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そうじゃない

作者: 重山ローマ

 

 僕が彼と出会ったのは、仕事帰り――いつも通りスーパーで買い物を終えたところだった。


 僕はいつも買い物を終えると、休憩を兼ねて行きつけの喫茶店に行く。

 そこは、すごく言いにくいのだけれど、長い間お世話になっておいて言うのはおかしなことなのだけれど――この際はっきり言っておく。

 その喫茶店は流行っていない。

 そしてその理由は、出される料理がなんというか、これも言いにくいのだけれど――まずい、ということにある。


 だというのに僕がなぜ今も、その――――料理のまずい店に行くのかというと、いろいろの理由がある。

 そのことについては、また今度話すことにしよう。

 まずここで話さなければならないのは、やはり彼と僕の出会いの話なのだから。



 佐藤健太という名前は、だれもが聞いたことがあるだろう。

 ああ、ここで誤解してもらうと困るので言っておくけれど、僕自身の名前を聞いてことがあるということじゃなくて、佐藤という音、健太という音を聞いたことがあるのではないか? という話だ。

 まさにありふれた名前――平々凡々な名前だ。

 そんな平々凡々な僕、佐藤健太は、今年で三四歳。

 なんというか、まさにいい年をしたおっさんだ。

 仕事を終え、買い物を終え、この間中古で買ったばかりの愛着のわかないママチャリを走らせる。

 ピンク色の派手な自転車で、僕の趣味とはかけ離れたものだが、安かったのだからしかたない。


 いつも通り喫茶店に向かう。

 商店街の中をすぅと通り抜け、慣れたように左に曲がった。

 鼻歌交じりに、僕は左折したのだった。

 その際、その角に座り込んでいた少年を轢いてしまったことについては、忘れたい。

 忘れてしまいたい。初めてだれかを轢いたという感触――やってしまったという悲壮感――。

 まあ、いまとなっては忘れてしまっているようなものだけれど。

 なんというか、そんな話がいったい何なんだと言われそうだけれど、どうでもいいとか思われそうだけれど、残念ながらその轢いた少年というのが彼だったのだからしかたない。

 人と人の出会い方としては相当悪いものである。

 初めて交わした言葉が悲鳴と悲鳴なんていう人はなかなかいないだろう。


 それから暫くして――。


「よっす健さん。今日も奢られに来ました」

「はいはい、わかってるわかってる」


 買い物袋をそのまま店内に持ち込んだ僕は、いつもの席に座った。

 隣にはまたいつものように彼が座っている。

 僕が自転車で轢いた――僕の自転車に轢かれた男だ。

 幸いお互いに怪我はなかったとはいえ、何もしないわけにはいかなかった僕は、彼をこの喫茶店に連れてきてコーヒーを奢ってやったのである。

 奢ってやったというのはずいぶんと上からな物言いのようであるが、こいつの態度をみれば誰だって許してくれそうだ。


「健さん、今日はウインナーコーヒーがいいっすね」

「いいっすねじゃないよ、まったく……。咲ちゃん今いいかな」


 手を挙げると、掃除をしていた女性店員が駆け寄ってくる。

 彼女、遠田咲とおださきは、この店の看板娘というやつである。


「ウインナーとコーヒー2つ頼むよ」


「はいはーい。ちょっと待ってて」


 道具を片付けて、咲ちゃんは手を洗っている。


「一本オマケしてよ、咲」


「健さんにならいくらでもオマケするけど。あんたはダメよ」


「なんでだよ。冷たいな」


 文句を言う彼を無視して、咲ちゃんは手を洗っている。

 カウンターで目の前で作ってもらえものは、例え味が悪くても美味しいと思ってしまうものである。


「……」


 普通のお店の場合は、と条件はつくけれど。


「店長、コーヒー2つでーす」


 奥の方から声が聞こえる。

 この店は料理は目の前で作るわりに、コーヒーだけは隠れるように奥で淹れてくる。

 個人的な感想で言えば、この店のコーヒーは美味しいと思うときもある。

 なんだかはっきりとしない言い方のようだが、だれでもそう言うに違いない。


 苦いと思うときもあれば、飲み込めないほどに甘いときもあれば――梅干しのほうがまだマシだと思うほどに酸っぱいこともある。

 辛いがないのは、なんというか安心できるのだが――だからといって異常に甘いときばかりはコーヒーだけででる味ではないなとは思うのだけれど。


「おお! 今日はシャウエッセン!? いいの!?」


 咲ちゃんが冷蔵庫から持ち出してきた袋を見て、彼は声をあげて喜んだ。


「安売りしてただけだから、また今度来たときに出してって言われても無理だからね」


「うんうん」


「聞いてる?」


 フライパンを転がるウインナーを目で追って、彼は何度も頷いている。

 いつものことだ。

 彼は聞いていない。

 ああそれと、ウインナーコーヒーといって、本当にウインナーを出すお店はここくらいだろう。

 生クリームが乗っているのが一般的なウインナーコーヒーというものだが、この店、コーヒーになにかを入れることを禁止している。

 まるで日替わりのように味の変わるコーヒーには、何かを入れてしまえば最後、劇薬でもできてしまいそうなので納得できなくもないが。


「こ、焦げる!」


「焦げないってば、店員に文句言わない」


 二人言い合う姿を眺めて、買い物袋からチュッパチャップスを取り出した。

 棒にへばり付いた包装に舌打ちをしながら、やっとの事で取り出した溶けかけの飴を咥える。

 ある日、タバコを吸った事がない僕は、その姿に憧れたわけではなかったが、何かを咥えていると落ち着くということに気がついた。

 そこでたどり着いたのがこれである。

 本当はタバコを買おうとしたのだが、いざコンビニに立ち寄って番号を睨み、何が何だかわからなかったので――レジの前に転がった、値引きチュッパチャップスを一つ買って帰ったのだ。

