復縁はお断り
どこでスイッチが入ったのかはわからない。
その時、わたしの脳裏で記憶が駆け巡った。
「…………!」
歓喜の涙でうっすら瞳を潤ませ、頬を紅潮させていたわたしから、すーっと高まった熱が冷めてゆく。
「アイラ?」
間近で呼ばれて、一瞬、混乱した。
えっと、そう、わたしの名前は、アイラ・ミーヒャ。十八歳。爵位なんて名ばかりの貧乏貴族の一人娘だ。間違いない。
両親が約一年前に亡くなり、田舎の領地も没収され、単身で王都にやって来た。
そして、「アイラ」と名前を呼んだのは、目の前で、わたしの手を両手で大切そうに包んでいる男。数秒前まで、わたしがたしかに愛していると思っていた、リヒト・ローグナー。
わたしを助けにきてくれたヒーロー……。
……ヒーロー? ヤダ。この人が?
あり得ない。
気がついたら、拒絶の言葉が口をついて出ていた。
「ごめんなさい。無理です」
「…………アイラ?」
豹変したわたしに、リヒトの神秘的な紫色の瞳が戸惑いで揺れる。
非常にいい男だわ。――見た目はね!
だって、一目惚れだったもの。身近にいる異性といえば、十五歳以上は年上か既婚者という環境の中で落ちた、彼はわたしの初恋だった。
それが一度は実ってしまったせいなのか。彼と過ごした日々は、家族みんなが揃った、とても幸せだった記憶と直結していたからなのか。
一目惚れから始まった初恋は、ついさっきまで消えることなくわたしの胸に宿り続けていた。
でも、いまは全然ない。綺麗さっぱり!
木っ端微塵に砕け散ったわね!
――わたしは前世の記憶を取り戻し、憑きものが落ちたかのように正気に返っていた。
自分が前世でどういう人生を送って死んだのかは、曖昧。
でも、かわりに何故か、鮮明に思い出したことがある。前世のわたしが読んだ、西洋風な異世界を舞台にした少女漫画の内容だ。しかも、主軸じゃない。そのサブストーリー。
ヒロインの親友となる少女の恋模様。
たぶん、幸福な物語、といえなくもない。王道恋愛物よ。
サブストーリーは、田舎暮らしの少女が、外傷を負った青年を助けたことから始まる。
少女は下級貴族。山に囲まれたささやかな領地に建つ館で、両親と暮らしていた。少女と彼女の両親は青年を親身になって介抱した。目覚めた青年は記憶を失っていることがわかり、そのまましばらく館に滞在することになる。
ここからは、お約束ね。
少女と青年は愛し合うようになる。結婚の約束までして、両親も公認。蜜月としか言い様のない日々。だけどある日、王都から青年を探し迎えがやってくる。記憶喪失の青年は少女と離れがたく、二人で王都に向かう。
ところが道中、賊に襲われた青年は少女を庇い、頭部に打撃を受け、失っていた記憶を取り戻す。かわりに、少女と過ごした日々を忘れてしまう。
告白――誓った愛も。結婚の約束も。
お約束は続くのよ。少女の人生に劇的な登場の仕方をした青年が、ただびとだと思う?
