118.大災害(スタンピード)
次の日。
「……」
ぼくとウィルベルは上空から、沈黙とともにその光景を眺めていた。
ぼくらの目の前に広がっているのは、ゴブリンゾンビたちの浸食が広がっていく様だ。
塔からジワリジワリと染みが広がるように、瘴気を放ちながら支配領域を増やし、進路上の草原を飲み込み、木々を腐敗させて、ぼろぼろにしていく。その痕に残るのは、バッタに食い尽くされた荒野のような、無残な大地のみ。
プルセナ先生の苦渋の決断の、その結果が目の前にある光景だった。
さいわいなのは、ゴブリンゾンビたちには湖を渡る能力がないことだろう。
三日月状の陸地に沿って勢力を伸ばしているものの、人の居住地に至るまではまだしばらく――この速度であれば3日程度は余裕があるように見受けられる。
逆に言うと、このゴブリンゾンビたちを止めるのに許された時間はたった3日だけということだけど。
「ウィルベル、あそこ……」
塔に近い村落では、すでに避難勧告が出されていて、人々が移動を始めているのが見えた。
リヴィエラの騎士団の人たちの指示のもと、ぞろぞろと貴重品を荷馬車に乗せて集団で避難する姿は、まさに被災者だ。
「……」
ぼくの背にまたがるウィルベルが、その光景を見て、無言で、唇を噛み締めて、ぎゅっとこぶしに力を入れる。
あのあと。
モジャコに戻ってきた先生たちとレアさんは軽い打ち合わせの結果、リヴィエラの軍および戦士ギルドと、レヴェンチカによる反抗作戦を3日後に暫定的に決定していた。
3日後な理由は、プルセナ先生や生徒たちの魔力の消耗。
リヴィエラ国軍だけでも戦えばいいんじゃないのかな? って思いはするんだけど、大規模な戦闘になると、あのゴブリンゾンビたちのなかからゴブリンキングに合体・進化してしまうものが現れる可能性があるのだそう。
そうすると、勇者さんじゃないと相手ができないので、どうしてもプルセナ先生の回復を待たなければいけないってわけだ。
この世界では勇者と呼ばれる人たちが圧倒的な強さを誇っている。……のだけれど、こういうところが弊害でもあるなぁ、と思わされる。
たった一人の動向が、人々の人生を左右する。よくも悪くも『英雄の時代』とでも言うべきなのかもしれない。
「……悔しいなぁ」
ウィルべルがゴブリンゾンビの群れを見てつぶやく。
アレを止めなきゃいけないのはわかっているのに、その実力を持ち合わせてはいない。そんな力不足を自覚して、ぎゅっと心が締め付けられているのだろう。
さらに、ぼくは眼下にある湖を眺め見る。
日光が水面を照らし、湖岸独特のちゃっぷんとした湿度。キャンプに最適なきれいな水、と言いたいところだけど。
「ウィルベル……」
「うん……」
微量ではあるけれど、ぼくらの目には瘴気が混ざっているのが見える。いや、瘴気が混じっているのは湖だけではない。島全体の空気がどこか淀んでいるのを感じる。
首都の大通りを歩いている男性が「こほっこほっ」と咳き込む。
腐海の病――瘴気を原因とする病の初期症状。アリッサちゃんは、この時期恒例の光景だと言っていたいたけれど……今年は体調を崩す人は例年より多いらしい。
「ゴブリンキングが湖に侵入したせいなんよ?」
「濃度を考えると、それだけとは思えないけど……」
フカビトの発した瘴気も、出現していた時間と湖の広さからしてみれば、ほとんど誤差に近いはずだけれど、それでも瘴気は確実に人々の体を蝕みつつある。なるたけ早く、世界樹の塔を攻略する必要があるってわけだ。
……気になることはまだ他にもある。
「逃げていった塩水の民の船、やな」
なんでも、あの損壊具合だとほかの島まで航行することはできないため、島のどこかに不時着、潜伏しているだろうと予測されている……のだけど、なにせこんな状況だ。
下手につついて事件を起こされても困るし、かといって放置して余計なことをされるのはもっと困る。というわけだった。
「この街のどこかにおるんかな」
ウィルベルがつぶやく。
いかに塩水の民といえど、修理には資材が必要なはずだし、修理が長期にわたるのであれば、食料だって買いに来るはず。
「一回、会ってみたいなぁ」
「? 会って、殴り合いでもするの?」
うちのご主人様ってばもしかして、夕日をバックに殴り合えば、誰とでもわかりあえるとか思ってるのかしらん?