 なんて度胸のない男なのかと悲観したけれど、タバコよりは安い。

 それに、一日何個も食べられるものではないし。


「割れた! 割れたよこいつ! ほら、これこれ!」


「わ、割れてないってば! ちょっと、おとなしく座ってて!」


「割れたやつは食わないからな! 絶対に! 肉汁の分値段引くって言われたって嫌だからな俺!」


「あーあー! 仕方なくわざと一本割って、それをおまけとしてあげようと思ってたのにそんなこと言われたらもうあげないからね! これ健さんにあげるから!」


 いつも通り騒がしい二人だなと眺めていると、箸で摘んだウインナーをぐいぐいと顔に近づけてくるではないか。


「ほら、健さんあーん! あーん!」


「いやいやいやそれ焼きたてじゃないか? 火傷するって――熱っ!」


 無理やり鼻にぶつけられて飴を吐き出す。

 あまりの熱さにはたき落したウインナーは、机の上で哀愁を漂わせて横たわっていた。

 中から溢れ出す肉汁のせいか、なにかよからぬことをしてしまったようで――。


「……」


「よし」


 食べていいかと無言で睨む彼に権利を譲って、また飴を咥えた。

 満面の笑みで頬張る彼を横目に軽くため息をつくと、すっと、何かが横切った。


「――――どうぞ」


「っ! ど、どうも」


 いつものことであっても、このことにだけは慣れない。

 何度経験しても、その人物がわからない。

 把握することができない。

 これもまた、この店が繁盛しない理由なのだろうが――ここの店主は不気味である。

 異常にまで歪んだ猫背に、まんまるの小さなメガネ。

 一歩一歩、音も立てず歩く様は奇妙で、恐怖感すら覚えるほどである。


「相変わらず、か」


「ん? どうかしました?」


 のんきにウインナーを咥える彼だけは、あの店主に慣れているようだが。

 この場合彼が異常だというだけで――一度自転車で轢かれた相手と仲良くしようとするなんて――それを良しとした僕も同じようなものなのかもしれないけれど。


「健さん、携帯なってるっすよ」


「ん?」


 買い物袋の中でもぞもぞと動く携帯を取り出して、ペタペタと確認する。

 メールのようだ。

 目を通して、そのまま倒れてしまいそうだった。


「仕事ですか?」


 咲ちゃんの声に無言で頷いて、買い物袋を抱える。

 立ち上がりながらコーヒーを流し込んで――今日はまだましなようだ。

 財布から取り出した千円を彼に預けて、店の外に出た。

 もう日は沈んで、街にはあかりが灯っている。


 灯りを避けるように暗闇へ。

 また帰っていく。

 もう皆帰っていくだろう。

 僕も帰る。暗闇へ。




 特別なんかじゃない。




 外を眺めて、街の灯りは消えていく。

 しばらくすれば、街は照らされるだろう。

 部屋の中に響く、唸るようなイビキを聞きながら、自販機で買ってきた缶コーヒーを啜る。

 なんだか物足りないと思うようになったのは、あの店のコーヒーを飲んだ時からだったか。

 美味しくないことの方が多いのだけれど、なんだか忘れられないのだ。


 甘い恋の味がした、と彼は言った。


 苦い憎しみの味がした、と彼は言った。


 まあたしかに、言われてみれば分からなくもなかったが。