まさかよね。
青年は、王族の血を引く高位貴族だった。青年が記憶を失うほどの外傷を負ったのも、賊に襲われたのも、血統がらみのごたごた故。
そして、もはや、青年にとって少女は赤の他人。田舎貴族の小娘なんて眼中にない。
また青年を迎えに来た人々にとっても、青年が少女と恋仲なんてとんでもないことだった。青年が元に戻ったのを幸いと、少女に謝礼を渡し、追い返す。手切れ金ってやつよ。
失意の少女は、故郷に帰った。……不幸に見舞われる。両親の事故死。――これは、青年自身は関与していないものの、少女が青年を助けたがために起こったことだと判明する。
さらには、亡くなった両親が罪に手を染めていたとして領地没収の憂き目に。
これも、青年自身は関与していないものの――以下略ね。
哀れ、少女は着の身着のままで放り出されてしまう。
そんな少女の胸に浮かんだのは、愛した青年のこと。もう一度、彼に会いたい。
その一心で、王都へ。
少女は青年と再会する。ところがやはり青年の瞳に少女への恋情などなく、冷たい。
王都への帰還の道中で一緒だった娘だったということすら忘れていた。
しかも、高位貴族と、貴族とは名ばかりの平凡な娘。何もかもが違う二人。
記憶喪失中に、青年は唯一の自分の持ち物であった雫形の赤い宝石のついたペンダントを少女に贈っていた。だけど、それを少女が身に着けているのに気づいて盗人扱いする始末。
少女の弁明は、青年に届かない。牢獄送り寸前。
しかし――。
いいや。もう、面倒臭くなってきちゃった。
この少女がわたし、アイラ・ミーヒャで、青年が、リヒト・ローグナーね。
そう、ここって、わたしが前世で読んだ少女漫画の世界みたいなの。
ペンダントを返して、牢獄送りは免れた。そのときリヒトと一緒にいた男性は、記憶を失ったリヒトを探しに来た人だった。皮肉なことに、彼のほうはわたしのことを覚えていて、哀れにでも思ったのか、穏便に済ませたほうがいいとリヒトに口添えしたから。
リヒトと失意の再会をしたわたしは、帰るところもなく、そのまま王都で働き口を探すことにした。読み書きができたことで、商家の使用人として雇ってもらえた。
以後、リヒトと会う機会があり――心の傷口を抉られるようなことをたっっっっっぷりとされながらも、わたしは依然として恋する乙女だったわ。……病んでたのかしら。
リヒトに関することになると途端、いじいじうじうじしていた。
なんだかんだでリヒトとは縁ができ、元恋人だったという理由でわたしは彼と敵対する勢力にさらわれた。
ちょうど、失われた蜜月を思い出したらしいリヒトに、救出されたところ。
さらにはリヒトから愛の告白を受け、感極まっていた。
ここまで、サブストーリーの筋書きを完璧に踏襲している。自分で自分が恐ろしいったら。
この先はどうなるか。
前世の記憶によれば、もとの少女漫画では、アイラ――わたしは、「もう、わたしを忘れないで」と、リヒトの告白に答える。晴れて両想い。一度は喪失した愛の復活よ。リヒトのおかげで亡きアイラの両親の濡れ衣は晴れ、領地は返還される。
アイラとリヒトは婚約し、サブストーリーも終了。ラストは二人の結婚式。
……ハッピーエンドなのよ。
でも、前世のわたしは、アイラの選択にいたくご立腹だった。
はあ? なんでリヒトと元サヤなの? て。
こいつのせいでアイラ不幸なんですけど? 諸悪の根源なんですけど?
だいたい、割りに合わないじゃない。
だって、リヒトって、アイラのことを忘れていたからとはいえ、他の女と普通にいちゃついて見せつけ、しかもアイラに惹かれながらも傷つけるようなことばかり。アイラを忘れている間にやらかしちゃったことが普通なら取り返しがつかないほどマイナスすぎ。
一方、アイラ。愛するリヒトに忘れ去られて、要するに捨てられたも同然で、嫌な目にもあいながら、一途にヒーローを思い続ける。恋は盲目を地で行く。ある意味怖い。
それでいいのか、アイラ!
――という、前世のわたしの叫びがはっきりと聞こえ、脳内にこだました。
まるで叱咤されているような、あたたかい気持ちになった。
肝心の前世のことじゃなくて、その生で読み、そして今世の世界である少女漫画の内容だけをわたしがはっきり思い出したのには、きっと意味がある。
わたしが、アイラになっていたからこそ。
これは、前世からの贈り物。
ありがとう、わたし。
わたし、目が覚めたわ!
「……離してください。ローグナー様」
わたしはリヒトに包まれていた手を引き抜いた。
何が起こっているのかわからない様子のリヒトを、たぶんはじめて、恋のフィルターのかかっていない目で見た。
一目惚れしただけあるわ。……美形よね。
おまけに身分や権力だって持っている。能力だってある。
でも。
ねえ、わたし。
……なんでずっと好きだったの?
