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(4)

 なんだろう。

 カティヤは夢うつつの中で、ぼんやりと考えていた。

 さっきの悪夢とは正反対の心地よさだ。

 自分の粗末な固いベッドとはちがう、ふかふかで温かな感触。髪を撫でる優しい手が、ときどき悪戯っぽく、頬や鼻をつつく。

「あぁ、もう。お兄ちゃんったら、やめて」

 幸せな気分でくすくす笑いながら、軽く身体をねじると、ふわふわしたものに鼻をくすぐられた。

 くしゅん。

 そのくしゃみで、はっきりと目が覚めた。

「あ……れ?」

 そこは、明らかに自分の部屋の中ではなかった。視界を塞いでいるのは、黒い斑点が入った金色の毛皮。それがもぞもぞと動いたかと思うと、耳元をざらりとした温かなものがかすめていった。

「ひゃっ!」

 小さな悲鳴を上げて逃げようとしたが、身体が鉛のように重くてまともに動けない。かろうじて顔を上げると、金色の二つの瞳と目が合った。

 オオヤマネコ!

 この森で出会うのは愛らしい小動物ばかりだったから、こんなに大きな獣を見るのは初めてだった。見るどころか、自分はその獣にもたれ掛かっており、その黒い鼻先は間近にある。

 どうしよう……。

 あまりの恐ろしさに身体が竦む。自分をじっと見つめる金色の瞳から目をそらすことすらできずにいると、いきなり頬をぺろりと舐められた。

「きゃああ! ごめんなさい、食べないで!」

 思わず出たその台詞に、ぷっと吹き出すような気配。

「その子はヘルカ。おとなしい良い子だから、大丈夫。君を食べたりなんかしないよ」

 続いて聞こえてきた声に、カティヤは恐る恐る顔を向けた。

 すぐ近くに屈み込んでこっちを見ていたのは、白いシャツ姿の、銀色の長い髪を後ろで緩く三つ編みにした美しい……少年?

 彼はカティヤと目が合ったとたん、トウヒの若葉を思わせる明るい緑の瞳を大きく目を見開いた。

「あなた……は、誰?」

 そう問いかけても、凍ったように身動き一つしない少年を、カティヤは怪訝に思いながら見つめる。

 さっき倒れていたのは小さな子どもだったが、今ここにいるのは、自分と同じぐらいの年頃の少年だ。鼻筋の通った整った顔立ちはそっくりだが、頬が少しほっそりしていて、大人っぽい。あの子が成長したら、きっとこんな感じになるだろうと思えた。

「そうだ! あの子は? あの子は無事なの?」

 勢いで身を起こすと、自分の身体の上から、蔦の模様が入った青い布がするりと落ちた。よく見ると、大きさは違うが、あの子が着ていた上着と同じものだ。

「さっきここに、小さな男の子が倒れていたの。これと同じ服を着ていて、あなたにそっくりな……。あの子がどこへ行ったのか、知らない?」

 カティヤは言葉を続けたが、美しい少年は固まったままだ。

「もしかして、あなたの弟なんじゃないの? 本当に、あなたとそっくりだったのよ」

「…………」

「ねぇ、どうして固まっているの? 聞いてる?」

 何度問いかけても、相手の耳には届いていないようだ。ただ、大きく見開かれた緑の瞳が、自分の目を覗き込んでいる。

「ねぇってばっ!」

 一日中休みなく走り回ったかのように全身が疲れ切っていたが、必死に手を伸ばして、彼のシャツの袖を掴んだ。しかし、そこで力付きで、彼の腕に倒れ込む。

 ふわりと、深い森の緑の匂いがした。

 とっさにカティヤを抱きとめた少年は、そこでようやく正気に戻ったらしい。

「……そうか。そういうことか。君は……」

 耳元で聞こえた震える声は、しかし、カティヤの質問には全く答えていなかった。

「だからっ、あの子はどこ? 無事なの?」

「…………無事だよ」

 ようやく聞きたかった答えを得ることができて、ほっと息をつく。

「よかった。じゃあ、あの子はもうお家に帰ったの?」

「……いや。ここにいる」

「え? どこ?」

 カティヤは子どもの無事な姿が見たくて、辺りを見回そうとしたが、できなかった。

 彼にいきなり強く抱きしめられて、驚きで息が止まりそうになる。

 しかし彼の方はそれに全く気付かない様子で、カティヤの頭に愛おしそうに頬ずりしながら、ますます腕を締めてきた。そして、嬉しそうな声で告げてくる。

「君が助けたのは僕だよ」

「や……めて。放して」

 彼の言葉は謎だった。

 けれども、同じ年頃の見知らぬ少年に抱きしめられている今の状況の方が、カティヤにはよほど信じられない。

 必死に彼の腕を振りほどこうもがくが、全身に力が入らない状態だ。少年に抵抗できるはずもなかった。

「君のおかげで、僕は助かったんだよ」

「何、言ってるの……よ。いいから、放して!」

「まさか、君がそうだったなんて」

「だから、放してって言ってるじゃない!」

 嬉しそうに言葉を続ける少年に、カティヤが非力な抵抗を続けていると、地面に寝そべっていたヘルカがのそりと立ち上がった。音も立てずに二人に近づいてくると、少年をいさめるように、彼の背中に両前足をかけた。

