128.心、熱くして
(2021/2/15)
前話のあとがきに書いていた件ですが、下記の話にウィルベルが【聖女】と呼ばれ始めているというエピソードを追加しました。
121.幕間:殺してでも奪いとる
122.脳天直撃、頭が;y=ー( ゜д゜)・∵. ターン
ちなみに意味は『お腹空いたら聖書とか齧ってそうな女』。略して聖女です。
『……けて』
それはあまりにも小さく、弱く、儚い声だった。
感情そのものを声にしたような、そんな音。
はっきりと”音声”というには現実感がなく。だからと言って、幻聴と言って切り捨てるにはあまりにも切実な音だった。
いや、聞こえた、と言うと語弊があるかもしれない。
――魚には側線という器官がある。
文字のとおり、魚体の側面にある感覚器官で、いわく魚類に備わる第六感。人間では聞き取れないような音を聞き、周囲の状況を、文字の通り肌で感じる器官である。
その、ハエが水面に落ちる音すら逃さないという超感覚が、その音をとらえていた。
(ウィルベル、いまの……)
(うん。うちにも聞こえたんよ。とは言っても、ミカを通してだし、何を言うたんかまではわからんかったけど)
「……ウィルベル先輩、どうかされたのですか?」
目配せをし合うぼくたちに、アリッサちゃんが期待と不安の入り混じった視線を向ける。
やっぱりというかなんというか。聞こえていたのはぼくたちだけだったらしい。
「……」
アリッサちゃんの期待が痛い。
声が聞こえたと言っても、ぼくたちもアリッサママと意思疎通ができたわけじゃないからね。それどころか、さきほどの言葉以降、いっさい反応なしなのである。
積極性が著しく欠けた状態をマグロって言うけれど、まさにそれ。
こっちから熱烈なアプローチする必要があるのだとは思うのだけど……でも、うーん。普通に考えたら昨日の再現をするべきなんだろうなぁ……。でもまさか、おしっこひっかけるわけにもいかないしなぁ。
「――大丈夫よ」
思考の最中、ふと口を開いたのはシエルだった。
彼女はぼくたちの沈黙を何か勘違いしてしまったらしい。ちょっと眉を険しくして、
「わたしたちエルフは、腐海の病の治療を最大の使命としてきたの。そのために2000年以上に渡って研究を続けてきたのよ。それでもようやく変異を遅くすることしかできなかったの。
だから、大丈夫よ。なにもできなくとも責めたりはしないから」
シエルの言葉の大元は、怒りかもしれない。
そりゃそうだよね。親の代の、さらに親の代から続けている研究に対して、ぽっと出の勇者候補生が「もしかしたら、自分にならなんとかできるかも。テヘペロっ」って言い出したら、そりゃちょっと不機嫌になるよね。わかる。超わかる。
でも、そういう視線を向けられると、俄然やる気が出るのがぼくという存在なのである。
「よし!」
ぼくは気合を入れてアリッサママの前に立った。
なんかよくわかんないけど、よくわかんないなら、よくわかんないなりにやるのみである!!
相手がマグロ? そんならこっちはマグロの最上級なクロマグロよ。よゆーよゆー。なんとかなるって! クロマグロのコミュ力を信じろ!
すーはーすーはーと深呼吸して、みんながごくりと唾を飲み込んで見守るなか、尋ねてみる。
「おっぱい揉んでもいいっすか?
――やめて!? みんな、そんな冷たい目で見ないで!? なんか勘違いしてる!!!」
ウィルベルたちがマイナス60度くらいの冷たい視線をむけてくるけど……違うの!
これはね! イエス・ノーで答えれる質問をすることで、相手の判断力も同時に測ろうとしたの!
この質問なら、イエスって答えたら判断力が失われてるってわかるでしょ!? 声が聞こえているかの判定と、正常な判断力があるかの判定を同時に行う、一石二鳥の素晴らしい質問だったってわけ!!
それにね! ちょっと思い出してほしいんだ! 例のフカビトと戦ったとき、塩水の民の少女が自我を取り戻したキッカケを!!
おしっこを顔に引っ掛けられて、怒りが沸点に達したからだったよね!?
この世界の魔力とは人の心。
ゆえに、感情をダイレクトに揺さぶることで、何かしらの反応が返ってくるかもって思ったんだ!
そして、”揺れる”と言ったらおっぱい!
そう! これは人道的な行いを目的とした質問であって、ぜんぜんエッチな質問じゃないんだ!!
