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この国には、『精霊の花嫁』と呼ばれる古い言い伝えが残っている。
精霊の花嫁となる娘は、夏至の日に人の子として生まれると言われている。
『精霊の花嫁』の象徴とも言えるのは、深紅に輝く瞳。幼い頃は、普通の人間と同じ瞳の色をしているため見分けがつかないが、十五歳になる夏至の、生まれた時刻になると、瞳の色が劇的に変化するのだ。
その神秘的な深紅の瞳は、神や精霊、悪魔や悪霊たちを映し出し、その手は彼らに触れることができる。そして、伴侶となった人外の者を人の身体に変え、同時に、相手に何者をも凌駕する強大な力を与える——。
ここまでの話は、どの地方でもほぼ同じ。しかし、その先は土地によって、正反対の内容が伝えられている。
花嫁が善良な精霊と結ばれたとされる地方では、花嫁はその地に豊穣と繁栄をもたらした女神として崇拝されている。
他方、悪い精霊や悪霊にたぶらかされたと伝わる地方では、花嫁は災厄をまき散らす悪魔の手先として忌み嫌われている。
カティヤとヴィルヨは、各地を転々として暮らしてきたため、その両方の言い伝えを耳にしてきた。しかし、良い話よりも恐怖をあおる恐ろしい話の方が、子ども心に深く刻み込まれるものだ。だから、カティヤにとって『精霊の花嫁』は、忌まわしい印象の方が強かった。
実際、今日は恐ろしい体験もしたのだ。それは『精霊の花嫁』である自分の、不幸な運命を暗示しているようにも感じられて、体が震えてくる。
「今日、たくさんのヒイシを視たの。黒い不気味な物が狂ったように飛び回ってて、すごく怖くて……。わたしはこれから、ずっとあんなものが視えてしまうの?」
「君だけじゃない。ヒイシなら、あのとき僕も視たよ」
「悪い精霊と結婚することになったら、わたしは……どうなっちゃうの? 嫌よ! そんなの、絶対に嫌!」
「大丈夫、君はそんなことにはならない。きっと、大丈夫だから……」
カティヤの震える肩を抱き寄せ、髪を撫でて慰めているのはニューリだった。
それはこれまで、兄であるヴィルヨの役目だったのだが、恐れていたことが現実になってしまった衝撃と、彼女に嘘をつき続けてきた罪悪感から、見知らぬ少年にその役目を明け渡していた。
「こんな気味の悪い瞳の色じゃ、もう、人前にも出られないわ。友達だってできない」
「そんなことないよ。僕は友達じゃなかったの?」
「そうだけど……でも……」
「大丈夫。僕がいるよ」
ニューリは、どんどん悲観的になっていくカティヤの背中や髪をゆっくりとなで、辛抱強く「大丈夫」だと繰り返す。
オオヤマネコのヘルカも、慰めるように体をすり寄せてきた。
「素敵な恋もしてみたかった……。でも、もう無理よね。わたしはおぞましい精霊と結婚する運命なんだから……」
普通の女の子のような幸せは、もう、望めないのだ。
悲しい諦めがカティヤの口からこぼれ落ちたとき、ヴィルヨは拳を強く握った。
「そんなことはない。恋なら俺とすればいい!」
「お……兄ちゃん?」
あまりにも意外な兄の言葉に、カティヤが驚いて顔を上げた。何かを聞き間違えたのかと思い、兄の顔をじっと見つめると、彼は真剣な眼差しで言葉を続けてきた。
「精霊の花嫁だからって、精霊と結婚すると決まった訳じゃねぇよ。それが運命だって言うんなら、俺がねじ曲げてやる。俺がお前を花嫁にする。精霊なんかに、お前を決して渡さねぇ!」
「何を言ってるの? わたしを花嫁に……って」
聞き間違いではなかった。
ヴィルヨははっきりと、妹を花嫁にするのだと断言した。それが、精霊と結ばれる運命から逃れる手段になるかどうかは分からないが、それ以前に、あってはならないことだ。
二人は兄と妹なのだから。
「そうだ、何を血迷っているんだ。お前はカティヤの兄じゃないか」
混乱して言葉が続けられないカティヤに代わって、ニューリが事実を突きつけると、ヴィルヨは大声で叫んだ。
「違う……違うんだ! 俺は、本当は兄じゃない! 俺とカティヤは兄妹なんかじゃねぇんだ」
「ど……ういう、こと?」
大きな両手が肩に乗せられた。ひどく重い手だった。
ヴィルヨはごくりと唾を飲むと、意を決したように口を開く。
「お前は……お前は、幼いときに人さらいに遭った娘なんだ。だから俺と、血のつながりはねぇ」
「う……そ……」
お兄ちゃんが、本当のお兄ちゃんじゃない!
