(2)
はっと目を開くと、折り重なって空を隠すトウヒの枝が目に入った。濃緑の隙間から柔らかな日差しが降ってくる。いつもと変わらない、穏やかな森の中。
「気を失っていたのか……」
ニューリッキは上半身にかかる重みを不思議に思いながら、ゆっくりと身体を起こした。そして、自分の上からずり落ちたものに息を飲んだ。
この娘は——。
慌てて抱きとめた少女はうつぶせで顔が見えなかったが、緩やかにうねる明るい金色の髪に見覚えがあった。身につけている赤と緑のストライプのスカートや、黒いベスト、少し汚れた白いエプロンも見たことがある。
驚きながらも、少女の身体を上向きにした。
「ああ……。やっぱりそうだ」
いつも薔薇色に染まっていた頬は青白く、長い睫毛から落とされた影もあいまって、普段と違った儚げな印象を与えている。そしてどういう訳か、小さく整った唇とその周りが、鮮やかな紫色に染まっていた。
ふっと、甘酸っぱい香りが鼻についた。同時に、同じものを自分の口中に感じる。
それがムスティッカの香りだということには、すぐに気付いたが、口の中の違和感をどう表現していいのか分からなかった。口の中を舌でぐるりと探ってみると、その感覚はふわりと優しく、決して嫌な感じではない。しかし、これまで経験したことがない感覚だ。
思わず手の甲で口を拭うと、肌が彼女の口の周りと同じ色に染まった。
「なぜ、ムスティッカが……?」
しかし、その理由を考える前に、目に留まった自分の手の大きさに息を飲んだ。
彼女の手と見比べると、大きさは同じぐらい……いや、むしろ小さい。慌てて自分の細い腕や肩、小さな足を確認する。明らかにおかしい。夢などではない。
「いったい……何が起こったというんだ」
どうやら自分は、五百年以上昔の、少年時代の姿をしているようだ。
呆然としながらも、無意識のうちに腕の中の少女をぎゅっと抱きしめた。
よく森で見かけていた可憐な少女の、ふにゃりと柔らかな感触。重み、体温。
若返ったかのような自分の姿。
自分の身に一度に起きた、信じられない現象の数々に混乱する。
顔の周りにつきまとうように漂う、ムスティッカの甘酸っぱい香りに、頭がくらくらした。
「……何が起こった?」
もう一度、自分に問うように同じ言葉を繰り返す。
そうだ。ヒイシが……。
ニューリッキはことの発端を、記憶の中からたぐり寄せた。
ヒイシは大樹に宿った精霊が、その木が朽ち果てた後も消えずに残ったもので、自然豊かな森の中では珍しくない。霊感の強い人間が、黒くぼんやりとした姿を目撃して悪霊だと騒ぎ立てるが、実際には、そこに漂っているだけの限りなく無に近い存在だ。
父親である森の王タピオに代わってこの森を治めるニューリッキにとっては、彼らもまた、大切な自分の森の一部だった。
しかし、そのヒイシたちが、一変して自分に襲いかかってきた。
意志らしい意志を持たず、群れることもないはずの彼らが、はっきりとした悪意を向けて、自分を取り囲んでいたのだ。
もとは無害な存在だと知っているから、ニューリッキは最初、手出しできなかった。腰の短刀を抜いて構え、彼らに命じる。
「やめろ。お前たち! おとなしくねぐら(ヒートラ)に戻れ!」
森の主であるニューリッキは、その声だけで森の全ての生き物を従わせることができる。しかし、狂ったように暴れ回るヒイシたちには、全く効かなかった。こんなことは初めてだった。
「くそ……っ。どうなっている」
より凶暴化し、次々と襲いかかってくるヒイシに、とうとう応戦せざるを得なくなった。儚い存在の彼らは、短刀で斬りつけるだけであっという間に消えてしまう。しかし、後から後から涌いて出てきて、きりがない。
このままでは、いつかやられる。
ニューリッキはヒイシの大群を相手にしながらも、彼らがこれほどまでに狂ってしまった原因を探っていった。森の木々や草花、鳥や獣や虫たちの意識を読み取り、広大な森全体を捜索していく。すると、森の北の奥に邪悪な存在を発見した。
「見つけた! 全ての元凶はあれか!」
あまりに遠いため、正体までは分からないが、強烈な悪意がまっすぐ刺すようにこちらに向かっている。
その力が、ヒイシたちを操っていることは疑いようがなかった。
「僕の森を荒らす者は、許さない!」
左の拳を軽く握り、北の方角に突き出すと、次の瞬間、その手に大きな弓が握られた。次いで、何も持たない右手でその弦を引くと、空中に矢が現れる。
鋭い視線で森の奥を睨み、弓をきりきりと最大限に引きしぼる。
その緊張を解き放つと、風を切る鋭い音が空を切り裂いていった。
狩猟の神とも呼ばれるニューリッキの矢は、森の中であれば、目標に向かってどこまでも飛んでいく。放たれた矢は、重なり合う木の幹を縫うように避けながら、速度を落とすことなく森の奥に消えていった。
矢は敵に命中したのだろう。しばらくして、ヒイシたちの動きがぴたりと止まった。彼らの悪意も火が消えるように失われ、続いてその姿がさらさらと崩れていく。
「よかった」
風に吹かれて消えていく生き残ったヒイシたちは、きっとねぐらに戻っていくだろう。
安堵しながらその頼りない影を見送っていると、足元がぐらりと揺れた。
しまった。力を使い果たした……か。
そう思うか思わないかのうちに、意識が遠のいていった。