125.妖精郷
水と世界樹の国リヴィエラの北には大森林――【森人の領域】と呼ばれる場所がある。
シエルたちに案内されてぼくらがたどり着いたのは、その中央。10キロ四方の巨大な湖だった。
波の立たない静かな水面。日本でもっとも透明度が高いと言われる摩周湖を彷彿とさせるほどに澄んでおり、冷たい清水は南側に出口を求め、川となって世界樹のほうへと流れている。
湖の南端、ぼくらの目の前には、湖側にせり出すように隆起した半島状の丘があり、その中央に、
「ふぉぉぉ……。あれがエルフさんたちの!」
それを見たウィルベルの第一声は感嘆だった。
空には透き通るような青一色で、燦々と太陽が照りつける。さっきまで薄暗い森林のなかにいたからか、本来以上に明るく感じる。
遠くには突き立つような山脈がはっきりと見え、その影にはっきりと見えるのは白亜の塔……いや、砦。あるいは、城と言ってもいいかもしれない建築物だった。
白色の石壁は削ったようにつるつるとしており、建てられてかなりの時間が経過がしているだろうにもかかわらず、風雨による染みはない。
湖の上には、数千を超えるゴブリンたちが宙を舞い、太陽に照らされて緑色に輝いていた。
エルフさんたちの居住地、湖のなかに建つ白亜の塔は、中世ヨーロッパ風ファンタジーの理想形のように、どこか現実離れした荘厳さを誇っていた。
「ここは、世界樹の塔から飛んできたゴブリンたちがたどり着く場所なのよ」
説明をしてくれたのはシエルだった。
いわく、世界樹から飛来してきたゴブリンたちは、しばらくここでエルフたちと共生し、ワンシーズンだけ生活したあと、森の養分となって消えていくらしい。……川の上流まで登ってきて死ぬとか、鮭みたいな生き方してんな。でも、
「妖精と共生?」
ぼくは首をかしげた。
前に妖精のことを説明してもらったときに、”気まぐれに恩恵を与える”と聞いていたけれど、そんなものと共存なんてできるのかしらん?
「ええ。普通ならありえないと思うでしょうね。それを可能とするのが――しっ」
シエルの指が、ぼくの口を閉ざす。その視線の先にいるのは……野生のイノシシ?
湖の水は、この大森林に住む生物にとって、重要な水源であるらしい。ごくりごくりとおいしそうに飲んでいる。
「? あれがどうしたの?」
魔獣でもなんでもない、ただのイノシシに見えるけれど。
ぼくらがクエスチョンマークを頭に浮かべているなか、シエルが油断なく周囲を見渡す。
「臭いを感じない?」
「臭い?」
くんくんと嗅いでみる。つーんと漂ってきたのは……山椒のにおい?
野生の山椒でも生えているのかな? なんて思った、その瞬間だった。
ざばぁっ!
湖から現れた生物が、イノシシに襲い掛かり――抵抗を許さずに一口で丸呑みにする!
「っ!? ワニでありますか!?」
ニアが叫ぶ。が、違う!
のっそりと現れたのは……山椒魚!? しかも、デカい!
「あれは水サラマンダーです。脅威としては、Bランク指定されている生物です。でも、あんなに大きいだなんて!」
驚いたようにその名を叫んだのは、博物学を専攻しているサーシャちゃん。
10メートル近い体長を誇る水サラマンダーは、大きな口でイノシシをぐにぐにと飲み込んだあと、まだ満腹になっていないのか、愉快な動きであたりをキョロキョロと見まわし、そしてぼくと目が合った。
そういえば、サラマンダーって、グランカティオでエリオ君が使ってた精霊だよね? 水サラマンダーって言ってるけど、もしかしてこれも野良精霊――妖精の一種だとか?
なら、友好的なことを示すため、挨拶の一つでもするべきなのかな?
