(2)
僅かに黄味がかっていた空が、くすんだ青へと変わり始めている。森の中からは見えないが、少し冷めた夏の太陽は、今も地面に触れないぎりぎりの位置にあるはずだ。
どこからともなく、木を焼いた煙の臭いが漂ってくる。
そういえば、今日は夏至祭だったのに……。
今頃、湖のほとりでは、大きな篝火が焚かれている頃だろう。
空を焦がすほどに燃え上がる篝火は、吹き出す煙を明るく染め上げ、凪いだ湖面に同じ景色を逆さまに映し出す。その豪快ながらも幻想的な光景が好きで、カティヤは毎年、兄と一緒に夏至祭に出かけていた。
しかし今年は、夏至祭に行くことを兄に禁じられた。
そのかわり、知り合ったばかりの少年と、森の中で小さな焚き火を囲んでいる。
ニューリと名乗った少年は、細い枯れ枝を二つに折りながら、焚き火にくべている。
「わたしが助けたのは、まだ、十歳にもならないような、小さな男の子だったのに……」
いくら顔や雰囲気がそっくりでも、身体の大きさが全く違うのだ。倒れていた子どもと彼が、同一人物だとは到底思えなかった。
「だから、何度も言うけど、それは君の思い過ごしだよ」
けれども彼は、カティヤの主張をまたしてもにっこり否定した。
カティヤはヒイシを目撃した後、意識のない子どもを発見し、その子を助けようとしているうちに気を失った。
一方ニューリは、ヒイシに襲われ力つきて倒れてしまったが、意識を取り戻した時、自分に覆い被さるようにしてカティヤが倒れていたのだと言う。
だから、カティヤが助けたのは自分なのだとニューリは言い張る。
確かに、状況から考えればそうなのだが……。
「君が僕を助けてくれた。もう、それでいいじゃない?」
「良くないわ! だって、あの時倒れていたのがニューリだったら、わたし、あんなことできるはずがないもの」
「あんなこと?」
「そうよ。何か飲ませれば目が覚めるかもって思ったから、ムスティッカの……」
言いかけて、カティヤは口をつぐんだ。
あの時、相手が小さな子どもだったから、何の抵抗も感じずに、口移しで果汁を飲ませられたのだ。
あの子が本当にニューリだったら、私は彼と……?
すぐ目の前に座っている少年の唇に目が引き寄せられて、心臓が跳ねた。
あれは人命救助だったと自分に言い訳してみたが、そう思えば思うほど恥ずかしくなって、いてもたってもいられない。口元を押さえて、彼から目をそらせた。
ニューリは、カティヤの頬が急に赤く染まったのに気付き、不思議そうに首を傾げた。彼女の顔色が変化した理由は分からなかったが、ムスティッカという言葉に思い当たることがある。
「そういえば、僕と君の唇に、ムスティッカの汁がついていたんだけど?」
「そ……そう? へ、変ね。それこそ、ニューリの思い過ごしじゃないの?」
いきなり核心を突かれ、ぎょっとしながらごまかすと、彼がぐいと顔を近づけ反論する。
「そんなはずないよ。ほら、見て。手で唇を拭ったら、ここが青紫色に染まったんだ。君のほっぺにも、まだ同じ色がついてる。ほら、ここ」
真剣な顔をした彼は、自分の左手の甲を指差してから、その指でカティヤの頬をちょんとつつく。
「きゃぁ!」
カティヤは慌てて、彼の指が触れた場所を、手の甲でごしごしと擦った。
自分の頬についている色は確認できないが、彼が言っていることは事実にちがいない。あの行為の証拠の色が、二人の肌を同じ色に染めているのだ。
どうしよう。彼に、悟られてしまう。
「僕が目覚めた時、ずっと辺りにムスティッカの香りが漂っていたし、口の中も変な感じで……。もしかして、僕にムスティッカの汁を飲ませたの? まさか、口移し……で?」
首を傾げながら、ぶつぶつと呟きながら話を整理していた彼の声が、後半で突然震えた。
「きゃぁぁぁ、やめて! 言わないで!」
