(4)
「おーい、カティヤ! ニューリ! どこにいる」
微かな呼び声が聞こえてきて、ニューリが僅かに身体を起こした。
その動きでカティヤも目を覚ます。
「ヴィルヨが戻ってきたよ」
まだぼんやりしているカティヤの頭を何度か撫でてから、ニューリが立ち上がった。道の上できょろきょろと辺りを見回すヴィルヨを、木の陰からそっと手招きする。
「どうした?」
身を隠していた二人に気付いたヴィルヨは、何かを察したのか、あたりを警戒しながら慌てて近づいてきた。
「お兄ちゃん、どうしよう……。町の人に、赤い目を見られちゃった。それで、精霊の花嫁じゃないかって疑われて……」
「なんだって!」
「僕が目の病気だって説明したけど、納得していないみたいだった」
二人はヴィルヨが留守の間に起きた事件を、事細かに説明した。
トントゥにスカーフを奪われたこと。
道に飛び出して、馬車に轢かれそうになったこと。
そして、真紅の瞳を見てしまった農夫とのやり取りの一部始終。
「そうか、まずいことになったな。変な噂にならなきゃいいが……」
「ねぇ、すぐに出発しよう。ここにいるのは怖いわ」
その言葉に、ヴィルヨは空を仰ぎ見た。高く広がっているのは、憎らしいぐらいの青空だ。夏の日差しの眩しさに、思わず目を細める。
「なるべく早く、ここを離れたいところだが、まだこんなに明るいからな。下手に町の中を歩いて、また誰かに気付かれたら厄介なことになる」
ヴィルヨは腕を組んで考え込んだ。
さっきまで買い物に出かけていた町は、これまで通過してきた町の中ではいちばん大きく、人通りも多かった。通り抜けるにも、かなり時間がかかりそうだ。
「でも、こうしている間に、あの男が精霊の花嫁がいたと言いふらしてしまったら、どうするの?」
化け物でも見るような視線を、まざまざと思い出す。
噂が広まれば、真相を確かめようとした人が、ここまでやって来るかもしれない。嫌悪と好奇に満ちた目をした大勢の人々に、取り囲まれるかもしれない。
だから、危険が伴うことは分かっていても、少しでも早くここから逃げたかった。
「お前の気持ちも分かるが、判断に迷うところだな。……うわっ!」
少し先に見える町に視線を向けようとしたヴィルヨが、途中で動きを止めて、いきなり大声を上げた。
「どうしたの?」
「あいつ、寝ちまいやがった。今日は少し無理をさせたから、あの様子じゃ、なかなか起きねぇぞ」
ヴィルヨが指差す先を木の陰から覗いてみると、買い物の荷物を背負ったままのロバが、草の上にくたりと寝そべっていた。ああなってしまったら、無理矢理起こしたところで、不機嫌になって言うことをきいてくれないだろう。このまま寝かせておくしかない。
「そんなぁ……」
頭を抱えて小さくなったカティヤの横に、ニューリが腰を下ろす。
「あれじゃ、しょうがないよ。きっと、今は行くなっていうことなんだよ」
「でも、ここにいるのは怖い」
「僕もヴィルヨもいるんだから、平気さ。今のうちに、できるだけ安全な方法を、じっくり考えよう……ね?」
そう言われても、今はなす術がないことにじりじりとした焦りを覚え、カティヤは膝に顔を伏せるとうめき声を上げた。その頭の上に、大きな手がぽんと乗った。
その重みだけで分かる。ヴィルヨだ。
「まぁ、そんなに焦るな。俺がついてるからよ」
少々乱暴な仕草で髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜられ、顔を上げると、いきなり何かを口に突っ込まれた。
「む……くっ」
一瞬、息が詰まったが、すぐにふわりと感じたシナモンの香り。ふかふかした食感。少し遅れて、強い甘味と香ばしさも。
「おいしいっ!」
口の中のものを夢中で飲み込み、かじりかけのパンを手にヴィルヨを見上げると、彼は、少し照れながらも満足そうに笑った。
「だろ? ちょうど焼きたてだったから買ってきたんだ。お前、甘いパンが好きだっただろう? ほら、もっと食いな」
彼は袋からもう一つパンを取り出すと、カティヤの手に押し付けた。
甘い香りを漂わせる二つのパンを、カティヤはじっと見つめる。
お兄ちゃんは、わたしのことをいちばん知っている人だ。何が好きなのか、どうすれば喜ぶのかを誰よりも分かっている。そして、何よりもわたしを大切にしてくれる。
あぁ、わたしの居場所はここにもあった。
当たり前すぎてこれまで気付かなかった、兄と慕ってきた人の大きさと優しさに、胸が震えた。
「お……兄ちゃん」
顔を上げると、ヴィルヨはぎょっとしたような顔になった。そして、慌てた様子でパンの袋を脇に置くと、両膝を草に落とす。
「な、なんだ? どうした! そんなに怖かったのか?」
心配そうな青い瞳が覗き込む。とまどいを隠せない大きな親指が、カティヤの目の縁に浮かんだ涙をぬぐっていく。
それでようやく、自分が泣いていたことに気付いた。
「ううん、違う! うれしかったの。これ、ほんとにおいしい! ありがとう」
カティヤはパンを握ったままの両手の甲で涙をごしごし消すと、食べかけの甘いパンを口いっぱいに詰め込んだ。




