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(4)

「やっぱりおかしい」

「どうしたの?」

「ずっと変だと思ってたんだ。一体、何が起こっている!」

 いらついた様子のヴィルヨは、頭上に密集するトウヒの枝を仰ぎ見た。

「南に向かっているつもりなのに、すぐ、西にずれてしまう。これまで何度、方角を修正したことか。なのに、どれだけ注意して歩いていても、いつの間にか頭がぼんやりして、気付けば西に向かって進んでいるんだ」

 とげとげした葉の向こう側に少しだけ見える空は、いつの間にか鉛色に沈み、太陽の位置から方角を知ることはできなくなっていた。しかし、森の中では方角を見失うことはない。冬の間、北の方角からの厳しい風雪にさらされるこの地方は、木の北側は枝が少ない。枝振りが良く、幹が微妙に傾いている方角が南だ。

「本当だわ」

 辺りを見回して自分でも方角を確認すると、確かに足先は、南ではなく西を向いていた。

 俯き加減で、ヴィルヨが引くロバの尻尾だけを見ながら歩いていたから、向かっている方向がずれてしまうことも、それをヴィルヨが必死に修正しようとしていたことも、全く気付かなかった。

「僕も今まで気付かなかった」

 ニューリも同様だったようだ。

「こんなの、おかしいだろう? これも、森の主がいないせいなのか? 森の中に、方向を狂わせるような何かがあるっていうのか?」

 いらついた言葉に、ニューリが考え込む。

「いや……、森にそんな力はないよ」

「頭をぼおっとさせる、変な臭いがする草があるとかよ?」

「そんなものは、ない」

「じゃあ、精霊とか妖精の仕業なの?」

「どうだろう……。主がいないせいで、変なモノが森に入り込んでいても不思議はないけど、もしそんなモノが近くにいたら、カティヤと僕は気付くはずだ」

 ニューリはカティヤの手を強く握り、目を閉じた。

 カティヤも彼の真似をして目を閉じ、近くに妙な気配がないか神経を集中させる。

「少なくとも、近くには何もいそうにない」

「……そうね」

 彼の言葉にカティヤも同意した。

 周囲のどれくらいの範囲を調べられたのかは分からないが、気になる気配は見つからなかった。追っ手が来る様子もない。これだけ深い森の中なのに、木々や草花の息吹や、小動物の気配すら感じないことが、逆に不気味だ。