わたしにとって、どういう男だったか、が一番重要よ。
さっきまでのわたしは、ずっとリヒトのいいところ探しをしていた。初恋に捕らわれすぎて。
本当は優しい人だから。不器用な人だから。孤独な人だから。
総合的に考えなさい、アイラ。
わたしにとっては、もはやいいところなんて顔だけじゃない?
そうね、記憶喪失中のリヒトは、恋人だった。性格も違っていた。一目惚れだけど、中身も大好きだったのよ? 口づけだけが精一杯の、清い蜜月もあった。約三ヶ月ほど。
宝物のような、美しい初恋。
でも――リヒトが記憶を取り戻して別れてから、また出会って。
今日までの最悪な月日は、蜜月期間の三倍。約九ヶ月以上、十ヶ月未満。リヒトは、記憶喪失中とは、別人。
……違う。たぶん、記憶を取り戻してからのリヒトのほうが、誰にとっても本物。
だけどわたしは、ずっとわたしのリヒトを求めていた。
何も覚えていなかった、穏やかに笑うリヒトを。……どこにも、存在しない人を。
そのリヒトとの蜜月も、最悪な月日によって上書きされている。
残念なことを思い知っちゃった。
良い記憶百個より、悪い記憶一個のほうが心に残るんだなって。これは、リヒトが記憶を取り戻して、わたしが領地に帰った頃を換算してのこと。でも、ここまでなら、取り返しはついたかもしれない。――わたしも、未練がましく王都に行かなければ良かったのよね。
とっくに、悪い記憶が百個以上になっちゃった。
なのに、リヒトとの、良い記憶百個に縋っていたのが、古いわたしだ。
――古いわたしとは、お別れ。
わたしはリヒトに笑いかけた。ああ、こんなにすがすがしい気持ちでリヒトに笑いかけるのは、蜜月以来のことだわ!
「――ローグナー様。わたしは何も覚えていないローグナー様に、わたしのリヒトの面影を求めてばかりいました。……謝ります」
息を吸い込む。
「その上で、言います。あなたの気持ちに応えることはできません。わたし、記憶喪失のリヒトを愛していました。量でいうなら、器一杯に愛が満たされていたんです。でも、その後のローグナー様の行動で、器一杯にあった愛はどんどん減っていった。……減っていたことに、目を閉ざしていたんです。もう、一滴も残っていなかったのに」
記憶を取り戻したリヒトが、わたしの手を振り払い、「――誰だ? お前のような娘が何故私と共にいる?」と冷たく警戒心も露に言い放ったとき、器にピシリと、ヒビが入った。
ヒビからは水がしみ出した。
リヒトと再会してペンダントを返したとき、また深いヒビが器に入った。
補修されることなくその後も亀裂は広がるばかりで、器から減り続ける水もまた、新たに注がれることはほとんどなかった。
「待ってくれ。……私は、思い出したんだ。アイラ。君のことを」
「そうみたいですね」
「君の領地で過ごしたことも、あの頃の自分も」
少しだけ、胸が痛くなった。
「私は、君のことを思い出せない間も、いつしか、君が気になり出していた」
「……そうなんですか?」
はて。そんな素振りはほっっっっっとんど見られなかったと思うけどなあ。せいぜい、百のうちの三ぐらい?
「君を愛する私は、消えていなかったんだ。どこかに、残っていた」
いやー。愛している女にする態度にしては、これまでのわたしへの仕打ちってどうでしょう?
何気に容姿も貶されたことがある。
そりゃあ、わたしは誰もが振り返るような美少女ではないわよ? 癖のつきやすい赤髪と碧色の瞳で、どっちもこの世界だとちょっとなって感じになるのは事実とはいえ。
一般に赤髪に良いイメージはなく、女性が碧色の瞳だと、魔性の色だと言われる。
あ、一応嫉妬みたいなことされことはあったような? 店頭で男性と談笑していたら、「男にそうやって媚びを売っているのか」って遭遇したリヒトが怒り出したことが。
あれもおかしいわよね。付き合ってもいない女が、どんな異性と親しくしていようが非難されるいわれって、ある? 否よ、否!