カティヤは悲鳴を上げると両手で耳を塞ぎ、ヘルカの毛皮に顔を埋めた。全身を強ばらせ、彼の言葉を聞くことを拒否する。
前足に頭を預けてウトウトしていたヘルカが、驚いたようにびくりと頭を上げ、それから、心配そうに鼻先をカティヤに寄せた。
「そうか。この状態は……そういうことだったのか」
カティヤの反応を肯定だと捉えたニューリは、震える息を大きく吐き出した。
しかしその声は、耳を押さえて悶えているカティヤには聞こえていなかった。
それっきり、二人は黙り込んだ。
耳を塞ぐ手の甲を、ヘルカが気遣うように舐めてくれる。そのざらざらした感触をぼんやり感じているうちに、だんだん落ち着いてきた。そおっと、ニューリの様子をうかがってみる。
すると彼は、カティヤが最初に目覚めたときと同じように、近くに屈んで、自分の顔を覗き込んでいた。こっそり様子を見るつもりだったのに、いきなり彼と目が合ってしまい、思わず小さな悲鳴を上げる。
「わ……ごめん。驚かすつもりじゃ……。あの、これ……」
彼は困った顔をしながら、手にしていた包みをそっと開いた。ふわりと甘い香りが鼻孔をくすぐる。
「わぁ。ラッカじゃない! こんなにたくさん!」
濃いグリーンのスカーフのような布の中から出てきたのは、きらきら輝く琥珀色の小さな粒が集まった、ラッカの実だった。
森に自生するベリーにはたくさんの種類があるが、ラッカほど甘い果実はない。ベリーの王様とも呼ばれる貴重な実だ。
大好物を目の前に差し出され、思わず目を輝かせると、ニューリはほっとしたように肩の力を抜いた。
「君、この実、好きだったでしょ? 君が眠っている間に摘んできたんだ……けど」
「うん。大好きよ! でも、どうしてわたしがラッカが好きだってこと知ってるの?」
「え? えっと……、なんとなく。そう、なんとなくだよ」
「そう。この森をもう少し行くと、いつでもラッカが実っている場所があるのよね。わたしだけの秘密の場所だって思っていたけど、ニューリも知っていたのね」
一気に気持ちが上を向き、早速、親指の先ほどの大粒の実に手を伸ばす。しかし、彼の手が一足先にベリーを摘まみ上げた。
「はい、どうぞ。食べて」
口元に寄せられたベリーに、一瞬「え?」と躊躇ったが、彼が満面の笑みで勧めるから、素直に口を開けた。
噛むとふにゃりとつぶれる完熟の実は、ほとんど酸味がなく、強い甘味が口の中一杯に広がる。
「おいしーい。すっごく甘いわ」
「よかった。もっと食べて。君のために、たくさん摘んできたんだから」
彼は嬉々として、次々と琥珀色の果実をカティヤの口に運ぶ。
なんだか、親鳥にえさをもらう雛みたい。
なんて思ったりもしたが、美味しい果実と彼の楽しそうな様子につられ、まあいいかという気になった。
「はい、どうぞ」
また大粒のラッカが目の前に差し出された。
彼はカティヤがそれを口にするのを、わくわくしながら待っている。けれども、ひたすら食べさせるだけで、自らは口にしようとしない。
「ねぇ、ニューリも食べたら? すっごく甘いわよ」
こんなに美味しい実を独り占めするのは、申し訳なかった。どうせなら、一緒に楽しみたいと思って勧めてみたのだが、彼はとたんに困惑した表情になった。
「え……? 僕はいいよ。全部、君が食べて」
「だって本当に美味しいんだもん。ほらっ!」
逃げ腰になっている彼を見ると、ちょっと意地悪したくなってきて、残ったベリーの中からいちばん大粒の実をつまんで、彼の口に強引に押し付けた。
「たーべーて!」
彼は眉をひそめて僅かに身を引いたが、それ以上は拒まない。しばらくして、観念したように少しだけ開けた口にベリーを押し込むと、彼は恐る恐るといった様子で、ゆっくりと口を動かした。その直後、驚いたように眼を見開く。
「ね、甘いでしょ?」
