(5)
男の子の姿に戻ったニューリと一緒に、まず、壊れた玄関扉の応急処置をした。それから、荒れ果てた家の中を簡単に片付けた後、旅に持っていく着替えや身の回りのものの荷造りを始める。各地を転々として暮らしてきたカティヤにとって、こういった作業は慣れたものだった。
一通りの荷造りが終わると、今度は家中の食料をかき集めた。日持ちのしない食材や、旅先では使いづらい粉類をすべて調理してしまうのだ。
「それは何? 何をやってるの?」
ライ麦の粉に、水とバターと酵母を入れて練っていると、ニューリが不思議そうに手元をのぞきこんできた。
「パンを焼くのよ」
「パンって……これが?」
リング状に成形された、ふよふよしたねずみ色の生地を指先でつつきながら、ニューリは納得がいかないという顔をした。
「ニューリって本当に何も知らないのね。これを発酵させてから、釜で焼くとパンになるのよ」
「へぇ……すごいね。これが、あんなにおいしくなるんだ」
カティヤはさっきからずっと、質問攻めにあっていた。
森の中で暮らしていたという彼は、普通の生活のことを、本当に何も知らなかった。掃除に使った帚や雑巾も。ベリーのジャムを煮詰めるときに使った砂糖も。
ちょっとした悪戯心で塩を舐めさせてみたら、盛大に悲鳴を上げた。
「ひ、ひどいよ、カティヤ。口の中が……苦しい」
「ごめんなさい。そんなにいっぱい口に入れるなんて、思わなかったんだもん」
慌ててカップに入れた水を手渡すと、彼は一気に飲み干した。
「お砂糖もお塩も知らないなんて、一体これまで、どういう暮らしをしていたのよ?」
あきれてたずねると、彼はあいまいに笑うだけで答えてくれなかった。
釜からパンが焼ける香ばしい香りが漂い始め、外の明るさが少しだけ落ちた頃、玄関扉が耳障りな音を立てて開いた。
ヴィルヨが息を切らして駆け込んでくる。
「分かったぞ! パンキクッカはやっぱりこの国の南にある!」
「ほんと?」
目を輝かせて駆け寄ると、彼は抱えていた包みを手渡しながら話を続けた。
「ああ。肉屋の主人が知っていたよ。奥さんが、パンキクッカ近くの村の出身なんだそうだ。あいにく奥さんは出かけていて、詳しい話が聞けなかったけどな」
「そこって遠いの? 何日ぐらいで行ける?」
「馬車で四、五日って言っていたから、歩けば十日以上はかかるな」
「そっか。あと十日……」
貧乏暮らしだから馬車など用意できるはずがない。当然、徒歩での長旅になるが、あと十日の後には、まだ見ぬ故郷の地に立てるのだ。そこに、自分にはいないと思っていた両親が生きているかもしれないと思うと、否が応にも心ははやる。
「今晩のうちに、発つんでしょ? 荷物はできてるわ。もうすぐパンも焼けるし」
こういうときはいつも、夜中にこっそり出発していた。夏は真夜中でも明るいから、闇にまぎれて移動することはできないが、夜中の方が誰かに出くわす可能性は低い。だから、大急ぎで旅支度を整えていたのに、ヴィルヨは首を横に振った。
「いや。南に向かうのなら森を抜ける方が早いし、人目にもつかない。それなら夜中に出なくても大丈夫だから、少し寝かせてくれ。昨晩から、ほとんど寝ていないんだ」
ヴィルヨは大あくびをしながら、部屋の隅にしつらえてある自分のベッドまで行くと、ごろりと横になった。この先の見通しが立ったことで、どっと疲れが出たようだ。
「駄目だ。森は危険だ」
目を閉じたとたんに聞こえてきたニューリの声に、ヴィルヨは面倒くさそうに片目を細く開けた。
「はぁ? お前、狼だって手なずけているんだろう? 危ないことなんてねぇよ」