しかもあのとき話していたの、友達の彼氏ですから! 友達が用事で店内にいて、わたしたちは店頭で友達待ちをしていただけ。あの日、わたしの誕生日ね! 二人はわたしをお祝いしようとしてくれていた。……どんよりした誕生日になった。
「――君との約束を、守りたい」
「結婚の約束のことですか?」
わたしは約一年前なのに、遠すぎる過去に思いを馳せた。
……あったなあ、そんなこと。
「必要ありません。わたし、結婚は愛する人としたいのです」
そうよ。いまからでも、頑張れば充分望みはあるわ! こうしちゃいられない。無駄にしたわたしの九ヶ月以上、十ヶ月未満を取り戻さなければ! 二度目の恋をするのよ!
ファイト、アイラ!
「アイラ。君は、私を……」
わたしはリヒトの言葉を遮った。
「ローグナー様のことは、もうこれっぽっちも愛していません。お気遣いは無用です。ここで綺麗にお別れしましょう! あ、お助けいただいたことは感謝します。もっとも、わたしが攫われたのは、そもそもローグナー様と関わったせいなんですけれども。それでは!」
初恋に終止符を打つ。
さようなら!
つい嫌味を言っちゃったのは、いままでの反動ね。
お辞儀をし、わたしは晴れやかな気持ちで踵を返した。
が、スキップして数十歩、腕を掴まれた。
まさかリヒト? と渋面で振り返るも、わたしはあっけにとられた。
「……ギルさん?」
「ギルさん、じゃないだろう。君は正気か?」
鬼気迫る表情でわたしに詰め寄ってきたのは、王都で知り合った衛兵長のギルさんだった。二十代前半という若さながら、街の安全を守る衛兵を束ねている立場の人。
わたしは商家で使用人として働いているため、その関係で王都の中心街を歩くことにも多々。ただ、当初はわたしもおのぼりさん。
迷子になったり、かもられそうになったり、世間知らず過ぎた。
そんなとき、お世話になったのがギルさん。
王都でリヒトと再会したとき、ズタボロだったわたしに食事が美味しくて安くて安全な宿を紹介してくれたのもギルさんだった。
あのときは、心的ダメージで親切な衛兵さんの顔を覚える余裕もなかったんだけどね。後でお礼に差し入れを持って詰所に顔を出したことで名前を知って、話すようになった。
ギルさんにはわたしと一歳違いの超美人な妹さん、リーネちゃんがいて――そうだ、リーネちゃんは、前世のわたしみたいな助言をしてくれていたのに、恋は盲目状態のわたしは馬耳東風だった。リーネちゃんにもリヒトのことは吹っ切れたって報告しよう。
誕生日にお祝いをしてくれた友達も、このリーネちゃん!
「いたって正気ですとも!」
ギルさんの問いに、わたしは笑顔で答えた。
付け加えるなら、気分爽快!
ギルさんが赤銅色の髪を掻きむしる。わたしと同じ赤髪仲間なのよね。
ため息をつき、ギルさんは自分の背後を示した。わたしが晴れやかに後にしたばかりの場所だ。そこではリヒトがまだ突っ立っていた。
「ローグナー卿は想い人なんじゃなかったのか? めでたく、ローグナー卿は君のことを思い出したようだったが……」
「聞いていたんですか?」
やだ、恥ずかしい……!
「君を攫った者たちは他の悪事にも手を染めていてな、衛兵も今回の騒動に駆り出された。俺も近くにいたんだ」
「なるほど。救出ありがとうございました! ギルさん!」
「ああ……いや」
はあ、とギルさんがため息をついた。ギルさんって、癖……問題行動の多い部下の方たちをまとめていて、かつ慕われているんだけど、基本真面目だし、苦労性。
「職務を遂行したに過ぎない。気にしないでくれ。それより、俺が言いたいのはだな」
「はい!」
「……ローグナー卿とは、あれで良かったのか?」
あれでって、リヒトからの愛の告白を断わったことかしら?
