109.瘴気の呪い(☆)
(2020/11/1)連載再開にあたり、一部修正しました。
1.序盤から敵を明確にするために、人間と敵対的な生物(クラーケンやドラゴンなど)を魔獣とし、そうでない生物(イワシやニシンなど)を魚類としました。
2.魔獣は、空のあちこちに点在する『腐海』と呼ばれる瘴気の溜まっている場所からやって来る、としました。
3.101話に、【世界樹は瘴気を集めて浄化する役割を担っているが、浄化の間に合わなかったぶんを廃棄物として、汚染されたゴブリンを生み出す】という会話を追加しました。
4.これからアーニャ先生の見せ場になる予定でしたが、戦闘がクソ長くなったので、プルセナ先生たちと一緒に飛んでったことになりました。
「アァァァ……」
塩水の民の少女がうつろな目をして、よろめきながらうめく。
ぱっと見た目は15歳くらいだろうか。ウィルベルと同年齢に見える。だけど、その顔色は悪く、目は爛々と鮮血のような赤色に輝かせ、虚ろに視線をさまよわせる。
「だ、大丈夫なんよ……?」
ウィルベルがおそるおそる声をかけるも、その眼は焦点があっていない……というか、ゴブリンキングのような禍々しい瘴気をまとっていて、どっからどう見ても「あ、これやばいやつ」って感じ。
「近寄るな!」
叱責したのはレアさんだった。
無防備にかけよろうとしたウィルベルを制しながら、少女に対し、鋭い視線を向ける。
「この娘、湖水を――瘴気を飲みすぎたな……。見ろ、あの髪の色を」
「髪の色? 言われてみると、なんか虹色に光ってるような……?」
「あれは体内に蓄積された瘴気が髪に表出しているのだ。さきほど、世界樹が瘴気を集めて浄化するという話はしたな? 世界樹が開くこの時期には、多かれ少なかれ、湖水に瘴気が混じるものだが……」
言われて湖面を見る。
湖水に含まれる瘴気は、ぼくですら目視では見えない程度の濃度だ。
もしかしたら、この子はさっきのゴブリンキングのなかに囚われていたのかもしれない。そう思ってしまうほどの濃密な瘴気だった。
「ア……ァァァァ……」
少女がモジャコのうえで嗚咽を漏らす。自分のからだを抱きしめながら、まるで何かにおびえるように。
「感覚障害や手足の震えなどの初期症状の段階であれば、打つ手はあるが……あそこまで自我を失っているとなると、もはや手遅れだな。あれはすでに人ではない。腐海の瘴気によって変質した【成れの果て】……魔獣だ」
「よくわかんないけど、やばいの?」
「……はい。何よりも恐ろしいのは、あそこまで瘴気の濃度が高くなると、自身が瘴気の発生源になってしまうということです」
言って、アリッサちゃんが剣を抜き、少女の動きを警戒する。
一挙手一投足を見逃さぬように、息を細く吐いて慎重に距離を測り、レアさんを庇いながら相手の出方をうかがう。
その顔は真剣そのもの。表情だけでどれだけやばい相手なのかわかるくらいだ。
一瞬、船の上が静寂に包まれる。そして――
「ア……アアア……」
少女の顎から、ぽたりと瘴気にまみれた水滴が落ち、じゅっと甲板を汚す。肌が沸騰するようにボコボコと泡立ち始める。
人の形を失いながら、どす黒い、まるでサメの牙のような物を形成していく。物質的に変質していく。
その表面、胸の中心あたりにイクラを思わせる赤い核がぼこりと浮かび上がる。
ぱっと見た感じは、ぼくの額についている魔力宝石のようにも見えるけれど、瘴気が濃縮されて、すさまじい禍々しさに満ち溢れていた。
「ワ……ワタシヲ……」
少女が懇願するように、こちらに手を伸ばす。が、むしろレアさんや甲板にいた生徒たちは警戒を最大にして逆に間合いを広げる。
それが正しい行動なのだろう。誰だって危険人物になんて近づきたくない。でも、ウィルベルだけは違った。
「そっちにいったらあかん! 意識を強く持つんよ!」
まるで溺れる子供を助ける保護者のように、その頭を抱きしめ、声をかける。
甲板に横たえ、服を引き裂き、呼吸を整えさせる。手を握って声をかけ、なんとか1秒でも長く、ヒトでいられるようにと試行錯誤を実施する。
いま塩水の民の少女の精神はギリギリでヒトの側にいる。けれど、少しでも意識を失えばもう戻ってこれない。そんな予感が船上を占めていた。
「ア……アアアア……トメテ……」
目をうつろにした少女がうめく。
つぶやく吐息に、悪臭が混じり出す。
「イヤ………。バケモノ……ナンカニ……ナリタク……ナ……」
少女が懇願するように、こちらに手を伸ばした――その瞬間だった。
ぞわり。と背筋が冷える感覚とともに、
「アアアアアアアアアア!!!!」
甲板の上を跳ねるように、真っ黒なウミヘビのようなグネグネした何かが、少女の口から吐き出された。
その体積は、質量保存どこいった? と言いたくなるほどに多く、モジャコの甲板のみに収まらず、湖にまでも流れ出ていく。
瘴気がうねりながら、形を作っていく。ぼくの前で巨大な何かが形成されていく。
「アアア……」
「うひぃ……」
腐ったような匂いが、ツーンとぼくの鼻孔を刺激する。
その匂いの元は、
「腐海のヒトガタ……」
つぶやいたのはレアさん。
船の大きさにも匹敵する、巨大な化け物がぼくらを見下ろしていた。