 うん、甘いからこれは恋の味だな、なんていい年のおっさんが言えることではないし、同意はしなかったけれど。

 なんだかそのように感じたのは嘘ではない。


「……そろそろ寝るか」


 牢獄の中で生きている。

 きっと、特別なんかじゃない。




 彼と話したことがある。

 話を聞けば彼は何もしていない人間らしい。

 生きること以外、なにもしたくないらしい。

 働くことだってしない。

 彼は何もしなくても、何かを得る才能のようなものがあった。

 例えば好きな時にコーヒーをおごってくれるおっさんや――家を譲ってくれた老夫婦――その他たくさん。

 ただ皆が彼にしていることは、好意でやっていることである。

 僕だってそうだ。

 彼にはそうしたいを思わせる何かが、やっぱりあるのだろう。


「将来はどうするんだ?」


 僕の問いに彼は笑った。


「そんなこと、死んでから考えればいいじゃないっすか。死んだらいくらでも時間ありますし」


 なにかしたいとか、そういったことはないのだと、彼は言うのである。


「じゃあ、健さんはどうです?」


 逆に聞かれて、僕は言葉を失った。

 今の仕事が有意義なものだとは言えないし、この先に何かがあるとも思えない。


 それに、僕はもう諦めた人間だ。

 それはきっと、特別なんかじゃない。

 皆が同じだ。

 そうだ、でもひとつだけ、思っていることはあるかもしれない――。


「幸せになりたいかもしれない」


 彼は僕の言葉を復唱して、腹を抱えて笑った。


「ずいぶん曖昧っすね」


「君よりマシだろ」


 結婚とか、そういうことではないのだ。

 ただ、自分の生を全うしたいだけなのだ。

 正直に言うと僕は、彼のその生き様が、羨ましいと思った。




 変なことを思い出したせいで眠れない。

 僕は仕事場から外に出て、近くの公園に来た。

 錆び付いたベンチに座って、控え目に降り注ぐ朝日に眼を細める。

 薄く伸びた影が、惨めに思えた。


「幸せになりたい、か」


 空の缶を振って、ほんの少し離れたところにあるゴミ箱に投入れる。

 当たり前のことだが、普段運動をしないおっさんに、そんなことが上手にできるわけもなく、ほんの数メートルの距離――ゴミ箱にも届かず土を転がる。

 かすりもしない。

 高さも、距離も、何もかもが足りなかった。


「――」


 言葉が出てこない。


「何を――」


 風に煽られて転がっていく缶を目で追う。

 先には砂場だ。

 そこに落ちれば、もう缶は元に戻れない。

 そこは底なし沼のように、落ちたものを逃がさない地獄のような――。


「僕は何をしているのだろう――」


 だれかの言葉を思い出していた。


『いいところで働いてるじゃん。幸せじゃないか』


 だれかの言葉を思い出していた。


『毎日弁当って、新婚は羨ましいな』


 ――の言葉を思い出していた。


「いろんな場所に行きたい。ひたすらアルバイトしてさ、お金が貯まったら旅に出て、なくなったら帰ってくる。帰ってきたらまたアルバイトさ。人間っていつか死ぬだろ? だから見て回るんだ。死ぬまでに、僕が知ることができるものは全部知りたい。全部見ておきたい。だから僕はずっと、そうやって行きていきたいんだ」


 ――の言葉を思い出していた。


『それは、働いて定年してからでもいいじゃないか。休みだってあるのだから』