「すまない。ずっと、言えなかった」
「嘘よ! そんなの嘘!」
ずっと一緒に暮らしてきた、たった二人だけの家族。少々気が荒いけれども、自分には優しい兄。貧しくとも幸せだった日々。
それが、すべて、嘘だったというの?
大きな両手でがっちりと掴まれた肩が痛かった。そうでなければ、夢だと思ったかもしれない。——夢ならどれほど良かったか。
「だからカティヤ、俺と結婚しよう。お前のことを愛しているんだ。妹としてじゃなく、一人の女として、ずっと昔から愛してた。だから……」
「や……だ、お兄ちゃん。やめて! 何言ってるか分からない!」
もう、これ以上、何も聞きたくない!
カティヤは両耳を塞いで、頭を激しく振った。
ヴィルヨの言葉は、それが愛の告白であっても、今のカティヤには残酷だった。
幼い頃から兄と慕っていた男が、赤の他人だったという信じられない事実を、結婚という言葉で無理やり実感させられたのだ。
「も……いや。……何も聞きたくない」
「カティヤ、頼む! 聞いてくれ!」
ヴィルヨの方も必死だ。なんとか話を聞かせようと、押さえつけるように掴んだカティヤの肩を揺さぶる。
怖い——!
大好きな兄だったはずのヴィルヨが怖い。真実を聞かされるのが恐ろしい。
固く閉じた睫毛から、涙がこぼれ落ちた。
そのとき、横から伸びてきた手がヴィルヨの手首を掴んだ。華奢で小さい手だが、ぎりぎりと締め付ける握力はかなりのものだ。
「やめろ。そんなことを急に言っても、彼女が混乱するだけだ」
冷ややかに見据える明るい緑の瞳。諭すような静かな声。
さらにオオヤマネコの頭が間に割り込むように入ってきて、ヴィルヨがぎょっと身を引いた隙に、ニューリはカティヤを奪い返した。
「かわいそうに……」
震える少女の身体を両腕で包み込み、ヴィルヨから守るように背を向ける。
「自分がカティヤを追いつめているのが、分からないのか。今、彼女はいっぱいいっぱいだ。もっと、落ち着くまで待ってやれ」
ゆるく編まれた銀色の三つ編みが下がる背中は、カティヤと同じか僅かに華奢か。年齢も同じぐらいなのだろう。しかし、落ち着いた声や口調は妙に大人びており、不思議な威圧感があった。
ヴィルヨは一瞬、背中を向けた少年に圧倒され、言葉に詰まる。しかし、すぐに今のせっぱつまった状況を思い出した。
「だめだ、時間がねぇんだ! 奴らに見つかった! すぐにでも遠くに逃げないと……」
不穏な言葉に、ニューリの腕の中でカティヤがびくりと肩を震わせた。
彼女の髪を撫でていたニューリが手を止めて、ゆっくりと振り返る。
「逃げる?」
「そうだ。俺たちは追われているんだ。カティヤを狙う奴らから」
「どういうことだ。詳しい話を聞かせろ。僕が代わりに聞いてやろう」
「……お前、誰だ。俺のカティヤに、いやに馴れ馴れしいじゃねぇか」
ヴィルヨは、肩越しに振り返ったニューリを睨みつけると、脅すような低い声で問い詰めた。
見知らぬ少年は、馴れ馴れしいどころではなかった。カティヤを庇う様子は、まるで保護者。見方によっては恋人のようでもある。カティヤにも彼を拒む様子はない。
ヴィルヨは自分の座を奪われた気がして、嫉妬に奥歯をきつく噛んだ。カティヤが自分から庇われているというのも、皮肉な話だった。
「僕はニューリ。今日、森で倒れていたところを、カティヤに助けられた。彼女は僕の恩人なんだ。だから、力になりたい」
真摯に響くニューリの声を、カティヤはいちばん近くで聞いていた。
かすかに伝わってくる心臓の鼓動。それと同じ早さで、あやすように背中を叩いてくれる優しい手。自分より少し小さいくらいの体格なのに、何か大きなものにすっぽりと包み込まれているように感じる。
不思議な……人。
今日初めて会った人なのに、こうしていると心が落ちついてくる。彼が側にいてくれるなら、辛い現実を知らされても、乗り越えられそうな気がした。
大きく息を吸い込むと、深い森の匂いが身体に満ちた。
思い切って顔を上げ、自分をかばってくれるニューリの肩の上から、ヴィルヨを真っすぐに見た。
「全部話して、お兄ちゃん。何が起きてるの? わたしは何者なの?」
彼を『お兄ちゃん』と呼ぶと、胸がつきりと痛んだ。しかし、今はまだ、そう呼ぶことしかできない。
「大丈夫? 無理していないかい?」
心配そうな明るい緑の瞳が、間近から覗き込んでくる。
「うん。自分のことだもの。ちゃんと聞かないと」
頑張って笑ってみせると、力づけるように背中を軽く数回叩かれ、腕が解かれた。