ぼくはシュタッとヒレを上げ、
「ちゃお! つぶらな瞳がキュートだね。濡れた肌の模様も、とってもプリティ。さっきの大食いだって、ダイナミックで、なんというか……食い意地っていうより芸術的でわんだほーだったよね。ブラボー! ワンダホー!!」
果たして言葉が通じたのか。水サラマンダーは一瞬だけ首をかしげると、すぐにどたばたと手足を動かして、面白おかしな動作でこちらに走ってきた。
でも、その目は友好というよりは、どちらかというと食欲の色が見えるような……。
「なにやってるんですか! あれはサラマンダーと呼ばれていますが、妖精でも精霊でもありません。そう呼ばれてるだけの普通の肉食生物ですよ! ちなみに主食は魚です」
怒っちゃいやん。
サーシャちゃんの言う通り、水サラマンダーは、体の幅ほどもある口を開いてぼくにまっしぐら! その口は、体長2メートルのクロマグロすらも丸呑みにできそうなほどに大きい。
強さがBランクってことは、ぼくが召喚されて、一番最初に戦ったキスリップ・クラーケンとほぼ同等。一般人にとっては驚異的な存在だ。
「だがしかーっし! ふはは。オオサンショウウオなんぞ、しょせん、ウーパールーパーの親戚! クロマグロを食べようなど100年早いわ! ひれ伏せ、有尾類! お前なんて、うちクァイスちゃんにかかれば指先ひとつでダウンなんだからね! ――それいけ、クァイスちゃん。やってしまってください!!」
ずずい。
ぼくはクァイスちゃんの背に隠れて、その背を押した。
「このクソマグロ……。余計なことばかりしくさって」
余計なことをしないぼくに存在価値などあろうか。いやない。
ともあれ、クァイスちゃんは忌々しそうにしながらも剣を抜こうとして――と、剣を抜きかけたクァイスちゃんをサーシャちゃんが制止したのはそんなときだった。
「クァイス先輩。あれは第一級の絶滅危惧種です。殺しちゃダメですよ!」
「ちっ、面倒な……」
日本のオオサンショウウオと同じく、特別天然記念物扱いみたいな感じであるらしい。
それでも、峰打ちで倒そうとクァイスちゃんが剣を抜こうとした、そのときだった。
「なんじゃなんじゃ。最近の若者はなっちゃおらんのう」
ぼくらの頭上を人影が飛び越えていった。
その正体は――
「女の人!?」
老年とも言える年齢のエルフの女性だった。
見た目は80歳くらいだろうか。エルフらしい美しい金髪と碧眼。白いローブを羽織った老婆は、こちらに走ってきている水サラマンダーの前に、仁王立ちで立ちはだかった。
でも、無茶すぎる! 体重差にして、おおよそ100キロ以上。およそ、まともな戦いになるとは思えない。
ウィルベルたちも同じことを思ったのだろう。老婆を助けようと走りだそうとして、
「よい機会だ。見ておくといい」
それを手で制して止めたのは、マーテルさんだった。
見ておくって何を? そんなこと言ってる場合じゃ……
「――ぬんっ!」
でも、その心配はすぐに杞憂になった。
老婆が指輪をはめた拳を突き上げたかと思うと、突如として、四肢に魔力がみなぎった。走りくる水サラマンダーに向かって、腕を突き出し……
「うそぉっ!?」
ぼくが見たのは、水サラマンダーの顔面をアイアンクロウで鷲掴みにして宙づりにする老婆の姿だった。
【オオサンショウウオ豆知識】
オオサンショウウオ。
英名はjapanese giant salamander。直訳すると、日本にいるでっかい有尾類。
『捕食する時に、大きな口が、まるで体半分に裂けている様に見える』ことから、日本の一部地域ではハンザキとも呼ばれます。
見た目はのんびりしていますが、ハンザキの語源となった大きな口で、魚やカエルなどを丸呑みにしてしまう獰猛な肉食生物です。
特に有名なのは、岡山県でハンザキ大明神として祀られている、伝説のオオサンショウウオ。
体長3丈6尺(約10メートル)もあり、人だけでなく牛馬すら捕食していたという逸話があります。