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(2)

「ねぇ……今、何か……聞こえ、なかった?」

 二人をもみくちゃにするヒイシの濁流の中、微かに聞こえた高い音。

 しかし、それはニューリの耳には届かなかったらしい。

「カティヤ、どうした!」

 彼は左腕でカティヤの腰を抱きかかえて庇いながら、重い長剣を右手で振るっている。

 彼がいくら切り捨てても、周囲のヒイシの数は減ることがない。二人にも疲れが出てきて、西へと押し流される速度は早まっていた。

「空耳……? 何か悲鳴……の、ような……きゃっ!」

 足元をすくわれ、バランスを崩したところを、ぐっと抱き寄せられる。

「大丈夫か? 向こうに、誰かいる……のか? ヴィルヨじゃなくて?」

「違うわ。もっと、高い……」

 説明しようとするカティヤの声をかき消すように、また同じ声が聞こえてきた。

「きゃあぁぁ! もう、やめて!」

 今度は、ニューリにもはっきりと聞き取れた。

 どこか聞き覚えのある、若い女性の悲鳴だ。

「ほらっ、また!」

「女の……子? どうして、こんな所に……」

 考える暇なく次に聞こえてきたのは、複数の男の声だ。何を話しているのかまでは分からないが、ときおり品のない高笑いが混ざる、ぞっとするものだ。

 声が聞こえてきた西の方角に目をやると、少し先で森が途切れているらしく、木々の重なりが薄くなっていた。

「ニューリ、行こう!」

「え?」

「このままでも、どうせあの場所に押し流されちゃうわ。それなら早く、行ってあげよう! 行かなくちゃ!」

 ニューリの腕を振り払うように身体を捻り、走り出す。

「ちょっと、カティヤっ! 待って!」

 彼女と離れてしまったニューリの目から、ヒイシの影がすうっと引いていく。あれだけかかっていた強い圧力も感じなくなり、身体が急に軽くなる。

 しかし、感じ取れなくなっただけで、カティヤの周囲にヒイシがいるのは明らかだ。彼女は半分運ばれるように、よろめきながら駆けていく。

「まったく、君は……」

 自分自身が危険にさらされているのに、さっきの悲鳴も何者かに仕組まれたものに違いないのに、彼女は自分の身を顧みずに、助けに向かおうとする。

 ニューリは苦笑すると長剣を腰に納め、走り始めた。

 何の障害も感じないニューリは、あっという間にカティヤに追いつき、追い抜きざまに声をかける。

「僕が先に行く。気をつけて!」

「う……ん。ニューリも!」

 自分より小さいはずの彼の背中が、妙に大きく力強く見えた。

 一足先に木々の境目に着いたニューリは、そこでぴたりと立ち止まった。身構えることなく、ただ立ち尽くす後ろ姿に、強い緊張感が漂っている。

 何が、あるの——?

 嫌な予感に、心臓がどくりと鳴った。

 周囲を取り囲みカティヤを押し流していたヒイシが、そこに見えない壁があるかのように、森と広場の境界でぴたりと静止した。

「きゃぁぁぁっ! ニューリっ!」

 強い力で広場に押し出されたカティヤを、ニューリが抱き止める。しかし、勢いを止めきれず、二人はもつれるように草の上に転がった。

「カティヤ、来るんじゃないっ! すぐに逃げろ」

 叫び声にはっとして顔を上げると、そこに衝撃的な光景があった。

 二人の男に両腕を担がれ、磔にされたような格好のヴィルヨが、二人の男から殴る蹴るの暴行を受けていた。彼の顔は紫色にひどく腫れ上がり、額と唇の端から赤いものが滴り落ちている。裸の上半身も傷だらけで鮮血にまみれていた。

「お兄ちゃ……ん?」

 今、ヴィルヨをいたぶっている一人は、自宅で彼自身があっさりと倒した大男。そしてもう一人は、ニューリが捕らえた盗賊団の首領だった。カティヤの目から見て、二人掛かりでも負けるはずのない相手だ。

 あの誰よりも強い兄が、誰かにいいようにやられるなど、あり得ない。

「お兄ちゃん、お兄ちゃんっ!」

「来るなーっ!」

 ヴィルヨに駆け寄ろうと身を起こすと、森林全体が震えるほどの絶叫が響いた。

 同時に強く手を引かれ、ニューリの腕に拘束される。

「行っちゃだめだ。ヴィルヨは、逃げられない」

「でも、あのままじゃ、お兄ちゃんが……お兄ちゃんが、死んじゃう!」

 ニューリの腕の中でもがいていると、今度は少女の叫び声が聞こえてきた。

「来ちゃだめ! あなただけは逃げて、カティヤ!」

 え?

 自分の名を呼ぶ、奇妙な感覚を覚える声の主を探して、視線をさまよわせる。そして、ヴィルヨから少し離れた場所に立つ木の幹に、縄で縛り付けられた少女を見つけ、絶句した。

「お願い、早く逃げてーっ!」

 左頬を真っ赤に腫らし、短刀を突きつけられながらも声の限りに叫ぶ少女の顔は、瞳の色を除けば、自分と全く同じだった。いや、少し前の自分の顔と同じだ。

「誰……なの?」

「分からない。だけど、ヴィルヨは彼女を守るために……」

 彼を暴行の場に縛り付けていたのは、ならず者たちの腕ではなかった。自分そっくりの少女を人質に取られているせいで、男たちに歯向かうことも、逃げることもできないのだ。

「ああ……」

 カティヤは両手で口元を覆った。

 どうすることもできないのは、彼だけではない。きっと、自分もそうだ。

 もう、逃げられない——。

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