まあ、イエスって答えてくれたら、思う存分おっぱい揉みしだくんだけどね! ぐひひ。
さて、ご返答は!?
「……」
残念無念。返答なし! でも、
「なんということ……」
思わず、アリッサちゃんを上げる。
答えはなかったけれど、その代わりにアリッサママの指が、何かを求めるように揺れたのだ。
まるでぼくを探すように、さまよう指が空を切る。その動きは溺れた子供が助けを求めるにも似ていた。
ぼくがその指に腹びれを這わせると、アリッサママは安堵したような表情を浮かべ、
『あたたかい』
そして――ああ、なんということだろう。
さっきまでのぼくは気づかなかったけれど、いまの言葉を聞いて、聴力のチャンネルがそっちの方へ向いてしまったのだろう。
『助けて』『怖い』『何も聞こえない』『何も見えない』『動けないよ』『ママ、助けて』
ぼくの側線を叩いたのは、ここに隔離された重症者、総勢2000名の絶望の声だった。
そのほとんどが、まだ幼い子供たちの無垢な恐怖!
「うぐっ……」
ぼくを通じて、その声をもろに聞いたウィルベルが嗚咽を漏らし、思わず口を手でおさえた。
この場所は……、この冷たい石造りの塔は残酷すぎる場所だ……。
誰かがお見舞いにきても、激励しても、その声は彼らには届いていなかった。
でも、処分を待っているだけの、意識がないと思われていた人たちは、しっかりと意識をもっていた。絶望のなかでうめいていたのだ。
そのあまりにも残酷な現実に、ウィルベルの心がぎゅーっと悲しみに締め付けられる。
「ウィルベル。どうしたでありますか。何が聞こえたでありますか!?」
ニアが気遣ってくれる。けれど、ウィルベルの目から涙があふれる。
(うちは……なんて、無力なんや……)
言葉にはしなかったけれど、ウィルベルが首を横に振る。
自分たちが非力なのが悔しい。苦しんでいる人たちに何もしてあげられないのが悔しい。
声が聞こえるからって、どうしたっていうんだろう。
言葉はしょせん道具だ。目的を達成できないツールになんの価値があるというのだろう。
アリッサちゃんは期待してくれたけれど、ぼくらはそんなにすごい存在じゃないのだ。
「先輩………」
アリッサちゃんが気遣うように声をかけ――
「こんなんじゃいかんね!」
ウィルベルは突如、バシーンと手のひらで顔を叩いた。
「せやろ? ミカ」
自分の無力さに悔しがっている場合ではない。それは勇者を目指す者の業ではない。
無力上等。ならば、力が足りるように努力するのみ。それが勇者の卵――ウィルベルという女の子なのだ。
ウィルベルが、アリッサママの手をしっかりと握る。
瘴気が伝染るからダメだって言われているけれど、それでも握った。力強く。
「いつか……。ぜったいに、いつか。うちらが助けるからね」
ウィルベルがアリッサママ――いや、この場にいる人たちに宣言する。
それはあるいは無責任な放言かもしれないけれど、でもここで誓うことで、それを現実にすることができると思ったのだ。
――その声が通じたのか否か。あるいはそれはただの偶然だったかもしれない。
「目を……開いた……」
アリッサちゃんが信じられないものを見た、と言わんばかりに両手で口を覆った。
とはいえ、その目に何が写っているわけでもなく、ウィルベルやアリッサちゃんを見るでもなく。何かを訴えるわけでもなかったけれど、
『誰か、助けて……』
無機質に繰り返される言葉。
繰り返しすぎて、すでに期待剃ることもなくなった、あきらめの混じった言葉だったけど、だからこそウィルベルは力強くうなずいて、手をもう一度握る。
「うん。助けるんよ。ぜったいに」
もう、涙を流したりはしない。
だから、ウィルベルはこの場にいるすべての人の手を握っていく。頑張れ、瘴気の病なんかに負けるな、って。
いまはまだそんな気休めしか言えないけれど、気のせいかな? 変異の恐怖におびえているひとたちの表情が穏やかになった気がした。
その姿を見て、
「……聖女」
ぽつりとつぶやいたのはアリッサちゃんだった。
世間一般から見たウィルベルは、いまはまだ『お腹が減ったら聖書にかじりつきそうな女』でしかないけれど……。
ぼくの目にも、その献身的な姿は、まさに聖女のように見えた。
