(3)
『ねぇ! どうしたの、大丈夫?』
そういえば、そんな少女の声を、微かに聞いた気がする。
この娘は、僕を助けようとしてくれたのか?
ニューリッキは、腕の中の少女の顔を覗き込んだ。
色のなかった頬は、僅かに赤みを取り戻している。呼吸は穏やかで、外傷も見当たらない。意識が戻りさえすれば、特に問題はなさそうだ。
「ああ……なんて、かわいいんだろう」
見つめるだけでは物足りなくなって、少女の頬におそるおそる指を伸ばした。
初めて触れたそれは、思った以上に柔らかく、温かだった。指先がすべるなめらかな感触に、胸の奥が震えた。
ニューリッキはこの少女を『この森でいちばん美しい生き物』と密かに呼んでいた。
少女は冬の真白な野うさぎよりも愛くるしく、早朝の小鳥たちよりも美しい声で歌い、小リスのようにくるくると動き、スズランの花より可憐だった。
だから、彼女がベリーや花を摘みに森にやってくると嬉しかった。
少しでも長く森に留まっていてほしくて、彼女のいる間は森の中に雨粒を落とさず、強い風は遮ってやった。彼女が琥珀色したラッカの実を好むことを知れば、季節を無視してたわわに実らせ、その場に導いてやった。彼女の喜ぶ顔が見たくて、小鳥やリスを呼び寄せ、彼女が怯えて逃げ出さないよう、熊や狼などの獣は遠ざけてやった。
彼女がこの森を好きでいてくれることが嬉しかった。
もっともっと、好きになってほしかった。
少女が大樹の根元に座ってくつろいでいるときは、その隣に並んで座った。そして、彼女の愛らしい様子を間近から眺めていた。
それでも少女は、すぐそばにいるニューリッキの存在に気付くことはなかった。
森に住む動物たちなら、触れられなくとも意思を通わせることができるのに、彼女は近くからただ愛でることしかできなかった。一度でいいから触れてみたいと思っていたが、伸ばした手は少女の身体をすり抜けてしまい、ふわふわな髪の一本にすら、触れることは叶わなかった。
だから、彼女の存在をはっきりと腕で感じ取れるこの状況は、あり得ない。
あり得ないが、たまらなく嬉しい。
「こんな、ばかなことが……。でも……かわいすぎるっ!」
異常事態に混乱しながらも、少女を抱きしめ頬ずりしていると、少し離れたシダの茂みが揺れ動いた。
よく知る気配だったから、ニューリッキはゆっくりとそこに視線を向ける。
緑の中からぬっと姿を現したのは、金色に黒い斑点の入った艶やかな毛並みの、若い雌のオオヤマネコだった。
「ヘルカ」
名を呼ばれた美しい獣は辺りを警戒しながら、ゆっくりと近づいてきた。
「お前は無事だったか。森の他の者たちの様子はどうだ」
森の主の問いかけに、ヘルカはその場で立ち止まり、何かを訴えるような目でじっと見つめてくる。
「どうした? 何か言ったらどうだ」
しかし、彼女は何も答えない。ただ、おろおろとした様子を見せ、その後、しょんぼりと俯いて「ギャオ」と短く吠えた。
「……ヘルカ」
ニューリッキは愕然とした。
彼女はいつも、よく通る声で快活に話すのだ。自分に対して、こんな獣のような声を向けることなど、これまで一度もなかった。
「ヘルカ、もしかして……お前はずっと僕に話しかけていたのか? お前の声が、僕に聞こえていないということなのか? どうなんだ、ヘルカ!」
問い詰めると、ヘルカは答えるように「ギャオ」と吠え、そろりと近づいてきた。そして甘えるように、頭をすり寄せた。
「!」
森の主と森の獣は同時に同じことを感じ、思わず顔を見合わせた。
これまで、互いに触れ合うことなどできなかったのだ。なのに、ニューリッキは肩に、ヘルカは頭に、互いの感触をはっきりと感じ取った。
触れることができるのは、腕の中の少女だけではなかったのだ。
ニューリッキは森の獣にも触れることができるようになった。しかし、言葉を交わすことができなくなってしまった。
「まさか……」
ニューリッキはすぐ脇に立つトウヒの大樹を見上げた。
「トウヒ! お前は、ここで起きた出来事を見ていただろう? 何があった」
そう問いかけてみたが、折り重なって空を隠す葉がざわざわと音を立てるだけで、その声を聞くことができなかった。
「……そうか、分かった。この身体は、きっと……人間と同じだ」
事態は、想像以上に深刻だった。
原因は分からないが、ニューリッキは森の主としての力を失くしてしまったのだ。もう、森の仲間たちの声を聞くことができない。大地や水や空気の意志を読み取り、森を健やかに育んでいくこともできない。
このままでは、森が死んでしまう——。
「どうしたら、いい。どうしたら……」
ニューリッキは右の掌で顔を覆った。その手の甲を、ぴったりと寄り添っていたヘルカが身を乗り出して、舐めてくれた。
ヘルカが触れている右半身が温かい。手に触れる舌はざらざらした不思議な感触なのに、ひどく優しい。
「慰めてくれるのか。いい子だ」
顔を上げて、ヘルカの頭を撫でてやった。こんな場合だというのに、その毛並みの手触りの良さに感動していると、彼女はごろごろと甘えたように喉を鳴らした。
「ヘルカ。僕の言葉は理解できるか?」
すると彼女は喉を鳴らすのをやめ、真っすぐに目を見つめてきた。
答えはおそらく「はい」だ。
「そうか。それなら、この娘をしばらくたのむ」
そう頼むと、ヘルカは、どうぞとばかりに、身体を地面に投げ出すように寝そべった。そのふわふわの毛皮に、少女の上半身を預けると、ヘルカは収まりが良いようにもぞもぞと動き、身体を丸めて彼女を守るような姿勢を取った。
ニューリッキはそれを見て安心し、立ち上がる。
「トゥオモ! トゥオモ!」
辺りを見回しながら声を張り上げると、しばらくして、大型の灰色のフクロウが近くの枝に舞い降りた。
フクロウは、木の年輪のような模様に取り囲まれた金色のぎょろりとした目でニューリッキを見つめながら、不思議そうにしきりと首を回している。きっと、何かしら話しかけているのだろう。
「すまない、トゥオモ。今の僕には、お前の言葉が分からない。だけど、お前は僕の言葉が分かるな?」
確認すると、トゥオモは「ホー」と低く小さな鳴き声で答えてくれた。
「お前はこの娘の兄を探して、ここまで連れてきてくれ。ときどき、この娘と一緒に、森にやってくる体の大きな男だ。知っているだろう?」
トゥオモは答えの代わりに、大きく翼を広げた。
「たのむぞ」
飛び立つフクロウを見送ると、ニューリッキは土に転がっていた瓶を拾って、森の奥に入っていった。