「あ……まい…………? ああ、そうか。うん、甘いね」
彼は初めてラッカを食べたかのように、瞳を瞬かせた。その後、何かを確かめるように、口をもごもごと動かす。
「ムスティッカよりこっちの方が、甘い……?」
確かにムスティッカよりラッカの方が甘いのだが、カティヤにとって、そんなことはどうでも良かった。
彼が、ムスティッカの味を思い返しているのは明らかだ。
もうこの話は蒸し返されたくない。急いで話題を変えなくちゃ。
「ねえっ! お腹すかない?」
「お腹? いや……?」
彼が、きょとんとしながらもそう答えた直後、彼の腹がぐーっとなった。
「え? え? なに?」
さっき食べた一粒のベリーが空腹を刺激したに違いなかったが、彼は不思議そうに両手で自分の腹をさすっている。
「あはははは。すっごい音! やっぱりニューリもお腹空いてるじゃない。わたし、家からパンを持ってきてるの。一緒に食べようよ」
カティヤも朝食を食べたきりだったから、ベリーを食べてもお腹が寂しかった。気を抜くと、さっきのニューリのように情けない音を立ててしまいそうだったから、彼に頼んで、籠を持ってきてもらう。
地面に散らばっていた籠の中身は、彼が拾って元に戻してくれてあった。布で包んであったパンは無事だった。
「はい。おいしいよ」
扇形に割り分けてあったライ麦パンは二切れ。そのひとつを手渡すと、彼は「ありがとう」と受け取ったものの、やっぱり困った顔をしていた。
「なによぉ。変な物なんか入ってないわよ。わたしが焼いたんだから」
「いや……そういう訳じゃ……」
そう言いながら、黒くずっしりとしたパンを裏返したり戻したりしながら、ものめずらしそうに眺めている。
「じゃ、早く食べて!」
「う……うん」
カティヤがせかすと、彼はようやく、ぱくりとかじりついた。そして、固い生地を怖々噛み締めると、さっき以上に大きく眼を見開いた。
「ね。おいしいでしょ?」
ニューリの反応に満足して聞いてみると、彼は満面の笑みで頷いた。
「うん、おいしい。すごくおいしいよ!」
夢中でパンを頬張る彼を見ながら、カティヤも楽しい気分でパンをちぎって口に入れた。さっき、嬉しそうにベリーを食べさせてくれた彼の気持ちが、分かった気がした。
「あのさ……あの……」
あっという間にパンを食べ終わったニューリが、言い出しにくそうに口を開いた。
「なあに? あ、もっと食べたいの?」
といっても、パンは二切れしかない。カティヤが自分の食べかけを半分に割って差し出すと、彼は慌てて両手を振ってそれを止めた。
「ち、違うんだ、そうじゃないよ! そうじゃなくて、あの……嫌ならいいんだけど、君の隣に座ってもいい……かな?」
「え? う、うん」
上着を貸してくれた彼は、白い半袖シャツ一枚の薄着。袖からのぞくしなやかな腕が、ずいぶん寒そうに見えた。自分はヘルカの体温が伝わる毛皮にもたれかかっていし、彼の上着を身体に掛けていたから気付かなかったが、夏とはいえ、森の夜は冷えるのだ。
カティヤがヘルカの頭側に少しずれて場所を空けると、彼は嬉しそうに、それでも遠慮がちに少し隙間を空けて隣に腰を下ろした。
「ごめんね、寒かったでしょ」
カティヤはそう言って、自分が包まっていた彼の青い上着を広げたが、二人で使うには大きさが足りない。だから、思い切って彼に身を寄せ、二人一緒に上着を被せた。
「え? いいの?」
「このほうが、温かいでしょ?」
深く考えると恥ずかしいから、なんでもない風に軽く答えると、最初は意外そうな表情を見せていた彼の顔が、ぱあっとほころんだ。
彼は少々変なところはあるが、一生懸命気を使ってくれるし、悪い人には見えなかった。お腹もそれなりにふくれて、くつろいだ気分になっていたから、男の子と身を寄せ合っていても、さほど気にならなかった。