「森のせいでも、精霊のせいでもねぇなら、原因はなんだっていうんだよ? まるで、俺らを西の方向に誘っているみてぇじゃねぇかよ」

「だったら、やっぱり……精霊のせいじゃないの? 花嫁を手に入れようと誘っているのかも」

 水の中に引きずり込まれた恐怖を、まざまざと思い出す。

 ——早く、こっちへおいで。私の花嫁。

 ネアッキは、そんな言葉でカティヤを誘ったのだ。

「いや……。怖い」

 今でも、全身に緑色の髪が絡み付いている気がして、思わずニューリにすがりつく。

 すると彼は、背中に手を回して、そっと撫でてくれた。落ち着かせようとしてくれているのだろう。言い聞かせる声も優しい。

「そんなはずないよ。君だって、何もいないって分かっただろう?」

「……うん。そうなんだけど……」

 強い視線を感じて振り向くと、ヴィルヨの不機嫌な顔があった。

 二人は慌てて身体を離すが、手はしっかりと握ったままだ。これだけは、放すことができない。

「今度は、僕らが先に歩いてみるよ。二人で周りを注意しながら歩けば、真っすぐ南に進めるかもしれない」

 二人で両側の木々の枝振りを確認しながら、ゆっくりと南に向かって進んでいく。

 しかし。

「くそっ! だめだ」

 ニューリの声にはっとなった。あわてて周りを見回し、呆然となる。

 今、二人の身体は、間違いなく西を向いていた。

「どうして……?」

 決して惑わされるまいと、一本一本の木を確かめながら、慎重に歩いていたはずだった。なのに、いつの間にか集中力は途切れ、頭がぼんやりしていた。

 絶句して立ち尽くしている彼もまた、自分と同じ状態だったに違いない。

「……だろ? 絶対、何かあるんだ。俺も今まで、西に向かっているなんて気付かなかった。真っすぐ歩いていたはずだった」

 後ろから着いてきていたヴィルヨも、悔しそうに唇を噛んだ。

「何かって……一体?」

 それが、自分たちに好意的なものだとは到底思えない。

 得体の知れない見えない敵に身震いした時、それとは別のぞわりとした恐怖を、背後から感じた。

「いやぁぁぁ! 何かこっちに来る!」

「カティヤ、こっちへ!」

 叫び声と同時に、ニューリはカティヤを素早く背後に庇った。腰の長剣を抜いて、身構える。

「僕につかまっていて! 決して離れないで!」

「う……うん」

 ヴィルヨが引いていたロバが、何かを感じ取ったのか、急に悲鳴を上げて暴れ出した。

「お、おいっ。どうしたんだ、急に!」

 自分以外の者たちの尋常でない様子に、ヴィルヨもよく分からないまま腰の剣を抜いた。手綱を手放したため、ロバが森の奥へと逃げていく。

「おいっ! 何が来るんだ! こっちから来るのか? 何も見えねぇよ!」

「おそらくこれは……ヒイシだ!」

 ニューリが言うか言わないかのうちに、ヒイシの大群が真っ黒な濁流となって押し寄せてきた。その数と密集した圧力は凄まじく、とても剣一本でどうにかできるものではなかった。

「きゃぁあああー!」

「くそっ! こいつら、どうしても僕らを西に連れて行きたいのか!」

 ヒイシたちに、以前のような攻撃性はなかった。ただ、二人をもみくちゃにしながら、西の方角に押し流そうとする。ニューリが必死に振るう刃に、数十体のヒイシは消え失せたが、勢力は全く衰えない。

「なんだよ! 何が起こっている。俺はどうしたらいいんだ!」

 カティヤとニューリの目には、森林の中はおびただしい数のヒイシが溢れ、四方が真っ黒に染まって視えた。

 しかしヴィルヨには、二人が何に抗っているのか全く視えない。それどころか、押し寄せるヒイシの洪水の中にいても、平然と立っていられる。もちろん、何の抵抗も感じないから、普通に動き回ることもできた。

「カティヤ、今、そっちに行く」

 ヴィルヨは急いで、二人の背後に回り込んだ。見えない力に押され、じりじりと後ずさるカティヤの背中を両手で支える。

「うおっ?」

 細い背中を通してはじめて、彼は目に視えない力を感じ取ることができた。どれだけ足を踏ん張っても、両足は土の上をずるずると滑り、後方に押しやられていく。

「くっ……。なんて力だ。どうなってるんだ!」

「もの……すごい数の、ヒイシ……に、取り囲まれてる……の!」

「大丈夫か?」

「苦し……い。潰されちゃう」

 前後から強い力で押される格好のカティヤは、息も絶え絶えになっていた。

「ヴィルヨ、無理だ! どんどん西に押しやられてしまう。ここはいいから、向こうに何が待ち構えているのか、先に行って見てくれ!」

「カティヤを置いていけるかよ!」

「僕が少しでも時間を稼ぐから、行ってくれ! ヴィルヨ!」

「行って! お兄ちゃん」

「…………分かった。カティヤ、無事でいろ」

 ヴィルヨは断腸の思いで、その場を走り去った。

「きゃあ!」

 背中を支えていたものが急になくなってしまい、カティヤは後ろにつんのめった。しかし、背中側にもヒイシが入り込んでいるため、倒れることはなかった。

 地面に低く伏せれば、ヒイシをやり過ごしやすいだろうが、周囲をぐるりと取り囲まれてしまいできない。大木にしがみつくことも無理だった。二人の体力はどんどん削られ、押し流される速度は増していった。

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