 ――の言葉は、失われていた。






「もし――」


 急な声に顔を上げる。

 猫背の老人。

 あの店の店主だ。

 外で出会うのは初めてのことだった。

 いつもなら驚くところだが、なんだか今はそうならない。

 やけに心が落ち着いていた。


「等価交換です。ええ、貴方がいらないものをわたくしに頂けませんかな?」


「僕は――」


 いらないものを考えた。

 考えているうちに、我慢できなくなって涙を流した。


「それなりにいい会社で働いて、結婚して……。何もないよ、僕には。だって、僕は妻の道具だ。親の道具だ。ただ、お金を拾う死人だよ」


 夢があった。

 諦めた僕でも、そのことだけは、忘れられなかった。


「生きてるって、実感なんてないさ。妻の顔を見るたびに、吐き気を覚える。親の声を聞けば死にたくなる。あいつら言うんだよ、『お前は幸せ者だ』って。こんなこと、だれも望んじゃいないのに」


「ええ、わかりますとも」


 店主の声は、なんだか心地の良いものだった。


「こんな『幸せ』なんていらない。まるで死んでいるような幸せなんて、いらない。僕に残された生は苦しみだけだ」


「承りました――」


 老人は醜い笑みを浮かべて、僕の手のひらを握った。


「貴方の『幸せ』確かに、頂きました――」


「――あ?」


 何かが溢れていく。

 体の中にあったものが失われていく。


「な……にを?」


「等価交換です。ええ、貴方の『幸せ』は『死』と同意。貴方の『幸せ』を受け取る代わりに、わたくしは貴方に『死』を差し上げなければ」


 抵抗することなんてできなかった。

 いや、初めから、そんなことするつもりなんてなかったのだろうけれど。


「『死』はきっと、貴方にとっての『幸せ』ですよ」


 皆同じだ。特別なんかじゃない。






 少年はベルのついた扉を押して、喫茶店に入る。

 いつもは掃除ばかりしている店員は、珍しくカウンター席に座って、うつむいたまま動かない。


 彼は黙って、彼女の隣に腰掛ける。

 ソーサーにも乗せず、カップだけをテーブルに置いて、彼女は泣いている。

 淡いピンク色のエプロンに涙が落ちて、じんわりと染みを作る。

 ずっとそうしていたのか、彼女の頰には涙の跡がくっきりとついてしまっていた。


「貰うよ」


 彼は恐る恐る口をつけて、余りの苦味に眼をおさえた。

 伝わってくる何かがそうさせるのだろうか――彼の頬にもまた、涙が走っていく。


「今日のは一段と苦いな、咲」


「……何も言わないで」


 彼はまた一口飲み込んで、吐き出したくなるのを堪え、一気に飲み干した。

 涙ぐむ彼女は彼の横顔を見上げ、震える口で無理に笑みを作る。


「また、止められなかった」


 彼は涙を流したまま、震えた声で話す彼女の頭に手を置いた。

 彼には何もわからないが、ただ、もうあの人には会えないのかもしれないと考えていた。






 これは風の噂だが、この街のどこかにある喫茶店のコーヒーは味に波があるらしい。

 ここ最近は随分と苦味の強いものになっていたそうだが。


 またコーヒーの味が変わったそうだ。


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