平常でいられる生物などいない。恐怖しない生物などいない。
だがしかし、このざわつきはそれとは別種のものであるように感じられた。
「…………」
森の向こうから、まず見えたのは10ほどの飛行する影だった。
「鳥、ですかね? あるいは魔獣?」
いや、鳥にしては飛び方が変だ。それに、このざわつきはそういった類のものではない。
もっと森の芯を震わせるような――
「おおぉ……」
次に見えた光景にプラパゼータが深く、感嘆のため息をついた。
「素晴らしい。なんという……」
飛行する影が100を超え、1000を超え、数えることがバカバカしいほどにその数を増していく。
ゴゴゴ、と雷を思わせるほどの音を立てて。
空の向こうから集いつつあるのは、空一面を覆い尽くすほどのゴブリンたちだった。
作中に出てくる「暗くて明るい空」については登山家さんの撮ったエベレストの写真を見ると想像しやすいかもしれません。
https://twitter.com/nature_yukiueda/status/1278305949904596992
【参考】写真家の上田優紀さんのツイッター(写真付)