「あ……ごめん。僕……」

 少年は自分がしていることにようやく気付いて、慌てた様子で腕を緩めた。

「もおっ! 信じられないっ!」

「ごめん。つい……嬉しくて。本当にごめんね」

「ごめんじゃないわよ」

 カティヤは憤慨しながら腕をつっぱって彼から離れると、その場にへたり込んだ。

「ごめんね。ごめんね」

 少年は目の前に膝を付き、必死に謝罪を繰り返した。

「もしかして……怒ってる?」

 上目遣いで顔を覗き込んでくるその瞳には強い不安が滲んでいて、このまま腹を立て続けるのは、かわいそうなほどだ。本当に、悪気はなかったらしい。

「……いいよ。もう」

 そう伝えると、彼は「よかったぁ」と心底ほっとしたように、その場に座り込んだ。

 そんな彼の背中を、ヘルカが身体をすり寄せながらぐるりと回った。それから、元いた場所に移動して、地面に横たわり、二人をじっと見つめた。短い尾が誘うようにひらりと動く。

「うん。頼むよ」

 彼はヘルカに小さく頷いて、カティヤを支えるようにして立ち上がった。そして、ヘルカの体に預けるように座らせてくれた。

 オオヤマネコの毛皮はふわふわで温かい。不思議とお日さまのような匂いがする。

「ありがとう」

 カティヤが頭を撫でてやると、ヘルカは嬉しげに目を細め、喉をゴロゴロと鳴らした。

「ねぇ、あなたって、オオヤマネコが言ってることが分かるの?」

「……いや、言葉は分からないよ……もう。でも、長い付き合いだから、ヘルカの考えていることは分かるよ」

 そう言って彼は少し寂しげに笑いながら、地面に落ちていた青い上着を拾い上げ、体の上にかけてくれた。

「寒くない? 夜は冷えるから」

「え? もう、夜なの?」

「うん。夕暮れの鐘が、もうずいぶん前に聞こえたよ」

「うそっ!」

 カティヤは驚いて空を見上げた。

 トウヒの葉の隙間から見える細切れの空は、言われてみれば、ほんのりと黄味を帯びていた。その色から、まだ深夜ではなさそうだが、確かに夜だ。

 今日は一年でいちばん昼の長い夏至。夏場のこの地方は、一日中、太陽が沈むことがなく、夜でも明るい。だから、時間の感覚が麻痺してしまう。

「どうしよう。きっとお兄ちゃんが心配してる。今日は、家から出ないようにって、言われていたのに……。きっと、こっぴどく叱られるわ」

 普段は優しい兄だが、大柄な体格で目元に傷跡のある強面のせいもあって、怒ると身が縮み上がるほど怖いのだ。

「わたし、すぐに帰らなきゃ……」

 慌てて身を起こしたものの、両腕を突っ張って上半身を支えるだけで精一杯で、立ち上がろうとしても足に力が入らなかった。一刻も早く帰らなきゃならないのに、こんな状態ではどうしようもない。

「無理しちゃだめだよ」

 心配そうな顔をした少年に、軽く肩を押され、ぽすりとヘルカの腹に逆戻りする。

「でも、お兄ちゃんが心配してる」

「大丈夫だよ。トゥオモに、君のお兄さんを呼びに行かせたから」

「トゥオモ? ……って、誰?」

「この森でいちばん大きいフクロウだよ」

「そう、フクロウ…………は?」

「あいつはすごく賢いから、きっと君の兄さんを呼んできてくれる。思ったより時間がかかっているけど、心配しなくてもいいよ」

 当たり前のことのように言いながら、にっこり笑う少年に、カティヤは身体だけでなく、頭の中まで疲れ果てている気がした。

 夢か現実かは分からないが、ヒイシの大群に出くわしたときから、今日という日はどうかしている。倒れていた小さな子どもも、動物たちを操る目の前の少年も、まともに動けないほどに疲弊している自分も。何もかもが謎めいていた。

 だけど、きっと彼は何かを知っている。

 そう確信したカティヤは、少年に詳しく話を聞いてみることにした。

 でも、その前に。

「ねぇ、あなたの名前はなんていうの?」

 その問いかけに、少年は困ったようにちょっと眉を寄せた。

「えぇと……ニュー…………ニューリ。そう、ニューリっていうんだ」

「ニューリね。わたしはカティヤよ」

 自分の名前のはずなのに、答えに詰まる不自然さ。しかし、挨拶として差し出した手を握った彼が、あまりにも嬉しそうに笑ったから、カティヤはそのことに気付けなかった。

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