「……ミカってばうちのことを単細胞やと思っとらん?」
「うん。めっちゃ思ってるけど? ――ああ、ウソウソ! だから頭蓋骨をアイアンクロウで砕こうとするのやめて!?」
ぐえー、頭から希少部位が出そう。
「ほんまにもう。ミカはまったく……。確かにうちはあんまし賢くないけどね。でも、だからこそかな? こないだ答えてもらえなかった質問の答えを聞いてみたいなぁって思うんよ」
質問の答え、ねえ……。
「ただのテロリストじゃないの?」
「かもしれんけどね。さっきのあの子がね。そういう感じじゃなかったように思ってね」
ちなみに、昨日の塩水の民の少女は、あの一瞬だけ意識を取り戻したものの、すぐに気を失って病院に搬送されていた。
体も変異したままであり、元に戻る可能性はほとんど……いや、正直に言ってしまうと、まず二度と戻らないらしい。
「不思議なことなんやけどね。殴り合うと、相手の心がなんとなくわかることあるやん?
あの子ね。あんな目にあったのに、そのこと自体には誰のことも恨んどらんかった。『ありがとう』って言うたあの言葉は、止めたうちへの感謝やった。――誰かに危害を加える前に止めたうちに、感謝しとったんよ。
うちってばアホやからね。バグと戦ったときは怒りが先に来て、聞く耳なんて持たんかったけど」
「もしかしたら、あの人らにだって、なにか理由があるかもって?」
「そゆこと」
そーゆーもんなのかな?
個人的にはテロリストとは対話しないのが基本的な対策だと思うんだけど。
あ、でも、なにか要求を突きつけてきてるわけでもないのか。
そう考えるとテロリストっていうよりは、はた迷惑なマフィアみたいなもんなのかもしれない。
どっちにしろ、対話すべき相手かって言われると疑問符がつくところではあるけど。
っていうか、うちの御主人様ってば、やっぱり拳で語り合える人種なのね。
そんな話をしていると、
「ウィルベルー! 式典の準備が整ったから、そろそろ降りてくるでありますよー」
地上――リヴィエラの王城のテラスからニアが手を振り、ウィルベルを呼んだ。
なんの式典って?
「ウィルベル、早くするでありますよ! 国から褒章をもらえるなんて、なかなかないことであります!」
昨日のウィルベルたちの功績を讃える表彰式である。
【マグロ豆知識】
マグロの最高速度は時速100キロメートルを超え、イルカやシャチなどの水棲哺乳類を凌駕する、という説があるのは有名です。
魚>哺乳類な理由はいくつかありますが、そのうちのひとつに【魚は痛覚が鈍い】というものがあります。
というのも、水中では、地上=空気中よりも抵抗があり、ヒレを動かす速度を速くすればするほどに水流による渦が生まれ、ヒレを傷つけてしまいます。
このとき、イルカやシャチなどの哺乳類は痛みに耐えられず減速してしまいますが、魚類は痛覚が鈍いのでヒレが傷つくことも厭わずに、最高速度でぶっ放せるのです。
フィクション作品では、「100%以上にパワーアップする代わりに、体が壊れていく」――いわゆる【火事場の馬鹿力】を発揮するキャラが登場したりしますが、マグロにとってその程度のことは日常茶飯事なのです。