「むしろあれしか返答はありません、ギルさん。自分の心に嘘はつけません! 愛してもいないのに復縁したらローグナー様にも失礼でしょう? ――あああっ!」
思いついてしまった。
「アイラ? どうしたっ?」
「愛してもいないのに復縁して痛手を負った分をやり返すって手もあったかもしれないって、いま! わたしの中の悪が囁きを!」
すごく魅力的だわ!
ギルさんは脱力したようだ。
「……やめておけ」
ついで、何度目かになるため息をつくと、わたしの顔を覗き込んだ。わたしのそれより深く青みがかっている碧色の瞳が、心配そうな色を宿している。
「……無理をしているわけではないんだな?」
……ギルさんは、何となくわたしの事情を察している。
リヒトがわたしを忘れていたこと。リヒト会いたさでわたしが王都に来たことや、リヒトがどんな態度でも、彼に会えるだけでわたしが喜んでいたこと。
わたしは首を勢いよく縦に振った。
「全然です! 最高に気分が良いんです! さしずめ、覚醒した、というところですね!」
「なら、いいが……」
心配するようなことはないのに、ギルさんはまだ少し疑っているようでもある。
リヒトラブで未練たらたらなわたしを見てきたんだものね、ギルさん。
痩せ我慢しているか、無理をして身を引いたか、なんてかすりもしない想像をしてしまっているに違いない。
わたしは胸を反らし、叩いてみせた。
「安心してください! ローグナー様のこと、もうぜんっぜん愛していないし、未練もこれっぽっちもないってことに気づきましたから! わたし、生まれ変わったんです!」
ニュー・アイラだわ!
「そういうわけなので、ギ……」
「アイラ」
わたしの声と、乱入した第三者の声が被った。
近づいてきたリヒトが、険しい視線をわたしとギルさんに向けた。
「君は、その男に心変わりしたのか? だからか?」
「――何を馬鹿なことを仰っているのですか。ローグナー卿。そのようなことは、あり得ません」
怒りを滲ませ、低くそう返したのはギルさんだった。
「アイラの心に、私が入り込む隙など微塵もありませんでした。彼女はあなたにどんな態度を取られても、あなただけを想っていた。彼女を見ていればわかることです。……わかろうとしなかったのは、あなただけだ」
「…………」
リヒトが痛みを堪えるかのように、押し黙る。それを見て、本当に思い出したんだなって、わたしは思った。記憶喪失中のリヒトも、混ざっているんだなって。
覚えていないリヒトなら、こんな反応はしなかった。
わたしを真摯に見つめ、リヒトが口を開いた。
「君がもう、私を愛していないことは、伝わった。記憶を取り戻してからのわたしを振り返れば……それも、当然だな。すまない。リィ」
リヒトの顔に浮かんだのは、後悔を含んだ苦笑。
――ああ、わたしのリヒトだ。領地での、あの日々。リヒトはわたしをリィという愛称で呼んでいた。
「だが、どうか……どうか、私に挽回の機会を与えてくれないか。君の気持ちを、取り戻すための」
わたしは、またリヒトを愛せるんだろうか?
考えた。真剣に、考えた。
――そしてわたしは、答えを出した。
夕日が道を照らす中、軽い足取りでギルさんと王都を歩く。
わたしが攫われ連れて来られたのは、王都の貴族街にある、どこぞの館。そこからわたしの勤め先と住居のある中心街には、馬車か徒歩で移動できる。
外の空気を吸いながら歩きたい気分だったので、わたしは徒歩で帰ることにした。
ただ、わたしは事件の被害者。問題は解決したものの、完全に安全とは言いきれないということで、ギルさんがわたしを家まで送ってくれることになった。
さすが衛兵長。睨みをきかせるだけで、後ろ暗いところのある人たちは避けて通る。
わたしと速度をそろえ、並んで歩いてくれているギルさんが、つと口を開いた。
「……本当に、あれで良かったのか?」
「同じ質問ですね」
でも、あれ、のさすところは一度目とは微妙に違う。
わたしが、挽回の機会をリヒトに与えなかったことに対してだった。
リヒトは「わかった」と答えた。そうして、別れた。
リヒトに恋していた頃の、彼の言葉やちょっとした仕草に一喜一憂していた気持ち。
一番重要だったのは、わたしの心にある器が、どうにか修復されて、水で満たされそうか。心が、奮えそうか。
リヒトと良い関係を築ける可能性はある、とは考えた。
でも、それは愛による関係ではない気がした。
――結局、わたしの答えは同じだったけど、ああいう別れになったのは、良かったと思う。
悪い記憶が勝りすぎたままじゃなくて、気分良く別れられた?