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――それとほぼ時を同じくして、エルフの森の南に設置された見張り台で。
「おい、あれってなんだろな?」
森の東――ゴブリンゾンビの群れの動きを監視していたリヴィエラの青年兵士に、ともに見張りをしている同僚が尋ねてきた。
その指差した先には、巨大な真黒な柱があった。
「なんだあれ? やけにでかいが……さっきまで、あんなところにあんなものあったかな?」
言って青年は望遠鏡で観察する。
高さは10メートルはあろうか。その柱の表面にはネジ曲がった縄のような模様があり、蠢きながら少しずつ大きくなっている。
「なにが動いて……。あれは、ゴブリンゾンビ?」
その正体は、地上を埋め尽くしていたゴブリンゾンビたちだった。
渦を巻きながら、引き寄せられるように柱へと呼び寄せられ、柱に触れるとどろりと溶けて、自身を材料として柱に捧げていく。
そこに苦悶の感情はなく、礼拝者のような規則正しい敬虔さでもって柱に吸収されていく。その姿は宗教儀式にも似ていた。
「いったい何が……」
「おい、上を見ろ。あれは塩水の民の船か? だが、何をしようと……」
同僚に言われて、柱の上空へと視線を移す。
そこにいたのは、クロラドの保有する黒船と呼ばれる浮遊有船だ。
「襲われて……いるわけじゃないよな?」
いったい何を企んでいるのか。それはわからないが、あの船が何かをしているのは確実だった。
「……」
見ている間にもゴブリンゾンビでできた柱が高さを増していく。まるで、浮遊有船を地上に引きずりおろそうとするかのように。
あの柱はなにをするためのものだろう。
望遠鏡でじっくりと観察しようとして――彼はぞくりとした。
柱のなかで、邪悪な何かが息づいている。
あれは柱なんかじゃない。繭だ。何か嫌なものがあのなかで生まれようとしている!
「おい! 早く勇者様たちに伝令を――」
だが、その判断はすでに遅かった。彼が叫ぶと同時に柱に亀裂が走る。真っ黒で鋭利な爪が、甘栗あまぐりの皮を割るように、表面を一直線に引き裂いていく。
「あれは……。あれは……いったい、なんなんだ!?」
パニックになった青年が見ている前で、柱が左右にキレイに割れる。なかからゴブリンキングよりも巨大な何かが這い出てくる。
それの目に真っ赤な光が灯ったのを見たのが、その青年の最後の光景だった。
憎悪や嫉妬といった感情を燃料にしたかのような、吐き気をもよおす美しい赤だった。
「ヌアアアアイイイイィィィッッ!!」
それが天に向かって叫ぶとほぼ同時。
この世界の魔法ではありえない長距離からの魔法――超高温の熱光線で、彼らは見張り台ごと、その肉体を焼き尽くされた。
次回は戦闘を始める前に、クロラド視点でちょっと説明が入ります。
更新日は2021/3/1を予定しています。
【おさかな豆知識】
魚が持つ第六感。それが側線です。
文字の通り、魚体の側面に線状に存在する器官で、魚にとって目や鼻以上に重要な器官であるとも言われます。
側線の役割は圧力波を感知すること。――と言うと、なんのこっちゃという感じですが、水中は非常に密度が高く、圧力波が非常によく伝播されます。特に人間の耳では聞き取れない超低周波音は敏感に伝播されるわけですが、魚は側線でこの圧力波を【聴く】ことによって、周囲の動きや水流の変化を検出しています。
水面に落ちたハエを感知できるレベル、と言えばその敏感さが分かりやすいでしょうか。
人間の聴力(※1)は1,000~5,000Hzと言われていますが、魚の側線による聴力(※2)は1~200Hz。人間と魚は違う音の世界に生きているのです。
※1:ここでいう”聴力”は可聴域ではなく、一般的な生活のなかで聞きとりやすいと言われる周波数を指します。ちなみに人間の可聴域は20~20,000Hzです。
※2:魚は、ほかに内耳と呼ばれる普通の耳ももっており、こちらは2,000Hzまで聞こえると言われます。
※上記は一般論であって、魚種によって聴力はかなり異なります。具体的に書くと、サーモンの聴力はせいぜい400Hz。魚類最高値はアメリカンシャッド(ニシン科の魚)の200,000Hz。また、マグロの内耳と側線を合わせた聴力はだいたい50Hz~1,100Hzとなります。