「動物たちはきっと、すぐに僕の手に負えなくなるだろう。あの森は、今……」
深刻そうな口調に、カティヤははっとした。
昨日、森で怖い思いをしたばかりなのだ。
「もしかして、ヒイシ?」
「うん。ヒイシもそうだ。今、あの森には主がいない。だから、何が起こるか分からない」
「主がいない? タピオがどっか行っちまいでもしたのか?」
タピオは森林の神として、この国の人々の絶大な信仰を集める存在だ。妻は、森林の女神ミエリッキ。狩猟の神ニューリッキと、動物を司る女神トゥーリッキの二人の子どもがいることもよく知られている。
眠気が勝るヴィルヨが冗談半分に言った言葉だったが、ニューリは言葉を選びながら真剣に答える。
「いや、この辺りの森の主はタピオじゃない。昔はタピオがこの世のすべての森林を支配していたけど、今は森を分割して一族の者達に任せ、自分は北の端の森を治めているんだ」
各地を転々とし、いろんな伝承を耳にしてきたが、そんな話は初耳だ。カティヤは目を瞬かせた。
「そうなの? じゃあ、この辺りの森の主は誰?」
「ここら一帯は、ニューリッキが治める森だ」
「ニューリッキ? 狩猟の神のか? そういや、タピオの息子だったっけ?」
ヴィルヨは眠気と戦いながら、話半分に聞いている。
「そう。だけど今、ニューリッキは精霊の力を失くしていて、主の役目を果たせなくなっている」
「だから、ヒイシが出てきたのね」
「え……? あ、あぁ、そうなんだ」
実際には、そういう理由でヒイシが出現した訳ではなかったから、ニューリははっきりしない口調で肯定した。
「君は精霊の花嫁なんだ。君の目は普通の人間には視えないものを視るし、その手で触れることもできる。それはつまり、精霊や悪霊たちも、君に触れることができるってことなんだよ」
その言葉に、カティヤはぶるりと震えた。
ヒイシと出くわしたのは、あの瞬間に、精霊の花嫁の力が目覚めたからだろう。
たくさんの黒い影が飛び回る光景は、あまりにも凄まじかった。そしてその一つが腹にぶつかったときは、息が止まるかと思うほどの衝撃だった。
確かにあの時、ヒイシは自分に触れたのだ。
そうだ。ただ視えるだけじゃ、すまないんだ……。
ヒイシに襲われ気を失っていた、ニューリにそっくりの幼い子どもの姿を思い出す。
消えてしまいそうに微かな呼吸。冷たく青白い肌。力なく下がる腕——。
自分が、彼と同じ目に遭うこともあり得るのだ。
「で、でも、ニューリだって、そうなんでしょ? ヒイシに襲われたっていうことは、ちゃんと視えるし、触れられるんでしょ?」
ニューリも自分と同じなら少しは心強い。そう思ったが、彼は小さく首を横に振った。
「あのときまではそうだったけど、今の僕は多分、視えないし触れられない。だから、もし君がヒイシに襲われても、助けてあげようがない」
「そんな……」
「だから君は、森にはできるだけ近づかない方がいい。僕はあの森のことを知り尽くしているけど、だからこそ怖いんだ」
いつの間にか、ヴィルヨはベッドの上に起き上がり、腕を組んで考え込んでいた。
「分かった。町を通って行こう。だが、この町は小さいから、通り過ぎるだけならもう少し後に出ても大丈夫だろう。仮眠するから、しばらくしたら起こしてくれ」
ごろりとベッドに横になったヴィルヨは、あっという間にいびきをかき始めた。
「もう……。お兄ちゃんったら」
荷作りを解いて毛布を取り出すと、彼にかけてやる。
どれほど疲れているのか、いびきの音が響くだけで、ぴくりとも動かない。
「ごめんね。ありがとう」
いつものように、兄の横顔にキスしようとしたが、どうしてもできなかった。