記憶を取り戻したリヒトとの散々な出来事や自分の盲目っぷりときたら、顔をしかめるしかない代物。
でも――わたしが好きだったリヒトと、最後に会って、互いに納得してから、別の道をゆけた。これって、大事よね。
「後悔しないか?」
「しません! 初恋は、実らないから美しいそうです。だけど、わたしの初恋は濁ったままで終わりそうでした。それが、結構綺麗な終わりを迎えました! 悔いはありません!」
「……そうか」
ギルさんが優しく笑った。夕日の橙色に、その端正な横顔が染まる。
………………あ、ら?
なんかいま、胸の辺りが締め付けられたような……? この感じって……?
鼓動が早くなり、頬が熱い。
そんな、幾らなんでも。
――前世で読んだ少女漫画の登場人物であるアイラと、わたし。
ほとんど違いはない。性格はそのまま。
つまり、リヒトに一目惚れしたように、美形に弱く、一途と言えば聞こえはいいけど、思い込んだら一直線。たぶん、リヒトが好きだったから他に目がいかなかっただけで、わたしは根本的に惚れっぽい。
ギルさんは、年上で、格好いい。リヒト絡みで、よく厄介ごとに巻き込まれていたときにも、わたしを助けてくれていた。まるでヒーローのように。妹であるリーネちゃんの友達だから、目を配っていてくれたってこともあると思うんだけど。
この気持ち。もしや……? 勘違いだったらいけないわ。しっかり見極めなくては!
「ギ、ギルさん!」
「ん?」
「ちょっと、立ち止まってもらえますか?」
不思議そうな顔をして、ギルさんが歩みを止める。わたしも。
そして、ギルさんを観察。同時に、王都に来てからの思い出――ギルさんが登場するもの――を掘り起こす。
知り合ったばかりの頃は……正直、苦手だった。衛兵長という立場柄なのか、普段から威圧感がある人だったから。でも、問題行動を起こす部下に囲まれて苦労しているところとか、リーネちゃんに口撃されて押されているところとか。
そういうところを知って、苦手意識はいつしか消えていた。
どころか、容姿に共通点があって、親近感が湧いた。
ギルさんは、赤銅色の髪で青みの強い碧色の瞳。色味だけならリーネより妹だな、なんて雑談の話題にのぼったこともある。ちなみに、リーネちゃんは金髪に紫色の瞳。リーネちゃんは先祖返りらしい。
わたしも、ギルさんを、兄のように思って……?
ギルさんをまじまじと見上げて、わたしはぼっと赤くなった。
格好良すぎる。こんな格好良い人が兄のわけないでしょう!
あの美少女なリーネちゃんの兄なんだから、当然だったわ。
どうしよう。ギルさんって、普通に話すと緊張しそうなぐらいの美形だ。しかも顔だけじゃないのよ。わたしがこれまでに受けた親切や、さりげない優しさの数々……惚れないほうがおかしい。むしろ、なんで好きにならずにいられたの? わたし!
いままでのわたしって、目が節穴? ちゃんと開いていたの? リヒトフィルターで曇りまくっていた?
覚醒したらしたで、物事が見えすぎて困る。
自分の、心も。
――確認は終了ね。
二度目の恋はここにあったわ!
……いまさらながらに、一目惚れしたことに、なる?
自覚した途端、わたしは挙動不審になった。ドキドキしてそわそわする!
スカートの生地を握りしめて、俯いた。
え、ええと自覚したからといって、初恋が終わってすぐに、あなたに恋をしました、なんて軽い女だわ。変わり身が早すぎる。引くわ。
しかも、わたしとリヒトのことを察しているギルさんが相手。
それにたぶん、そこそこ年も離れているし、ギルさんにとってわたしは妹ポジション。
ここは一つ、頼れるリーネちゃんに相談してから……。
告白は、まだダメよね。わたしの性格的には、即告白なんだけど。ああでもでも、告白すれば、異性として意識してもらえるかも? ギルさんって、モテそう。……彼女は?
――彼女! ギルさんに彼女がいないなんて考えられる?
「アイラ。もういいか? 日が落ちてしまう」
「待ってくださいギルさん。わたしまだ真剣に考えているんです」
「……何を?」
「そんなの、いまさら一目惚れしてたったいま自覚したばかりの気持ちについてです。ギルさんに好きですって告白するかどうかに決まってます! まずは彼女がいるかどうかをさりげなく聞き出さないと……! 彼女がいるならさすがに……。じゃあ彼女がいなかったとしてどうするの? わたし。ああもう、せめて自覚するのが半年後ぐらいなら! なんでいま? ああでも半年後だとギルさんだったらいま彼女がいなくても、とんとん拍子に婚約、結婚なんてことも……っ? やっぱり玉砕覚悟の先手必勝で……!」
「――アイラ。落ち着いてくれ。悪い癖が出ている」
「そうですね。わたし、リーネちゃんにも焦ると心の声のつもりが実際は言葉になって出てるってよく注意を受け、」
て……。
口を塞ぐ。わたしは真っ赤になった。
おっかなびっくり見上げたギルさんの顔も、夕日のせいか、赤い。
「――見るな」
ギルさんが、がっしりした肩口にわたしの顔を押しつけた。
わたしと同じくらい、触れ合った身体から伝わるギルさんの鼓動も速い。
「あ、あのですね、さっきのは全部嘘ですから! 忘れてください!」
ギルさんの返答が、ない。
少し経ってから、返ってきた。
「…………嫌だと言ったら、困るか?」
「困らない、です、けど」
「その、な。俺に付き合っている女性は、いない」
「そ、そうですか……!」
声に喜びが溢れるのを、隠しきれない。
「――好意を持っている女性は、いる」
「そ、そう……ですか……」
急転直下。天国から地獄へ。ギルさん、わたしをもてあそんでいるのね。
終わったわ。わたしの二度目の恋。そんなの、ギルさんがお目当ての女性に告白すれば万事解決じゃないの。
「はじめは、妹みたいなものだと思っていたんだがな。いつの間にか……」
「うまくいくといいですね……」
嘘。破局しちゃえ。
嘘です。ごめんなさい。ギルさんには幸せになって欲しいです……。
「その女性は、約一年前に王都にやって来た。俺と色味が似ているんだ。俺より明るい燃えるような赤い髪と、新緑のような碧色の瞳で――出会ったときは、ボロボロだった。放っておけなくて俺が宿を紹介した。彼女は、普段はこちらが元気をもらえそうなほど明るいのに、ある男のことになると……泣きそうな顔をよくした」
思わず顔を上げようとする。でも、頭にギルさんの手が乗っていて、動かせない。
「ギルさん」
「――もう少しだけ、このままで聞いてくれ。俺は、君は――ローグナー卿と結ばれると思っていた。だから、言うつもりはなかった。結果の見える勝負には、出たくないんだ。臆病者だろう?」
頭にあったギルさんの手の重みが、消える。
顔を上げ、少し身体を離して見えた視界の先には、夕日のせいじゃない。
顔を赤くしたギルさんがいた。
「――アイラ」
屈んだギルさんが、わたしと目線を合わせた。
唇が動いて、言葉が紡がれる。
「君が好きだ。この先も、俺と共にいて欲しい」
答えなんて決まっているのに、言葉が出なくて、大きく何度も頷く。
ギルさんがひどく嬉しそうな笑顔を浮かべた。
わたしが見た中で、一番の。
無性に恥ずかしくて、心がふわふわして、ギルさんの肩口に今度は自分から顔を埋める。
背中に、しっかりと両手が回された。
――前世のわたしへ。
わたしの二度目の恋は、応援してね。